第三話 旅立ちの準備
――自らの価値を示し、居場所を勝ち取る。そして、陰惨な未来を退けるのだ!
と、言葉にすると簡単ではあったが、これほど難しい問題もない。
父公爵の「まずは己の世界を知る事だ」との言葉により、レッチェアーノ王国や他国の歴史に明るい教師を呼ぶこととなった。
教師の名はホフレ=リストスキー。
深い皺の刻まれた優しげな目元と、緩く巻かれた白髪と長い髭、でっぷりと張り出た下腹が印象的な男性だ。
フリルのついた白いシャツとたっぷりとした茶色のズボン、磨き抜かれた黒靴といった服装から察するに、彼は貴族なのだろう。
初めての授業は、元々ルクレツィアが淑女教育を受けていた部屋で行われた。
ダンスも踊れる広いホールに木製の重厚なテーブルを置き、ホフレとルクレツィアは向かい合うようにして腰かける。
部屋の入り口は開いており、扉の内側にはそれぞれ侍女が控えていた。
男性の教師など初めてなので、それなりの配慮がされているのだろう。
テーブルの下で拳を握りしめ、そわそわと落ち着かないルクレツィアを気遣うようにホフレがゆっくりと口を開く。
「ご機嫌いかがかですかな、お嬢さま。わしも小さく可愛いらしい淑女とお話しするのは随分久しぶりでしてな。ほれ、この通り。緊張で手が震えておりますわい」
父親より少し高めの柔らかい口調。人好きのする笑顔にルクレツィアはしばし見とれた。
――優しそうなおじいさん。
自分の掌を見せて、ふぉっふぉっふぉと独特の笑い声を上げるホフレに、ルクレツィアもそっと小さな手のひらを開いてみせる。
「機嫌は……わるく、ないわ。わたくしもこの通りですもの。気にする必要はなくてよ」
もっと気の利いた言葉を返したいのに、彼女の口をついて出てきたのはそんな言葉だった。
汗ばんで小さく震える手を見せる少女は真っ赤な顔で何とか言い切ると、気恥ずかしさに耐えかねてつんと顎を逸らした。
「ふぉっふぉ。では、お互いさまというわけですな。お優しいお嬢さまで良かったわい。さて、授業ですが、いきなり難しい話をするのもつまらないだろうと思いましてな。今日は昔の逸話を元にしたお話をいくつかお持ちしましたぞ」
大きな革の鞄の中から幾つかの本を取り出すと、ホフレは眉をくいっと持ち上げて、にんまりと口端を持ち上げる。
とっておきを持ってきたのだとでも言うように、ホフレの表情は誇らしげだ。
干し果実のように小さな瞳は生き生きとしていて、ルクレツィアの心もつられて浮き立った。
「まぁ! お話を読んでもらうのは初めてですわ。いったいどんなお話ですの?」
「元気が良くて大変よろしい。ですがの、物語を読むのは私じゃなくて、あなたさまですじゃよ。お嬢さま」
「……わたくしが、読むんですの?」
「そう。あなたが読むのです。公爵さまから、お嬢さまが道に迷っていると伺いましてな。迷った時には先人の知恵を借りるのも一つの手ですぞ」
ホフレの差し出すたくさんの絵本を受け取り、戸惑うルクレツィアに、彼は穏やかにほほ笑む。
「この世は物語ほど上手くはいかぬものですが、どんな物語を紡ぐかは、お嬢さま次第。存分に悩みなされ。この老いぼれも、及ばずながら力になりましょうぞ」
ルクレツィアはこれまで淑女教育を含め、屋敷に招いた夫人たちから一通りの教育は受けていた。
しかしながら、これまでの彼女は真面目に授業に取り組んでいなかったので、幼児向けの本でもどころどころ読めない所があった。
そういう時、ホフレは彼女が言い出すよりも早く察して、文字の読み方と意味を教えた。
――ホフレ先生は、わたくしの事をちゃんと見ていてくれる。
ルクレツィアはホフレが大好きになり、益々授業に没頭していくのだった。
そうして一つの月が流れてゆく。
無我夢中で絵本を読んでいたルクレツィアが歴史書を手にするまでにそう時間はかからなかった。
