私の王子様
ヨハンナ・ミュールマイスターは、ペステリア国の平凡な家庭に生まれ、平凡に育った。平均よりも少しだけ小柄な体躯に特別珍しくもない蜂蜜色の癖毛と、これもまた平凡な茶色の瞳の持ち主で、幼げな垂れ目がおっとりとした内面をよく表している、と友人たちから評価されている。綺麗なものや可愛らしいものが好きで、おとぎ話の王子様に憧れる、そんな平均的な少女は、この国にはありふれていた。
彼女が生まれ育った南部の街に暮らしていたのは十二歳までのことで、中等学校入学を前に首都に近いブルームガルトに引っ越した時には、期待と不安が半分ずつだった。父親が働いていた革細工の工房が火事に見舞われたためで、新たな職場を都会に求めたというわけである。幸いにして父親の職はすぐに見つかったので、新居に越した時には彼女の通う学校を見付けるのみだった。仲の良かった友人たちと離れ離れになるのは寂しかったが、ブルームガルトではその何倍も新たな友人を見つけられることだろう。そんなわけで、半々だったのだ。
結局、ヨハンナは新たな住まいから最も近いブルームガルト第一中等学校に入学することに決まった。生まれ故郷では女学校を受験する予定だったので、期せずして共学校に通えることになった時には、大好きな少女小説のような「運命の出会い」を期待していた。しかし、実際には男女が別の校舎で過ごすことが分かったので、ささやかな期待は入学式の日に水の泡となって消えていったのだった。
見慣れない少女に対して、好奇心旺盛で心優しい都会育ちの女子生徒たちはとても親切で優しかった。裕福な家庭で育った彼女らから見れば、ヨハンナの家はよほど「庶民的」だったかもしれない。しかし、本人の温厚な人柄が気に入られたのか、ヨハンナは入学前から既に形成されていた女子のコミュニティに驚くほど自然に溶け込んでいった。新たな友人たちから最新の小説の内容を聞くことはとても刺激的だったし、趣味で集めている香水については生まれ故郷の南部とブルームガルトの位置する東部で売られているラインナップが微妙に異なるらしく、新しい香りとして人気を集めた。押し花を自分で作るという発想も、ヨハンナから学年の女子一帯に広めたようなものである。かくして、ヨハンナは再び心穏やかな学校生活を取り戻した。ただ、それなりに親しくなっても「さん」付けで呼び合うという上品さだけは、ヨハンナにはよそよそしく感じられ、多少の寂しさが残った。
ヨハンナがベルの存在を知ったのは入学から数ヶ月後、一年生の冬のことだった。
ベルティルデ・ホフマンはヨハンナの隣のクラスに振り分けられていて、物静かで学業成績は優秀、限られた人数しか入所できない首都ペステリアの中央従士養成所に通う文武両道の優等生として、密かな評判の女子生徒だった。従士とは公的に認められた武人のことで、警察権を持つ護民官や、王宮の警護にあたる騎士、貴族の邸宅で護衛などを務める者たちである。それなりの美人ではあるのだが、黙っていると気難しそうに見えるので、同じ幼年学校の出身者でも進んで話しかける者は少ない有様らしい。孤立しているというわけではないようだが、どことなく近寄り難く、静かに周囲からの憧れの眼差しを浴びている――と聞いたことがあった。彼女を幼年学校時代から知る友人によると、「ホフマンさんは剣を使うと男子より強いんですって! 小説に出てくる女騎士みたいよね!」とのことである。そんな男勝りの同級生もいるのだな、とヨハンナは感心した。それはまるで、おとぎ話の登場人物のようなもの。もし出会っても、きっと遠くから見つめるだけの、挿絵の王子様に違いない。
