第十九話 水竜戦
まず、リナルドは目を疑った。
その次に、己の正気を疑った。
そのくらい、目の前の光景は現実離れしていた。
「なんだよ……これ……! どうして村の湖に怪物が居るんだ!?」
彼の周囲には薄い銀色の膜が張ってある。
それはルクレツィアの張った、リナルドの身を護るための結界であった。
まるで空から降る雹のように、絶え間なく、もの凄い速さで迫ってくる氷塊。
リナルドは反射的に身を縮こませるが、氷塊は鈍い音と共に、結界に弾かれて遠くへ転がっていく。
その結界を張った少女はと言うと、巨大な水蛇のような怪物――少女いわく、水竜――と空中戦を繰り広げていた。
水竜は身をくねらせながら湖に浮かぶ氷塊を投げつけるが、ルクレツィアは空中を器用に飛び回りながらさけ、合間に炎や岩、雷などの多彩な攻撃を仕掛けている。
今日は雲の合間に太陽が見える、比較的晴れた日。
雲間に見える陽光よりも眩い雷撃を、見事に湖の怪物へ命中させた少女は、空中で器用に宙返りをした。そして、大胆にも蛇の頭部に踵落しをくらわせる。
下からの風にあおられて、革ひもに結ばれた銀髪が光を放ちながらふわりと揺れた。
少女曰く、足元が滑ってこけるのならば、足場のない場所で戦えばよい、とのこと。
あまりにも非現実的な光景に、これは夢か幻かと疑いながらも、リナルドは決して目を逸らすことなく、手に汗握りながら戦闘を見つめていた。
器用に空中を飛び回るルクレツィアを見上げていた、リナルドの方が目を回しそうになっている。
「ルーシー! 大人を呼んだ方がいいんじゃない?」
リナルドが叫ぶと、ルーシーも空中に出現させた大岩を落しながら、負けじと言い返す。
「残念ながらあちらも雪鬼と戦闘中ですわ!」
「そんなあ!!」
出現させた岩を足場としてまた空中に戻る彼女に、唖然としつつリナルドが叫んだ。
魔術師と言うのはもしかしたら、自分たちとは違う種類の生き物なのかもしれない。
リナルドの背筋がふるりと震えた。
「こちらもあまり余裕がありませんの。決してそこから動かないでください!」
――そう、イレーネ達も交戦中のようで、複数の大きな魔力の塊に耳飾りの魔力が囲まれており、せわしなく動いていた。
直接目で見ることはできないが、一定範囲内を雪鬼の魔力とぶつかる様に激しく移動していることから、戦闘中であることがわかる。
これでは全員を転移させることは難しいし、転移時に雪鬼が紛れ込む可能性があった。
ルクレツィアがリナルドのために張った結界は、彼女の魔力と周囲の魔力を取り込むことで維持し続けているが、これ以上攻撃が激しくなるようなら破られてしまう。
ルクレツィアの結界は攻撃を受けた瞬間に魔力が補てんされ、瞬時に再形成されるような陣で組まれていた。
修復速度や補填される魔力を上回る攻撃が仕掛けられれば、壊される。
誰かを護りながら戦うというのは、難しいものだとルクレツィアは奥歯を噛みしめた。
「ルーシー!?」
結界の様子が気になって、ちらりと視線を後方にやった隙に体当たりされ、少女の体が大きく吹き飛ばされる。
打ち捨てられた人形のように、雪原へと投げ出される小さな体。
全身に走る激痛に、ルクレツィアの喉が詰まって、呼吸が止まる。
ぐっと歯を食いしばって痛みに耐えながら、彼女は即座に陣を展開し、裂けた肉と折れた骨を修復した。
「ち、血がッ!」
幸いにして、ルクレツィアはリナルドを護っている結界の近くに飛ばされた。
自らもその結界の中に入り、陣の強化をして少年に向き直る。
「この程度、どうということはありません」
少女が努めて冷静な声で言葉を紡ぐも、少年には届いていないようだった。
「ぼ、ぼくも雪玉を投げて気を散らした方が良いかな!?」
ルクレツィアの血に染まった衣服に、ひどく動揺したリナルドは、震える手で地面の雪をかき集める。
