第十八話 雪国2
踏みしめられて少し硬くなった雪は昨日と変わらず、滑りやすい。
上手く歩けない少女の手を引いてやりながら、リナルドはまず自宅に寄ることにした。
寝ている母親を起こさないように慎重に家の中へ入り、取ってきたものをルクレツィアに渡す。
それは、靴底に棘がついた長靴だった。少女には少し大きかったけれど、木製の靴底よりもずっと歩きやすい。
靴底の棘を氷の床に突き刺すようにして歩けば、これまでのように転ぶこともなかった。
軽快な足取りで、二人は家々から少し離れたところにある、湖へと向かった。
白い雪が降り積もった青い氷の湖を見渡して、ルクレツィアは感嘆の息を零す。
「すごく、きれい……」
昇りはじめた太陽の光が白い雪に反射されて、きらきらと輝いていた。
朝焼けの紅と凍った湖の青、降り積もる雪の白。
言葉にしてしまえば単純だが、複雑に絡み合う色の、幻想的な美しさがそこにあった。
「昨日も驚いたのですが、とても大きな湖ですね」
「だろう? こうやって、踵を浮かせて、氷の上を滑って遊ぶんだ。止まりたいときは、ゆっくり踵を下ろしてみて。そしたら、棘がいい感じに引っかかって止まれるよ」
湖に見惚れる少女に誇らしげに頷いて、リナルドは湖に向かって駆けていく。
地面から少し踵を浮かせて、つま先立ちで氷の上を滑るリナルド。
ルクレツィアはその光景に目を見開き、ポカンと口を開いた。
「ルーシー? どうしたの。面白い顔になってるよ」
器用にくるりと旋回して戻ってきた少年の手を、彼女は思わずつかんで引き寄せる。
いきなり手を掴まれて慌てるリナルドに構うことなく、ルクレツィアは頬を上気させ、瞳を輝かせた。
「凄い! 凄い、凄い、凄いッ!! どうやったんですの? わたくしにも教えてくださいまし!」
彼女には歩くことすら困難だった氷の上を、まるで妖精のように華麗に滑ってみせるリナルドに、ルクレツィアは感動すら覚えた。
氷の上を滑ることは、ただ地面を歩くよりもずっと面白そうに見える。
わたしもやりたい! と全身で訴えるルクレツィアに、リナルドは照れくさそうに笑った。
「じゃあ、ぼくが手を引いてあげるね。初めての子はみんなこうするんだ!」
初めての事に戸惑うルクレツィアの手を引いて、二人は氷上へと滑り出る。
「わっ、あっ……ちょっと待ってください!」
バランスを崩しそうになって踵を落しかけるルクレツィア。
「大丈夫。周りを見て」
彼女を安心させるようにリナルドは笑いかけた。
足元が気になって視線を落していたルクレツィアは、恐る恐ると言った風に顔を上げ、飛び込んできた景色に言葉を失う。
「まあ、なんて……」
雲間にのぞく太陽。
その陽光を反射して、湖全体が大きな宝石の塊のように輝きを放っている。
湖の外から見た時も美しいと思ったが、こうして上に立ってみるとその比ではなかった。
美しいなんて言葉じゃ足りない、この感動を何と言葉にしたものか。
「ルーシー? どうしッ……おわッ!?」
周囲の風景に見惚れ、言葉を失うルクレツィア。
彼女の表情に気を取られ、リナルドが小さな氷塊に足を引っ掛けてバランスを崩す。
「ひゃっ」
二人して固い氷の上に尻餅をつくことになり、しばらく痛みに悶える事となった。
ルクレツィアなどは昨日から固い雪の上で何度も転んでいるので、そろそろお尻に青あざができるかもしれない。
「いたた……転んだのなんて久しぶりだけど、やっぱり痛いや。ルーシー、お尻は大丈夫?」
「えっ? ええ! もちろんです! 心配には及びません」
「凄いね。ルーシーは魔術師だからお尻も強いの?」
「……リナルド、淑女のお尻の事情について、そう何度も尋ねるものではありません」
目じりが少し吊り上った大きな瞳を細め、睨みつける少女の迫力に押され、少年は即座に頷いた。
「ごめんね、ルーシー」
彼女の顔を覗きこむ様にして伺うリナルドへ、ルクレツィアは貴族の子女らしくつんとした表情で鷹揚に頷いた。
「許します」
「ありがとう」
「どういたしまして」
