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意識と無意識の境界線(短編)

意識と無意識の境界線 〜 Tone

 神経を研ぎすまし爪で糸を弾く。


 ポーン ポロロロ ポロロ ポロロン


 もう随分と長い間練習をしているがなかなか想い通りの音が出ない。


 「はぁ・・・わたしって箏の才能無いのかしら」


 ほとほと自分の体なのに思い通りに動かない指をちょっと恨めしそうに眺める。象牙で出来た爪の一角がやや丸まっているのは私の練習の成果ではなく、祖母の形見として譲り受けた爪だから。箏も祖母がお嫁様になる前から使っていたものだ。


 だからとっても・・・良く言えば物持ちが良い・・・いいえ正直に言えば、私が蔵で見つけた時には、とっても小汚かった。箏袋も色こそ濃い紫と判るが袋だったとは思えない程にボロボロ、正直言って、直接手で触れるのも、ちょっと・・・、と躊躇してしまうような状態。


 でも大切な祖母の形見だから処分するのにためらいがあった。何故か私はこれを弾いてみたいと思ったのだ。20歳頃までは趣味でピアノを弾いていたが、社会人になり仕事に追い立てられるようになれば、いつの間にか触れる事は無くなってしまっていた。


 私が物心ついた時には祖母はもう祖母で耳は遠くなっており、足腰もあまり良くない状態だった。だから祖母が箏を弾いている姿は見た事が無かった。


 この祖母の箏に出会ってから暫くは心を引かれながらも手つかずなままでボロボロの状態で部屋の片隅の壁に立てかけていた。だからいつでも視界には入る。時々思い出したようにこの箏をどうしようかと悩んでみるが、結局形ばかりだった。




 そう言う事を何度か繰り返し、気づけば箏を自分の部屋に置くようになってから一年が過ぎようとしていた。


 「ねぇ、やっぱりもう一度音を奏でたいと思うわよね?」


 ボロボロの胴を指でスイッと撫でポツリと呟いてみる。僅かに引っかかるようにして付いていた糸に触れたのか、微かに箏から音が聞こえた。まるで箏から答えを貰ったかのように感じる。


 「ふふ、そうよね。折角、箏として誕生したのだものね。・・・きっと手入れをすればまた弾けるわよね」


 ようやく本腰を入れ箏の修復を依頼できるところを探そうと心に決める。


 翌日、何の気なく立ち寄ったデパートでちょうど伝統工芸・民芸品を開催していた。壁にかけられている掲示を見れば、“箏”という文字が目に飛び込んできた。私は何も考えずに催事場へと足を向けていた。


 目的の場所に辿り着けば、そこは広い催事場で数多あるブースの中でもほんの片隅にあり、ようやく辿り着いた場所だった。

 狭いながらも箏が数本立てかけられてあるのを見れば、すっかり心を奪われてしまった。幸いと言っては何だが店主はおらず思う存分眺める事が出来た。当然片隅とあってお客はいない。

 一人でじっと箏を眺めていれば背後から声をかけられた。振り向けばそこには店主らしき男性がいた。


 「お待たせいたして申し訳ありません、所用で席を外しておりました。本日は何かご入用ですか?」


 見た目あか抜けた様子の無い店主である。(いや失礼)


 「いいえ、ちょっとご相談したい事があって、いいかしら?」


 「構いませんよ。どういったことでしょうか」


 買い物客ではなく相談だけという私に、店主は嫌な顔を見せずに話を促す。そこで思い切って家にある箏の話をした。黙って話を聞いていた店主は口元に笑みを浮かべると言った。


 「ようございます。丁度明日までこちらにおりますからお持ち下さい」


 私はホッとして「はい、必ず明日持って参ります」と約束をすると急いで家に帰った。


 翌日は残念ながら小雨が降っていた。車に箏を積み込みデパートへと向かう。自分の身長より遥かに大きな箏を催事場まで運ぶ。本当はデパートの人にお願いをすれば良かったのだが、どうしても自分の手で運びたかった。幸いにも箏は軽い。私の力でも難なく運ぶ事が出来る。


 ボロボロの箏袋をひっかけた箏を持ってきた私を、店主は快く出迎えてくれた。そして箏を受け渡せば店主はスグに箏袋だったものを丁寧に剥がして行く。店主はなぜか箏袋も丁寧に見ていた。そして納得したのか丁寧に纏めて一つ所に置く。続いて、ぼろぼろになった絹糸に手をかける。店主が笑顔を見せた。私は不思議に思って尋ねれば店主はこう答えた。


 「今はもう絹糸は使いません。随分前からテトロンへ変わっているのです。それにこの糸は、長年使われていなくてこのような状態ですが、実に質の良いものです。当時においてもこのような糸は一般的には使われていないと思いますよ。そもそもこの箏袋ですがこれは非常に高価なものです。もう何にも使えませんが捨てるのが忍びないものですよ」