そんな噂話が記憶の隅に追いやられてしまった頃、ヨハンナに女子校舎の鍵当番が回ってきた。終業後の課外活動終了後、校舎中の鍵をかけて回るというもので、通常一年生は上級生と二人で受け持つことになっていた。しかし、その日に限っては上級生が風邪で早退してしまい、代理人が立てられないままに放課後がやってきたのだった。慣れない校舎で、ヨハンナは一人立ち尽くしていた。
「……ええと、美術室……の鍵は……これかしら?」
これでいくつ目になるのだろう、教室の鍵を手元で探した。夕陽は雲にかげり、薄暗い廊下はランプの白い灯りに照らされていた。ようやく鍵の束から抜き出した一本は美術室ではなくその準備室のものだったのだが、間違いに気付いたのは違和感を覚えながら鍵穴に差し込んだ、その後だった。中途半端に回りかけた鍵は内部に引っかかってしまい、少女をうろたえさせた。
「あっ、どうしよう、抜けない……」
誰にも助けを求められずに何度も鍵を回しかけては引っ張り、刺さったままの鍵を見つめて立ち尽くしていると、不意に落ち着いた耳馴染みのいい少女の声が耳に届いた。
「どうかしましたか?」
振り向いてみると、夕陽を受けてきらめく栗色の髪の女子生徒が、ヨハンナをじっと見据えていた。年齢はそれほど変わらないと見えるが、背丈はヨハンナより少し高い程度だろうか。目は猫のようで、まっすぐな視線はまるで睨んでいるかのようだった。彼女に愛想の欠片もないことが新鮮に感じられたほどだったが、理知的な面差しは妙に頼りがいがあるように見え、ヨハンナは上級生が助けに来てくれたものと確信した。
「はい、あの……鍵を間違えてしまったみたいで。抜けなくなってしまったんです」
「それですね。代わっていただいてもいいでしょうか」
ヨハンナが扉の脇に避けると、少女は落ち着き払った目を鍵に送り、二、三度回そうとしたかと思うと、顔色一つ変えずに鮮やかな手並みでそれを抜き放った。横から見てみると、彼女は髪の毛をきっちりとシニヨンにまとめていて、おとなしそうな雰囲気の割に活動的な印象を受けた。少女は抜き取った鍵をヨハンナに差し出しながら、涼しい顔で言葉を添えた。
「どうぞ、先輩」
その呼びかけは、ヨハンナにはまだ半年早かった。慌てて「私、一年生です!」と応えると、少女は一瞬目を見開いてから眉をひそめ、声のトーンを落としてこう応じた。
「そう。私も一年生」
驚きが伝わってしまったらしく、女子生徒はムッと顔をしかめた。どうやら、ヨハンナがこれまでに出会ったどの同級生よりも無愛想な人物に出くわしたらしい。鍵を受け取ったヨハンナは、相手が人見知りで緊張しているのかもしれない、と好意的に解釈して、その緊張を解きほぐそうと遅れて挨拶を送った。
「そうだったのね! 鍵、どうもありがとう。私、一組のヨハンナ・ミュールマイスターっていうの。あなたは何組の人?」
「私は二組。名前はベルティルデ・ホフマン」
「ホフマン……さん?」
聞き覚えのある名を耳にして、驚きよりも先に感動を覚えた。従士を目指していて剣術に優れるという情報から、勝手に大柄でいかにも力強そうな女子生徒像を作り上げていたのだが、想像よりもずっと「普通」に見えたのだ。ヨハンナの頭の中の挿絵は霧散し、代わりに目の前の少女が記憶に刻まれた。嘘のつけない少女は、喜びをあらわに同級生に向かった。
「あなたがホフマンさんなのね! 首都にある従士の養成所に通ってる子がいる、って友達の噂で聞いてたのよ」
しかし、相手の反応は冷ややかだった。少女はヨハンナの笑顔から視線を逸らし、「そう」と答えてそれきり黙り込んだ。そんなそっけない態度の友人にはいまだかつて遭遇したことがなく、ヨハンナはここに来てなんと続けるべきか迷ってしまった。それを察したのかは定かではないが、シニヨンの少女はヨハンナの目をじっと見返しながら、こう申し出たのだった。