一連のやり取りが終わって二人は顔を見合わせるとどちらともなく笑みがこぼれた。
「ぷっ……許します、だって! ルーシー、きみ、本当にお姫さまみたいだったよ。でも、惜しい! つんと澄ました顔をしてても、お尻を押さえてたら意味がないよ!」
「まあ! 女性のお尻を見るなんて……!」
「ごめんごめん。でも、必死で隠しているのが逆に笑えちゃってさ」
ルクレツィアは憤慨した風を装っていても、目が笑っているし、リナルドにいたっては硬い氷の上を転がる様にして全身で笑っていた。
ここまで砕けてはいなかったが、ダニーロともこうしたやり取りを交わしたことがあり、ルクレツィアは少しだけ公爵領のあの屋敷が恋しくなる。
魔術師としての体を作り上げ、その力を制御するという訓練は過酷だった。それでも屋敷の皆が彼女を気にかけ、誰かが必ず傍に付いていてくれたものだ。
「どうしたの、ルーシー?」
「すいません。ちょっと家が恋しくなって……なんて、自ら家を出ておきながら、恥ずべきことですね。聞かなかったことにしてください」
「どうして恥ずかしいの? 家族が恋しいのは当然でしょ。僕だって会えるなら、もう一度お父さんに会いたいよ」
家族に会いたいという気持ちがなぜ恥ずかしいことなのか、とリナルドは口を尖らせるようにして語気を強める。
「――ごめんなさい」
リナルドは父を亡くしたばかりだった。
己の配慮の至らなさが申し訳なくて、ルクレツィアは体を小さく丸める様にして頭を下げた。
悪いことをしたら、誠心誠意をもって頭を下げねばならない。
それは領地での訓練中、兵士やホフレ達と一緒に暮らしながら自然と学んだことだった。
平民への謝罪は本来、高位の貴族としてはいかなる場合も行うことはない、とされている。
たとえ貴族側に過失があったとしても、貴族が平民に行うのは、良くても功績を労うと言った表現になる。
悪ければ、何らかの理由をつけて、平民が処罰されることとなる。
公爵令嬢ルクレツィアではなく、冒険者ルーシーとして村を訪れていた彼女は自ら謝罪を行うことに何の抵抗も持たなかった。
ただ、淑女教育のため、屋敷に通っていた夫人が見たらなんというかしら。と言う考えが頭の隅を過った程度だ。
「うん、いいよ。許してあげる」
あっさりと。拍子抜けするくらい簡単に、リナルドは頷いた。
雪に照り返された陽光のように、淡い金髪がさらりと風に流れる。
少し長い前髪から覗く瞳は、先ほど湖が見せた緑青色。少年の気質を示すかのように、きらきらと輝いていた。
冷たい氷の山の民だが、その心根と風貌は雲間に覗く陽光を連想させる。
「ありがとうございます」
礼を言ったルクレツィアの顔は少し赤らんでいる。
初めての同世代。
気づけばこんな至近距離で笑いあうようになっていた。
それがとても不思議で、しかし、心が浮き立つのを感じる。
今なら、本で読んだあの台詞を言えるかもしれない。
「リナルド、お願いがあるのですが」
「どうしたの、いきなり」
「あの……ええと……わ、わたくしと、ともだ」
全身の筋肉が緊張し、頭に血が上って上手く呂律が回らない。
けれど、必死で言葉を紡ごうとするルクレツィア。
その言葉が終わる前に、湖が大きく揺れた。
乾いた木の枝が何本も折れたかのような異音の後、低く、唸る音が響く。
静かな氷の湖を震わせる、魔力の波動にルクレツィアは鳥肌が立った。
「――これは」
口を開くよりも早く、氷の地面が大きく揺らいだ。
ただでさえ滑る地面が大きくせりあがり、水柱が上がる。
降り注ぐ冷たい水や小さな氷塊から体を守るようにしゃがみながら、二人は水柱を見上げた。
「うわっ……えっ?」
水柱の合間から見えたのは、ぬるりとした表皮と円形の瞳を持った生物だった。
巨大な魚、あるいは蛇のようにも見えるそれは、雲を突き抜ける様にして宙に伸び上ると、風にあおられる青いリボンのように湖へと落下してくる。
ぐらつく氷の大地にしがみつき、ルクレツィアは緩やかに降りてくる巨大な生き物を見上げた。
その生き物は本の挿絵にあった、魚によく似ている気がした。