 まだ袋と糸だけだ。箏本体へ説明には及んでいない。なのに店主は感嘆の息を漏らし説明をしている。その事に私はいささか怖くなってきた。


 (何の知識も無く勉強もしていない私からこの人は黙っていれば簡単にこれをだまし取れるはずなのに・・・)


 無知と言うものの恐怖を改めて味わった。こうなれば腹をくくるしか無い。昨日と今日合わせても15分も会っていない人ではあるが信用しようと決めた。


 「店主、絹糸は使われていないとおっしゃいましたが、希望をすれば使えるのでしょうか?」


 私の質問に店主はいささか困った顔をした


 「残念ながらこの太さの絹糸はもう殆ど作られておりません。もちろん無い訳ではありませんが、お弾きになる方のメンテナンスが大変になります。ご自分で糸の調整をしてもらわなければなりません」


 「テトロンだと不要だと言うの?」


 「はい、通常テトロンでは150kgの力で糸を張ります。そうそう緩まないようにです。を最初に立てる際にはいささか力が必要になりますがその内緩んで参ります。ゆっくり時間をかけて。ですが絹糸はしょっちゅう緩みますのでご自分での調整が必要となるのです」


 果たして素人の私にそれが可能なのだろうか、考えるまでもなくそれは難しいと判断した。一旦保留にし、箏の見立てを問うてみた。


 「正直申しまして、ここでパッと見ただけでもかなり古いものでございます」


 店主はいつの間にか糸を全部取り外していた。そして指差しながら説明を始めた。


 「ここは竜頭、こちらは竜角。この胴の部分は槽。お尻にあたるここは竜尾、そして雲角」


 竜?


 「この竜角と雲角に使われている素材は恐らく黒檀。それに・・・ちょっとご覧下さい」


 店主はと口前と呼ばれた所のカバーを外していた。カバーみたいなものも口前というらしい。


 「ここに絵が描かれていますね。蒔絵です。こんなに贅沢な蒔絵は見た事ありません。パッと見ただけでもふんだんに銀と金を使って描かれてあります。今ではちょっと筆の先につけて、さっと筆を走らせるだけなんです。それが、このように立体的に描かれている蒔絵はありません」


 ほぅっと店主が溜め息まじりの吐息をつく。

 恐らく専門家からの目で見ても凄いものなのだろう。先ほどまでの柔和な笑顔がいつのまにか強ばりを見せている。

 店主曰く「芸術品ですね」


 残念ながら私は蒔絵の事も詳しくはないため「そうですか」としか答えられない。


 店主は顔を近づけ蒔絵を観察していた。そして何度も「凄いなこれは」と呟いているのが聞こえてきた。ようやく満足したのか店主が顔を上げる。そして何気に口前のカバーを手に取るとペリッと剥がした。

 私は目を見張り何をするのかと問う。すると店主は「見て下さい」と言って剥かれたカバーを差し出した。そこに貼付けられていたのは新聞だった。


 日十二月十年五和昭


 「ん? あ、昭和五年十月二十日・・・そうね、右から読むのね」


 基本的な間違いにちょっと恥ずかしい。誤摩化すように新聞の他の部分に目を落とす。


 「蔵省の手腕よりも各省の節約高如何 ゾウ算編成難破の鍵・・・?」


 「あっはっは、昭和初期も今も財政難には変わらないようですね、ただ当時は戦争の影が色濃くあったでしょうけど」


 何とも歴史的なご対面だった。まさかこの絹地の下にこのようなものがあるとは。


 「カバーだけは新しくされていたようですね」


 「とおっしゃると箏本体はこの日付よりも古いと?」


 「はい。ざっと見ただけでも、100年以上前のものでしょう。おばあさまがお使いだったとか?」


 「ええ、祖母は数年前に103歳で身罷りましたわ。そうだわ、これを見てもらえる?」


 私は木の箱を二つ取り出した。店主は手に取り蓋を開けると「ハッ」と息をのむ音が聞こえた。


 「どうかなさいましたか?」


 「い、いいえ。ええ・・・」


 既に店主の顔には余裕が無い。


 「こちらは黒檀と象牙とクジラの骨、こちらは象牙。どちらも今は無いと言っても過言ではないでしょう」


 正確にはこの二種類の柱はまだ存在している。だがどちらも非常に高価になっており驚く程の値がつくそうだ。ほんのちょっとクラクラしてきた。確かに象牙や黒檀の世界的な取引はない。だから高価になるのは仕方ない。だが当時はどうだったのだろうか。一般的だったのでは? そう店主に問えば店主は首を横に振った。


 「いいえ。恐らく今以上に高価だったはずです。このような品々を手に出来る人は限られていたはずでしょう」


 そう言われて思い当たる事があった。幼い頃祖母から聞いた話だ。


 祖母が生まれた頃までは身分制度があった。当時は華族と呼ばれ、ある爵位をもっていたそうだ。屋敷は目黒にあった。次代へ引き継ぐにあたり土地を分納し今では当時の半分程の土地しかない。私たち家族はそこに新しく家を建て住んでいる状態だ。