「暗くなるし、一人だと心細いでしょ。今日の当番、私も手伝うわ」
心強い申し出を断る理由などない。偶然の出会いに感謝しつつ、ヨハンナは礼を述べた。
「ホフマンさん、どうして私が上級生だと思ったの?」
「一人で鍵当番をしていたから。一年生が一人でいるなんておかしいでしょ」
「それはそうね。今日はね、先輩が早退しちゃったんですって」
主に上級生が使う教室の前を歩きながら、ヨハンナは出会ったばかりの同級生と会話を続けていた。会話とはいっても、ヨハンナが喋っている時間が圧倒的なほど長かったのだが。なにしろ、話しかけ続けないとすぐに沈黙に変わってしまうのだ。お喋り好きな友人が多いので、これもまた新鮮だった。
好奇心のままに質問攻めにすると、ベルティルデ・ホフマンは先祖代々ブルームガルトでそれなりに名の知れた住宅街に住んでいること、特別裕福ではないごく普通の一般家庭に育った――つまり代々従士というわけではないということ、養成所では夏休みと冬休みの間中合宿しながら訓練を受けていること、剣術だけではなく弓術も得意としていることなどが分かった。愛想はないが他人との関わりを避けているのではないらしく、ヨハンナがいくら質問をぶつけても、相手は嫌がらずに答え続けた。鍵束を職員室に返すまでの約二十分の間に、ヨハンナは彼女は人見知りではなく親切な人物であるとの印象を持った。
もうすぐ校門を出ようという時、シニヨンの少女が理知的な瞳をヨハンナに向けて立ち止まった。空は紫と濃紺のグラデーションに染まっていたが、都市部だけあって街灯が煌々と学外の路地を照らしていた。
「じゃあミュールマイスターさん、私はこっちだから。気を付けて」
「うん、今日は本当にありがとう……あっ、待って!」
すぐに立ち去ろうとするのを慌てて呼び止めると、マントの後姿はピタリと歩みを止め、音もなく振り返った。ヨハンナは、冬用のマントの下で片手を握り締めた。今引き留めなくてはこの縁がなかったことになる、そんな気がしていた。
「ねえ、せっかくだからお友達にならない? 私のこと、呼ぶ時は名前でいいわ。できれば呼び捨てにしてくれる? 私、気軽に呼び合うお友達が欲しかったの!」
相手の少女は特に嬉しそうでもなければ嫌がるようでもなく、首を傾げるようにして一瞬返答を保留していたが、何事か考えをまとめたらしくヨハンナの方へ数歩歩み寄ってくると、どこか気恥ずかしそうに目を伏せながら呟いた。
「……そう。じゃあ、ヨハンナ。私のことも、ベルでいいから」
「うん! ベル、よろしくね!」
少女はなぜかムッと眉をひそめたが、すぐ元通りの沈着な顔に戻って頷き、今度こそ帰路に着いた。中等学校に入って以来何度も繰り返してきた「お友達になる儀式」だが、今日はいつもと少しだけ違っていた。相手は学校で噂の近寄り難い優等生である。その彼女が去り際に見せたほんのりと赤い頰は、額装されたようにいつまでもヨハンナの印象に残り続けた。こうして、ヨハンナにとっての少女小説の王子様は、友人のベルに姿を変えた。