さらさらとした雪は小さな子供の手から零れ落ち、赤くなった手に突き刺すような痛みだけを残した。
「ごめんね、ルーシー。ごめんね。いつもはもっとちゃんと作れるのに……ッ!」
ルクレツィアはしゃがんでリナルドの手を取ると、視線を合わせた。
そうして、氷のように冷たくなった指をゆっくりと温め、血が巡る様に陣を張りながら気丈に微笑む。
「落ち着いてください、リナルド。万が一、水竜の意識がリナルドに向いたら危険ですので、大人しくしていてくれた方が助かります」
暗に何もするなと言われて、少年の体がびくりと強張る。
「気持ちはとても嬉しいんです。けれど……」
リナルドを宥める言葉も上手く出てこない。歯がゆい思いをしながらも、ルクレツィアは必死に考える。
――恐怖はあった。
ホフレなら驚異的な技で精緻な陣を描き、頭が飛ぼうと胴体に穴が開こうと瞬時に治してしまう。
けれど、その技を受け継いだはずのルクレツィアには師の陣を再現するのは難しく、折れた骨を治したり、裂けた皮膚や組織の修復がせいぜい。
もしこの場で致命傷を負えば、急ぎホフレの元へ転移しない限り、命を落とす事になる。
ルクレツィアの背筋に冷たい汗が流れる。
「この結界も、いつまで保てるかわかりません」
いった傍から、大きく伸びあがった水竜の頭が結界へと打ちつけらえる。
水竜の頭突きを受けるも、結界はびくともしなかった。
しかし、着実に損傷は蓄積されている。
ルクレツィアは結界維持のための魔力を吸われて、少し頭がふらついた。
「魔獣は更なる魔力を求めると習いました。あれの意識は今、わたくしに向けられています。……少し距離がある分、村の中にいた方が安全でしょう。そちらに転移させますわね」
開いた口から吸われ続ける魔力を感じつつも、それを表に出さず、水竜を見据えながら淡々と告げるルクレツィア。
リナルドの手を包み込んでいる細手が、僅かに震えたのを感じて、少年は指先にぐっと力を込めた。
「ルーシー。大人たちをこちらに呼ぶことはできなくても、ぼくを大人たちのところへ送ることはできるよね?」
弱くて何もできない自分にも、できることがあるかもしれない。
戸惑う少女が断わらないように、少年はなけなしの勇気を振り絞って強気な笑みを浮かべた。――お手本は目の前の少女だ。
「え? ええ。できますけれど、あちらも交戦中ですし、危険です」
「うん。でも、大人たちは村の状況を知らないから、とにかく早く知らせた方がいいと思うんだ。このことを知ったら、何人か村へと人を割いてくれるかもしれないし」
もしかしたらすごく痛い目にあうかもしれないし、死んでしまうかもしれない。
言葉に出した後、冷たくなっていく自分の体を思い出して、少年の喉がこくりとなる。
考えは変わっていない。死ぬのは恐いし、死にたくなんてない。
けれど――小柄な少女が村のために、巨大な怪物と勇敢に戦っているんだ。
自分だけ家にこもって震えているなんてできない!
リナルドは恐れを振り払うかのように、少女の手の中から自分の手を抜き取ると、自身の両頬を叩いて気合を入れた。
「だから、ぼくが呼んでくるよ。……それまで、耐えられる?」
歯を食いしばり、興奮に瞳を潤ませながら問いかける、リナルドの膝は震えている。
彼の恐怖と決意を感じて、ルクレツィアはあえて尊大で高慢な笑みを浮かべた。
「だれにものを言ってますの? 造作もないことです」
彼女は結界の中ですっと胸を逸らすと、転移魔法の陣を紡ぎ始めた。
挑発的で傲慢な笑みを形作る薄紅い唇。その唇から月の魔力が流れて巡り、空間を満たしてゆく。
結界内に満ちる銀の光に照らされた少女の、神々しいほどの美しさにリナルドが瞳を細めた瞬間、陣が起動した。
「――早く戻っていらして。でないと、わたくしがアレを倒すところを見逃しますわよ」
少女の笑いを含んだ声に鼓膜をくすぐられ、リナルドが再び目を見開いた時、そこは既に戦場だった。




