第三十九話 学園長の願い
早朝の涼しげな空気の中、『学園』の中庭では早起きな鳥たちが心地よい歌声を奏でている。
その歌声を堪能することなく、少女は足早に中庭を横切った。
彼女は脇目も振らず、真っ直ぐに尖塔を目指している。
最初よりものぼり慣れた階段を軽々上がって、学園長室にたどり着くと、ルクレツィアは安堵の息をついた。
慣れるほど『学園』訪れるつもりはなかった。
けれど、国王陛下であるセヴェリオからの依頼ともなれば、生半可な理由では断れない。
結局、彼女は国王陛下直々の依頼により、幾度となく『学園へ』足を運ぶこととなったのだ。
「今日はあの方々と会わずに済みましたわね」
ルクレツィアが『学園』に来るたび、結構な確率でアマーリエや王太子と遭遇していた。
階段で足を踏み外すアマーリエを階段の上から見かけたり、令嬢たちに囲まれて難癖を付けられている横を通りがかったりと、どれも計ったかような状況である。
しかし今日は何事もなく学園長室にたどり着けた。
そのことを喜ばしく思いながら、ルクレツィアは扉を拳で軽くたたく。
「どうぞ」
短く、しゃがれたような声が入室を促す。
大きくて重厚な扉を開くと、むわりとした古い本の香りがあふれ出る。
部屋を囲むたくさんの古い本に、何に使うのか分からない器具たち。
不思議な光に満ちた部屋は相変わらずである。
この部屋だけ、外界と切り離され、時間が停滞しているかのよう。
そんな感想をいだきながら、ルクレツィアは学園長室へと足を踏み入れた。
「たびたび足を運んでもらって、すまないね」
少女を迎え入れた学園長は、前にあった時よりも、少し年老いて見えた。
「いえ、わたくしの方こそ。お疲れのところ、申し訳ございません」
「いいや、ご令嬢が気にする必要はないが……最近、学園で貴族同士の衝突が頻発しておりましてな」
「貴族同士の衝突、ですか」
「年頃の娘達には、王太子殿下がよほど魅力的に見えるらしい。見目麗しく、有望な男を巡って適齢の少女たちが争い合っておる。その逆もまた然りということですな」
「下位の貴族や平民にとって、学園は見合いの場でもあると聞いています。小さな諍いくらい、仕方ないのではないでしょうか」
「たしか、王太子殿下の婚約者は貴女さまではなかったですかな。随分と落ち着いていらっしゃる」
「わたくしと殿下の婚約は親が決めたことですから」
「本意ではないと?」
「いいえ。そのようなことはございませんが」
否定しつつ、ルクレツィアの脳裏に浮かんだのは、カルロの眩しい笑顔だった。
彼の笑顔は彼女の心を浮き立たせ、自身が貴族であることも、来るであろう未来のことも忘れ、自由を感じさせてくれる。
人間である少女に翼はない。
けれど、彼が語る広大で果てのない空を、いつしか共に飛ぶことができたなら、どんなに楽しいだろうと夢想したこともあった。
「ふむ。みな、ご令嬢ほど落ち着いていれば、儂の苦労も少しは減るのですがね」
短く息をついて、学園長――ティートはルクレツィアに長椅子へ腰かけるようすすめた。
「いいえ。今日はこれから出かけますのでお構いなく」
「おや、どちらへ行かれるので」
「陛下の依頼で、アルシエロまでいってまいります」
「ほう。世界の終りですか。あの地も実に興味深い土地ですな」
「興味深い、とは?」
「あの地には、極端に魔力が少ない。枯渇していると言ってもいいでしょう。しかし、元はもっとも自然豊かで、大陸一の大国だったと文献にある。ならば、大地から魔力が枯渇するほどの事態を引き起こしたのはなんなのか、気になりませんかな?」
「それは、確かに興味深いですね」
夜会のときニコラから聞かされた話がルクレツィアの脳裏をよぎる。
しかし、ティートに話すのならばもっと詳しい内容を確認してからにするべきだろう。
そう判断し、彼女は口をつぐんだ。
「もしも、あの地で見聞きした出来事にその手がかりがあれば、ぜひ儂にもお教え願いたい」
「わかりました」
頷いて、ルクレツィアは国王陛下から預かった木箱をティートに渡した。
両手で抱えるには小さく、さりとて、片手で持つには大きい箱。
この箱に何が入っているのか、彼女は知らない。知る必要もないと思っていた。
ティートは宝物でも入っているかのように、恭しく受け取ると、ルクレツィアに礼を言う。
「感謝いたしますぞ、ご令嬢。あなたのお蔭で儂の研究も随分とはかどりました。成果をお見せできないのが、心苦しいですがな」
「お気になさらず。国のための極秘の研究であれば、知らぬ方がよいでしょう」
「まこと賢い"娘"を得て、ホフレは幸福な奴だ。この研究の件でご令嬢に依頼が行くのは、此度で最後となりましょう。次に……仕事抜きでお会いする機会があれば、その時はぜひ、儂の娘と会うてやってくだされ」
「娘さんとですか」
「はい。魔術師としては不出来だが、心根は優しい子でしてな。母を亡くし、儂はいつまで生きられるかもわからぬ。ですから、ご令嬢のように賢く素晴らしい魔術師が、友としてそばに居てやってくれれば、これほど心強いことはないでしょう」
ティートも魔術師である前に、父親だということだろう。
いつになく多弁で、熱っぽく言葉を紡ぐ彼に押されて、ルクレツィアは小さく頷いた。
「会ってみないことには何ともお返事できませんが……フィオナさんと会ってみて、互いに友好関係を望むのなら、きっと可能でしょう」
思ったより硬い言い回しになったが、それでも高位の貴族としては精いっぱいの返答に、ティートも口元を綻ばせる。
「ご令嬢――いや、ルクレツィアさま、あなたのご厚意に心からの感謝を」
ティートの地位からすれば、やり過ぎなほど丁寧な魔術師の礼を受け、ルクレツィアは胸騒ぎがした。
突然の娘の話や親しくしてやってほしいと、後を託すような言葉。
もしかしたら、ティートは己の亡き後を心配するような、面倒事に巻き込まれようとしているのかもしれない。
あるいは、病で寿命を迎えようとしているのか。
「わたくしに、できることはありますか?」
「娘のこと以上に望むことなど、ありませぬ」
頭を下げたままティートは言葉を返した。
国からの絶大な信頼を受け、『学園』の管理を任されているティート。
彼が何を抱え込んでいるかなど、ルクレツィアには全く見当がつかない。
悩みの原因がセヴェリオとの研究関係であれば、たとえ知ったところで、ルクレツィアにはどうにもできないだろう。
これだけ娘のことを案じているのだ。
己の身にもしものことがありそうであれば、その前に娘を紹介する可能性が高い。
そう、自分を納得させて少女は学園長室を去った。
けれど、胸騒ぎは酷くなる一方である。
ルクレツィアの姿が消えるまで、頭を下げ続けたティート。その姿がカルロ達とアルシエロに向かう直前まで、ルクレツィアの脳裏に焼きついて離れなかった。