歴史書は子供向けの物語と違って、難解な文字や古い文体が使用されており、読み解くまでに時間がかかる。
時が過ぎるのも忘れて読み漁る少女を微笑ましく眺めていたホフレだったが、ルクレツィアの瞬きの回数が増え、疲れが見られるようになると彼女に一息いれるよう話した。
「お嬢さま、水を差すようですみませんがの。年を取るとどうにも疲れが出やすくていかん。この年寄りのため少し茶の時間をもうけていただけるとありがたいんじゃが」
ホフレが声をかけるとルクレツィアは、はっと顔を上げ、夢から覚めたばかりのように何度も瞬きをした。
「え? ええ……もちろんですわ。ホフレ先生」
慌てて返事をしつつも、素早く侍女に指示を出すと、侍女は扉に控えた別の侍女に指示を伝える。
「気づかなくて申し訳ございません、先生。わたくしは読書を続けますので、どうぞゆっくりなさってくださいまし」
「おや、ご一緒してはくださらんのかな?」
「えっ? ご一緒とは?」
「わしの様な年寄りとではつまらぬかもしれぬがの。茶は一人で飲むよりも誰かと一緒に飲む方が楽しいものじゃ。お嬢さまがご一緒してくださると、茶も菓子もより味わい深いものになることでしょうなぁ」
にこにこと楽しそうに話すホフレの話に戸惑いつつも、ルクレツィアは素直に頷いた。
「わたくしはいつも一人でいただくので、よく分からないのですが……」
これって夫人が淑女教育のときにおっしゃっていた、お茶会と言うものではないかしら。
一緒にお茶を頂く、その言葉の意味を遅ればせながらに理解して、ルクレツィアは硬直した。
初めてのお茶会で粗相をしないか、ホフレ先生に我が家の茶と菓子を気に入ってもらえるかなど、茶会と意識した途端に全身がぶるりと震える。
ルクレツィアの頬は徐々に色づき、緊張で全身が心臓のようにどくりどくりと脈を打っていた。
「せ、先生がおっしゃるのならばそうなのでしょう。ご一緒させていただきますわ」
こんなことなら、真面目に淑女教育を受けておくのだった。
ルクレツィアは我儘でやる気のなかったかつての自分を猛省し、淑女教育にも力を注ぐことを決意する。
彼女が拳を握りしめていると、テーブルの上の本が片づけられて茶器がずらりと並べられた。
花弁が幾重にも重なった大振りの花を模った茶器は、ルクレツィアのお気に入りの一つ。
花弁の鮮やかな赤色と金の縁取りが美しく、飴色の茶に良く映える。
茶菓子は茶器と同じ花のジャムを練りこんだ小さな焼き菓子。
見た目に可愛らしく、味も香りも良い逸品だ。
「冷めないうちのどうぞ。先生のお口に合えばよいのですが」
作法に従い、準備が整うのを待ってから、客人に茶を勧める。
平静を装いつつも、ホフレの様子を伺うルクレツィアに良く出来ましたとばかりに笑みを浮かべると彼は一口茶を飲んだ。
一口の茶と一口の菓子を頂いて、ホフレはいったんカップを置く。
「ううむ。これは素晴らしい。薫り高くも爽やかな味わいの茶に、愛らしくて甘酸っぱい菓子がよう合いますな。一人で頂くのは忍びない。ぜひお嬢さまもご一緒して下され」
客人に促されて、ルクレツィアもようやくカップに口をつけた。
すうっと鼻に抜ける爽やかな香りに、幾分心が落ち着く。
「時にお嬢さまは『邪悪なる竜』の話を何度も読まれているようじゃが、何か惹かれるものでもありましたかな」
「……こんなことを言うと、笑われてしまいそうですけれど、どうか笑わないでくださいましね。わたくし、あの話があまり好きではなくて。何故、竜を殺した勇者が褒め称えられるのか、どうしても納得できなくて何度も読んでしまうのです」
「ふむ。あの話は、竜から捕らわれの姫君を救い出す、竜退治の話じゃったかの」
「ええ」
「例えばお嬢さまが竜に攫われたとして、竜にどんな感情を抱きますかな?」
「攫われたことがないからわかりません。でも、そうですね。竜は竜なりにお姫様の事を愛していたと思いますの。でなければ、か弱いお姫様は、攫われてすぐに死んでいるはずです」