しかし、その大きさに、彼女の口から感心したような声が上がる。
「まあ、随分と大きなお魚ですのね」
「魚ッ!? あれはどう見ても化け物だよ! 早く逃げよう!」
ルクレツィアの手を引きながら、地面を転げる様に走るリナルド。
彼に引っ張られながら、彼女は小首を傾げた。
「そうなんですの? 魚とは水の中に生きる生き物で、ヒレやエラがあり、形もちょうどあのようなものかと……」
「あれが魚ならば、漁師はみんな英雄だ! ルーシー、頼むからもっと急いでよ!」
ほとんど悲鳴のようなリナルドの言葉をかみしめるように、彼女は復唱する。
「えいゆう……」
空を泳いでいた魚は重力によって湖へと引き寄せられ、二人のすぐそばまで迫っていた。
「――ならば、あれはわたくしの獲物です」
ルクレツィアはリナルドに引きずられながらも、足元へ転移魔法陣を即座に組み立て、起動する。
空間を一気に駆け抜けて、二人は湖の淵まで転移した。
「ええっ!? 今いったい何がっ」
灰色の異空間を見たかと思えば、湖の真ん中から一気に端まで到達。
すぐに転移したため、巨大生物が落ちてきた際の波にのまれずに済んだ。
転移魔術の存在自体を知らないリナルドにしてみれば、何が起こったのか、まるで理解できなかった。
へたり込む彼をよそに、ルクレツィアは割れてしまった湖を振り返る。
「生きた魚など初めて目にいたしましたが、それにしてもアレは大き過ぎるように思います」
湖には砕けた大きな氷がいくつも浮かんでおり、それをかき混ぜる様にして巨大な魚が泳ぎまわっている。
辺りを探る様に緩やかに泳いでいたそれは、滑りを帯びた巨体をくねらせて頭をもたげた。
「ルーシー、大変だ。あいつ、こっちを見ているよ!」
ゆるりと開かれた口内。
一本一本が剣のように尖った歯がびっしりと生えており、奥には赤黒い舌が蠢いていた。
ルクレツィアは魚の喉に強い魔力が収束するのを感じて、自身も陣を紡ぐ。
「――リナルド、下がってください」
陣の発動と同時に、怪物の口から鋭い一撃が放たれる。
勢いよく放たれた水は地面を抉り、凍った岩をも切り裂く。
「えっ!? なにあれ」
「水も空気も魔力を込めて速度を増せば、岩を切断することくらい可能です。……もちろん、人体も」
震えあがるリナルドを庇いながら、ルクレツィアは己の魔力を周囲にめぐらせる。そうしてもう一度、結界の陣を張った。
「ぼくたち……食べられちゃうの?」
「さて、喰らわれるのはどちらでしょうか」
ルクレツィアの脳内に、いつかホフレの授業で説明された地竜と海竜の話が蘇る。
地竜は地を這う蜥蜴が魔力によって巨大化したもので、その唾液には生きたまま生物を腐らせる猛毒が含まれている。
竜が生物を消化しやすいようにするための毒である。
そして、海竜は海に棲む魚や蛇などが魔力で巨大化したもの。
一般に毒はなく、その巨大な体を獲物に巻きつけて捕食する。
どちらも危険極まりなく、人との意思疎通ができない討伐対象だ。
湖に海竜が生息すると言った話は聞いていないが……。
「たしか、魚が変じた海竜……いえ、この場合は水竜と呼ぶべきでしょうか。この種の魔物には毒がなく、食することも可能だったはず。この村は食糧難のようですし、好都合ですわね!」
「えっ? いや、ルーシー……きみ、まさか……」
「リナルド、安心してください」
まるで壁画に描かれる女神のように、優しげな笑みで微笑むルクレツィア。
――リナルドは、とても嫌な予感がした。
穏やかな葡萄色の視線を向けられた瞬間、彼の背には冷や汗が流れ、背筋が震える。
「氷山の民には慣れぬ味かもわかりませんが、魚はとても美味しいのです」
向かい合う、巨大な魔物と小さな少女。
少女の周りには白銀の魔法陣が複数展開する。
リナルドは口を大きく開いたまま閉じることができなかった。
叶うことならこのまま気を失ってしまいたい、そう思った彼を誰が責められようか。
「――今夜の晩餐は、水竜で決まりですわね!」
戦いの幕が今、切って落とされた。