それから進級までのしばらくの間、ヨハンナとベルは学校の廊下で会ったら言葉を交わす程度の、やや疎遠な友人関係を続けていた。しかし、季節が巡って新学年が始まる秋になると、途端に状況が変わった。二年生に上がった際のクラス分けで、同じクラスに所属することになったのである。ベルは涼しい顔をしていたが、ヨハンナは大いに喜んだ。座席が指定される授業以外では当たり前のようにヨハンナがベルの隣に陣取り、ダンスの時間もベルの手を握って離さないので、事情を知らない級友たちはさぞかし驚いたことだろう。ホフマンさんとなにかあったのか、と問われると、ヨハンナはいつも嬉しそうに「運命の出会いを果たしたの」、そう答えるのだった。ヨハンナとそれまでの友人たちの親しさや、ベルの周囲にヨハンナ以外があまり寄り付かないことには変わりがなく、誰がどう見ても平和な日常風景だった。ただ、ヨハンナという仲介役ができたことで、密かに憧れているという女子生徒たちが、よりベルに親しみを感じられるようになったのだった。
進級当初は以前のように堅い態度で接していたベルも、甘えん坊でおっとりとしたヨハンナを憎からず思い始めたらしく、時折多少の感情を覗かせるようになった。それも注意していなければ見逃してしまう程度のものなのだが、ヨハンナにはベルの変化が嬉しく、機敏に感じ取れるようになっていった。もっとも、ベルに言わせれば「ヨハンナは放っておくと心配だから」とのことである。
学業でも優秀なベルと同じクラスになったことで、ヨハンナは苦手な科目を彼女から教わるようになった。ヨハンナを指導する時のベルは懇切丁寧で、生徒役が理解するまで根気強く落ち着いて説明してくれたので、弱点を克服することは不可能ではないと気付くこともできた。
ある時、ヨハンナは代数学の問題を睨んでいるベルを机の向かい側から見つめていた。親しくなって改めて感じたことだが、ベルは実に整った顔立ちをしている。平生の冷ややかな表情が大人びた雰囲気を醸し出してはいるが、どちらかといえば美しいというよりも可愛らしい部類に入るかもしれない。それに、制服に隠れてはいるが、多少筋肉の付いたしなやかな手足は一般の女子生徒とは違った美しさを備えている。ヨハンナは頬杖をついて、感想を素直に口に出した。
「ベルって、すごく綺麗よね。人から言われない?」
顔を上げたベルは怒っているようにも見えたが、その顔色はすぐに落ち着いた。
「……剣筋とか身のこなしが、って意味なら」
「違うのよ、容姿のこと! 私、ベルみたいな子を美少女って言うんだと思うわ」
「ヨハンナ、ちゃんと問題文を読んでね」
俯いたベルは照れ隠しをしているようで、ヨハンナの目には微笑ましく映った。本人に自覚がなくとも、自分が理解していればヨハンナは満足だった。
親しくなればなるほど、ヨハンナはベルに自分以外にも敬称抜きで呼び合えるような親しい友人がいるのかが気になり始めた。幼年学校からの同級生曰く、進学前には数人の親友がいたようだが、全員女学校に進学してしまったということだった。それとなく本人にも尋ねてみると、思いがけない返答があった。
「養成所の同期生とか同い年以上の訓練生からは『ベル』って呼ばれてるけど」
「……えっ、男子からも?」
「ええ。従士は組織に組み入れられることが多いから、上下関係もそうだけど、仲間意識って重要なの。建前上、男も女もないのよ」
学校等では、通常男子生徒は女子生徒を苗字で呼ぶものである。逆の場合は個人の主義によるが、男女間で名前や愛称で呼び合うとしたら、それこそ幼馴染か恋人同士くらいのものだった。気付かないうちに特別感を持っていたことに気付かされ、ヨハンナは恥じ入った。とはいえ、学校にいる間に彼女を気軽に「ベル」と呼べるのはヨハンナをおいて他にはいないはずで、その点で唯一の存在であることに変わりはなかった。そうして不思議な安心感を胸に日々を過ごし、平穏に月日が流れていった。