自分の言葉を咀嚼するように、ルクレツィアはゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もし竜が素敵な人ならば、わたくしも竜の事を好きになるかもしれませんし、あるいは攫われたことを恨んで嫌いになったかもしれません。どちらにせよ、わたくしには分かりません。けれど、殺した竜の死を喜ぶばかりで、悼むものが一人もいない物語は、好きになれないのです」
「竜は人ではないのじゃが、言うのが野暮と言うものでしょうな。お嬢さまは少し変わっておられるが、大抵の人間は己が力の及ばぬ苦境にあると救いを求め、救い出したものを褒め称えるものじゃ。お姫様を愛する者が彼女をさらった竜を許すことができないように、お嬢さまが攫われたら、たとえ本人が許してもご家族は罪人を許すことができないのではないかの」
「じゃあ、お姫様をさらう悪い竜は決して幸せにはなれないのでしょうか?」
「なれませんな。それが物語における悪役と言うものです」
「そんなのって……あんまりではなくて?」
物語に感情移入して、瞳を潤ませるルクレツィア。
ホフレは困ったように髭を撫でた。
「物語とはそういうものじゃてのう。ただ一つ手があるとすれば」
「すれば?」
思わず身を乗り出すルクレツィアに、ホフレは目を丸くした。
「……ああ、もう! 焦らさないでくださいまし!」
「お姫様を攫わなければよい。物語は破たんするがの。欲しいものを無理やり攫うのではなく、竜を愛してくれる伴侶を見つけた方がずっと幸せになれるというものじゃ」
「でも、恐ろしい竜を受け入れるものなどいるのかしら?」
「そこは竜の努力次第ですな。あくまで人の伴侶を望むのであれば、相応の努力が必要じゃの。勇者だって、初めから勇者であったわけではない。人々の嫌がる危険な仕事を引き受けたり、命懸けて故郷を守った結果勇者になるのじゃ。お嬢さまのお父上もそうしたようにのう。しかし、竜が人に受け入れられるようになるにはそれ以上の努力が必要じゃろうな」
「そう。竜って大変ですのね。わたくしは竜ではないから、まだ希望がありますわ! ホフレ先生! わたくし、決めました」
「う……む? 何を決めたんじゃ?」
「公爵家の娘が表立って剣を取るのは、醜聞になりかねません。また、女の身では軍に入ることも許されません。ですので、過去の勇ある者たちがそうしたように、わたくしも身分を隠して冒険者ギルドに登録しようと思います。そして人々の役に立ち、必要とされる様な人間を目指します! 強くなればお父さまも護れますし、いい考えだと思いますの」
ルクレツィアの突然の宣言に、さすがのホフレもぽかんと口を開けて言葉が出てこなかった。
確かに民を護るのは貴族として立派ではあるが、令嬢が父公爵を護るという発想は理解できなかったのだ。
貴族なら貴族ならではの活躍をすればよいと説得をするも、冒険者を目指すと宣言した公爵令嬢は、その後も頑として主張を変えない。
ルクレツィアはホフレに魔法と武術の心得があることを聞くとガブリーニ公爵の了承を得て、体作りを始めることとなった。
「よろしくお願い致します。お師匠さま!」
「お嬢さま、師匠と言うのはちょっとどうかと思うんだがの」
「でも、魔法や体術の稽古をつけてくれる方を一般的には師匠……あるいは、父と呼ぶとお伺いしました。わたくしにとってのお父さまは一人なので、ホフレ先生はお師匠さまですわ」
「ううむ、そうはいってものう。せめて、今まで通り、先生と呼んで下され」
「畏まりました! ホフレ先生!!」
動きやすい服装に着替え、きりりとした顔で拳を握るルクレツィアを眺めながら、ホフレはどこで何を間違ったとの己に問うてみたのだった。
彼は今後、同じ問いかけを何度となく自分に行うのだが、それはもう少し先の話である。