 祖母の生まれた時代より前には旗本と言われていたという。思わず三男坊? と言ってしまったのは幼い頃のご愛嬌。

 そして祖母の母は東北地方のとある大名家のお姫様だったと。祖母の母と祖母はずっとこの土地に住まってきたとーーー。


 「もっとお洒落をしなさい。私が若い頃は、いつもお洒落をして歌舞伎を見に行ったものよ」


 そう言って微笑む100歳近い祖母を思い出した。私がいつもジーンズにシャツという簡単な服装しかしていないのを快くは思っていないようでいつもその事を言われていた。


 (余計な事まで思い出してしまったわ)


 


 気持ちを切り替え、参考になるならと搔い摘んで祖母から聞いた話をした。店主は黙って聞いていたが、最後は納得した顔をしていた。


 「おばあさまのお母様のご実家のお名前は?」


 「確か○○ですわ」


 「やはり」


 何がやはりなのか、首を傾け店主を見れば、店主は象牙の柱を取り出した。


 「ここをご覧下さい」


 柱をひっくりかえし内側を見せてくれた。そこには、先ほど私が答えた名前があった。


 「良いものは長く引き継いで行かなければなりません。きっとおばあさまはそれをお望みなのではないでしょうか。だからこそ、あなたへ託されたのではないでしょうか。高価かそうではないかではなく、おばあさまは箏を愛されていたのではないでしょうか。“道具”として、いつまでも引き継いで行って欲しいと・・・」


 「修理できるでしょうか。祖母が使っていた当時と同じように箏を弾く事ができるようになりますでしょうか?」


 気がつけば私はそう店主に問うていた。


 「なりますよ。少しお時間を下さい。それと、研究材料としてこちらを預かりたいのですがご了承願えないでしょうか」


 「研究? 珍しいものですの?」


 「はい。この作り、どこのものか判りません。箏は作成する地域の特色があるのでどこで作られたのかたどる事が出来るのです。ですがこれは、恥ずかしながらどこの誰が作ったのか判りません。詳しくは工房へ持ち帰らせていただきたく思います」


 私はよろしくお願いと言い、工房へ持ち帰りたいと言う店主の願いをきいた。






 しばらくして約束通り修復を終えた箏と柱達が戻ってきた。箏は真新しい糸が張られ、磨かれ美しい目が現れている。柱も奇麗に磨かれ艶が出ている。口前と尾絹、柏葉は新しくなってはいたが、口前のカバーを外せば蒔絵はそのまま美しい姿を見せている。


 私は箏のあまりの変身ぶりにしばし言葉を失ってしまった。





 「詳細までは判りませんでした。ただ、この胴の形はその昔、東北の方で作られた事があるとか」


 「そうですか。思いがけず家族の歴史を知る事ができました。ありがとうございました」


 「いいえ、こちらこそ大変勉強なりました。なにかございましたらご連絡下さい」


 店主は最初に出会った時と同じ和やかな笑みを見せて去って行った。






 もう琴を弾かないという条件は無くなった。折よく先生にも巡り会い、目下、必死に練習中である。そうそう、爪も祖母のものを使っているが指にはめる輪っかだけ自分サイズのものを、自ら取り付けた。この輪っかが唯一の私専用だ。

 爪も厚みのある象牙で出来ている。だがこれはあくまでも道具だ。大切に大切に私の子ども達へ私が聞いた祖母の話とともに受け継いでいってもらおうと思っている。・・・子どもはまだ全く先の話ではある。相手も必要だ。




 最近は箏を弾いている夢を見るようになった。それほどに箏に熱中しているのかと自分でも笑ってしまう。夢なのだが教えてくれる先生もいる。若い女性だ。先生自身は毎回奇麗な着物を着ているが、歯に衣は着せないようだ。どこか祖母に似た口調で・・・非常に厳しい。


 「夢なのに・・・」


 「何を甘えた事を。一に練習、二に練習、三四も練習、五も練習ですわ。今の半ヲシ、押し過ぎですわ。八と巾のシャンをもう一度。あ、調弦が必要かと。サラリンはもっとこう情緒豊かに枯れ葉が舞うようにですわよ。ここの掬いは中指を添えるのです。お歌もいまいちですわ。…もう、全く練習できておりませんのね」


 きっと祖母が若い頃にはこうだったのかもしれないと容易に想像がついた。正直、毎晩の夢がこれではさすがの私も疲れるというもの。夢の先生へそう訴えれば一瞬寂しそうな顔を見せたが、最後には稽古は週に2度と決まった。


 これでゆっくり眠れると私は安心した。今日は確かお休み。ゆっくりお昼まで寝てやろう。



YYYY年 MM月 DD日 土曜日 寝坊中

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