三年生に進級して、ヨハンナとベルは再び同じクラスに振り分けられた。友人関係という点では二年生から特段変わったことはなく、ヨハンナは持ち前の人懐こさで初めて同じクラスになった同級生を次々に「お友達」に変えていき、ベルは孤高の存在であり続けた。一つ上の学年にもベルと同じ中央養成所の訓練生がいると知ったのは、進級したばかりの頃である。ただし、その人物は男子生徒だった。
「ベル、こっちでも友達できたんだな」
「フランツ、それを言うために待ってたの?」
「や、訓練の時に借りてたブーツクリームを返そうと思ったんだよ。……でもさ、ベルがアディ以外と一緒にいるなんて――」
「アディは友達じゃないから。じゃあ、この後買い物なの」
確かに、男女間でも気楽に呼び合っている。これが養成所式か、とヨハンナは感心した。だが、ベルのことだから、と予想はしていたことだが、上級生に対しても実に愛想もなにもない態度だった。彼は養成所では年上の同期生なのか、とヨハンナが尋ねると、驚いたことにベルはこともなげに「一期上よ」と答えた。なんでも、「一期上にいる同い年の訓練生と親しいから」敬語を省略しているらしい。ただし、校内に限っては先輩として丁重な態度を取るとも言っていて、確かにこの場所は校門の数歩外、紛れもなく校外なのだった。チラリと窺ってみると、体育会系らしく短く切られた亜麻色の髪の少年は、ガックリと肩を落としながら遠ざかっていて、その背には哀愁すら漂っていた。聡明なベルが礼を欠くとは考えづらいが、彼は後輩からぞんざいに扱われて打ちひしがれているのではないか、と思えなくもなかった。
気の毒な少年のことはともかく、ヨハンナはこの時に「アディ」なる存在を初めて認識した。呼び名だけでは男性か女性かは判断できなかったが、その人物が養成所でベルと親しくしているらしい。友達ではないとベルは言っていたが、彼女は養成所でも孤高を貫いているわけではないのだ、と思わず安心した。
この日は授業が午前中で終わるので、二人で文房具を買いに行く約束だった。二人で学外に出かけるのは初めてなので、ヨハンナは今日をずっと心待ちにしてきたのだ。「行こう」とヨハンナがベルの手を握ると、ベルは面食らった様子でヨハンナの方を凝視した。首を傾げる友人に、ベルは戸惑いの理由を言葉少なに語った。
「――ごめんなさい、ダンス以外で友達と手を繋ぐなんて初めてで……驚いたから」
恥じらう表情は、彼女が今までに見せたことのない年相応の少女のものだった。ヨハンナの中に、洋服店で気に入った服を見付けた時のような感情が湧き上がり、思わず笑みがこぼれた。
「わあ、そうなのね! 嫌じゃない?」
「嫌じゃ……ない。でも、少し恥ずかしいわ」
「ふふ、嫌じゃないならこのまま行こうね」
照れを隠せないベルの顔が愛らしく、ヨハンナは上機嫌で手を引いて歩き始めた。ベルもされるがままに歩き始め、制服の二人は商店のある通りへと向かっていった。暑さは和らぎ、秋らしい青空の下には多くの人が行き交っていた。ベルは気恥ずかしそうにヨハンナの隣を歩いていたが、商店街に差し掛かる頃には慣れてきたのか、落ち着いた表情を見せ始めたのだった。出歩きやすい気候になったからか、商店街の往来はかなりの賑やかさを見せていた。はぐれずにいられることも、手繋ぎの効能だろう。
通りの向かいに目当ての店を見付け、石畳を踏んで道を横断しようとしたヨハンナの腰にベルの腕が伸びたのは、まさに一瞬の出来事だった。手を握ったまま突然抱き寄せられ、ヨハンナは驚きに目を見張りながらベルの方を向き、そこに鋭い視線を彼方に投げる友人の姿を見た。真剣な表情に胸が高鳴った気がして、周囲の音はなにも耳に入ってこなかった。
「気を付けて、馬車にぶつかるところだった――ヨハンナ?」
ヨハンナが思わず目を落とすと、ベルの足元には彼女の鞄が倒れていた。咄嗟に鞄を投げ出してまで守ってくれたのだと思うと、ますます鼓動が速くなった。通り過ぎていく蹄と車輪の音を聞きながら、形容し難い衝動に駆られて、ヨハンナは腕を解きかけたベルに抱き付いた。
「ごめんなさい、本当にありがとう! ベルって、本当の王子様みたい……」
「……騎士の方が嬉しいわ」
珍しく茶目っ気のある台詞を返しながら背中を撫でる手付きは優しく、ヨハンナは抱き締める手に力を込めた。行き交う人々は、二人を遠巻きに見守ってくれているようだった。ベルは十四歳の少女でもあり、凛々しい従士候補生でもある――それが実感された放課後だった。そして、ヨハンナの中で、友人のベルは夢にまで見た王子様へと再び姿を変えたのだった。
買い物を終えたあくる日、ヨハンナは一限目の教室に入ってくるベルに向ける目が、昨日までと少し異なっていることに気が付いた。彼女は確かにいつもの親友なのだが、自分の方が変わってしまったようなのだ。ベルの隣に向かう足が、いつもより軽かった。
「ごきげんよう、ホフマンさん」
「おはよう」
「ベル、おはよう!」
「おはよう、ヨハンナ」
ベルの微笑みに、心は一層弾む。自身の心境の変化に、ヨハンナは喜びすら感じていた。
(私、恋しているみたい!)
王子様への恋は、叶わないからこそ美しく楽しいのかもしれない。ベルの隣で昨日買ったペンを見せ合いながら、ヨハンナは新たに芽生えた感情に胸をときめかせていた。
ヨハンナの変化は内面だけにとどまっていたからか、ベルは彼女の気持ちに気付かないまま友人として親しい付き合いを続け、季節は巡って冬が過ぎ、春が過ぎて、三年生の夏がやってきた。ベルは十五歳になり、養成所のある首都へ行ってしまって、ヨハンナはいつも通りベルのいない夏休みを過ごした。秋になって四年生に進級した時、ヨハンナは忘れかけていた「アディ」と再会することになったのだった。
きっかけはふとしたことで、ヨハンナやベルと同じクラスに所属することになった友人たちが「ホフマンさんに中央養成所のお話を聞きたい」と言い出したためだった。ベルは普段養成所のことをあまり話さないので、ヨハンナにとっても願ってもない機会に思われ、ベルをなかば強引に説得して放課後の教室を貸し切りにしたのだった。ベルはクラス全員からの質問を受け付け、その中で今の養成所には女子の訓練生が自分と同い年のもう一人しかいない、と漏らしたのだ。どんな人物なのだろう、と疑問を持ったのはヨハンナ一人ではなく、すぐに質問が飛んだ。ベルの答えは次のようなもので、実に情感がこもっているように聞こえた。
「……名前と見た目は男の子ね。髪が短くてズボンを履いているから、幼年学校の男子とそう変わりがないというだけよ。背も低いしね。そうと知っていればちゃんと女の子に見える。性格は『小さな紳士』なんて呼ばれているのを聞いたことがあるけど、実際は女性の前で格好付けたいだけで、真面目な割にうっかりしているからほとんど台無しだし、やけに馴れ馴れしいし、思っていることがすぐ顔に出るし、いつもヘラヘラしていて気が抜けるし――……でも、どんな時も全力で物事に当たる姿勢は評価している……はず。戦闘中は恐ろしく冷静で、集中力も高くて、一瞬でも気を抜いたらいけないって教えてくれる……こともある。非力さをカバーするだけの技術と、それを身に付けるための努力は誰にも負けていないと思うし……一言で言うなら、見た目や普段の様子に反してすごく強い。……私の次にね」
あのベルがここまで言葉を尽くして語った人物が、果たして他にいただろうか。クラスメイトも同じ感想を持ったらしく、「憧れのホフマンさん」のライバルたるこの人物に、熱烈な関心が向けられることになった。二人目の女子訓練生に手紙を送ることがベル以外の総意で決定した後、ベルの口から顔も知らない彼女の名を聞いて、ヨハンナはようやく一年前のことを思い出した。
「名前は――アーデルフリート・シュッツァー」
「アディ」の本名は、ヨハンナの胸に深く刻み込まれたのだった。
「アディ」への手紙はベルが代表して書くことになり、初回はクラス全員の言葉を詰め込んだ大長編となった。最初の手紙を送ってから返事を待つ間のベルはどこかソワソワと浮き足立っており、落ち着きなく教科書の同じ部分を見つめ続けるなど目に見えて気を揉んでいて、ヨハンナまで心配になるほどだった。それがある朝、ずいぶんスッキリとした面持ちで現れたのだから、返信があったことがすぐに分かった。いわば女の勘とも言える観察眼で、「アディ」とはそんなに大切な人だったのか、と理解した時には既に遅く、ヨハンナは己の恋慕が想像よりも真剣だったことを知って小さな驚きを感じた。
いっそ「アディ」の正体が男性だったなら、想いは永遠に届かないものとして美しい片想いを続けられたのかもしれない。それが同い年の少女と分かってしまうと、一瞬だけ言いようのない哀しみに満たされた。だが、落ち込んだままでいるつもりなどない。聞いてみれば、ベルと「アディ」は七歳の時からライバル関係なのだという。同じ相手を八年も想い続けているのだから、大切な親友を応援するしかない、とヨハンナは心を決めた。一通目に『ベルの親友です』と自己紹介を載せた上で『ベルはあなたのことをとても特別に思っているようです』と書き添えたのも、まだ見ぬ彼女がベルの気持ちに気付くように、と願ったためである。当のベルはこの一言を書くのを嫌がっていたのだが、お構いなしだった。しかし、「アディ」からの返信は『私がベルの特別の興味を惹いているのかどうかは分かりません』と、ヨハンナを落胆させるのに十分な内容だった。
彼女からの手紙の文面は確かに「小さな紳士」と呼ばれるに相応しい知性や落ち着き、そして親しみを感じさせるものだったため、「アディ」は級友たちから「手紙の従士様」と呼ばれ始め、いつの間にかベルと同等以上に憧れを集める存在になっていた。そんな手紙の向こうの少女に対して友人たちと同じ憧憬を向ける一方で、ヨハンナは同時にもどかしさを感じずにはいられなかった。受け取った手紙を読むベルの眼差しを見ていれば、思い入れの深さが分かるというものである。ただ、「早く気付いて」と祈る反面、静かに想いを育て続ける一途なベルが愛おしく、次第に自分の淡い恋心を置き去りにするのが惜しくなっていくのだった。
「……アーデルフリートさんがあんまり鈍いと、私の方が、って思っちゃうよ?」
背後から聞こえないように漏らした呟きに、ベルが「ヨハンナ、何か言った?」と振り返った。今日は二人で花壇の花を世話する当番である。「なんでもないよ!」と笑いながら、ヨハンナはベルに追い付いて腕を絡めた。今のところベル自身が自分の気持ちを理解しようとしていない様子なので、当分養成所の二人の関係は進展しないだろう。それならば、ヨハンナがベルに想いを寄せ続けていても咎める者はいないはずである。矛盾した感情を抱えてはいるが、ヨハンナはこれからも晴々とした笑顔のまま、ベルの親友であり続けるだろう。夢見がちな少女は、気付かぬうちにほんの少しだけ成長していた。
(いつか絶対幸せになってね、私の王子様)
言葉に出さずに、絡めた腕をそっと引き寄せた。運命の出会いから数年、背丈は未だに追い付けずにいた。