魔女と少年
ぬかるんだ湿地帯を慎重に進む。霧が濃く見通しはすこぶる悪い。後ろに続く仲間とはぐれないように、とアキサリスは細心の注意をはらっているつもりだった。にも関わらず。
「……はぁ」
沼地に足を踏み入れて早々に仲間とはぐれるとは思っていなかった。彼らの首に縄でもつけて引っ張っていけばよかったと思ったが、あとの祭りだ。
霧の中、どこにいるともしれない彼らを探し回るのは効率が悪い。幸いにも、戻る場所は決まっている。彼らだってばかではない。限界を感じればすぐに獣人族の集落に引き返すだろう。
「さて……」
アキサリスは沼の泥を生水をいれていた皮袋に採取し、腰にぶら下げた。
そしておもむろに歩きはじめる。
アキサリスは気付いていた。周囲を漂う霧には微量の魔力が含まれている。誰かが魔力を垂れ流しているのだ。ヒト族の仕業には思えないが、今回の事態に無関係とはいいきれない。身軽なうちに発生源を確かめるのは無駄なことではないだろう。
歩みを進めるうちに、じょじょに魔力の気配が強くなっていく。アキサリスが考えていたよりも、濃く、古い魔力がぴりぴりと肌につきささる。
黒い人影のようなものを霧の向こうに認めたとき、アキサリスは思わず身震いした。
(……引き返すか)
これ以上、進むべきではない。そう思わせるなにかが霧の向こうにはあった。
目線は霧の向こうの影にむけたまま、じわりとじわりと後退する。手のひらは緊張から汗ばみ、この場から一刻も早く去りたいと逸る心を押さえて、彼は慎重に動いた。
そのとき、風が動いた。
アキサリスの真横を一陣の風が通り抜ける。ぶありと足元の泥や霧をかきわけて、まっすぐに霧のむこうの人影に向かって、風が吹く。
ほんの一瞬、クリアになった視界。アキサリスは見てしまった。霧の向こうに佇んでいた人影の正体は、緑色の蔦のかたまりだった。
うねうねと複雑に絡まりあった蔦は、まるで人間の姿をまねているようで、ご丁寧にも顔や胴体、四肢にあたる部分を形作っている。ぱっと見は造りの粗い藁人形のようだが、体を構成する蔦が絶え間なく動いているため、むきだしになった生き物の臓器を連想させる。
アキサリスは舌打ちした。
こちらから見えたということは、蔦の化け物からもアキサリスが見えたかもしれないということだ。
アキサリスが逃亡をはかるよりも早く、緑色の蔦が彼にむかって伸ばされる。
視界も、体の自由も利かない沼地で、彼にできることは少ない。とっさにしゃがみこみ、身を守るために懐に忍ばせていたナイフを構えた。
あの化け物が本当に植物の蔦などであれば、炎を生めば燃やせるだろう。しかし、あれは本当に燃やしてしまっていいのだろうか。アキサリスは迷っていた。獣人族の集落で読み漁った資料には、沼地にこんな化け物がいるという記述はいっさい見つからなかった。
つまり、あの化け物は最近すみついた可能性が高い。しかし。正体が不明だからこそ、燃やしてしまったときになにか弊害が起こるかもしれない。そう考えると手を出す気になれなかった。
「……いいわ。そのまましゃがんでおきなさい」
高い、女の声だ。その声が響くと同時に、再び風が吹き抜ける。今度はアキサリスの頭上を風が凪ぐ音がし、霧をかきわけた先であの蔦の化け物の一部が切り裂かれるのが見えた。どろりとした青い液体が吹き出る。
アキサリスに伸ばされていた蔦は弱弱しく震え、その矛先を変えた。アキサリスを素通りし、その後方へ向かうが、風により蔦の先端が切り落とされると青い液体をたらしながら退いていく。
気がつくと魔力の気配も薄れ、元の静かな霧深い沼地に戻っていた。
「アキ君、あれはよくないものよ」
「……エルゼさん」
霧の中から、見覚えのある黒髪の女と、アキサリスの知らない銀髪の少女が姿を現した。
エルゼはアキサリスの腕をとり、彼を立ち上がらせる。それから、困ったように微笑んだ。
「あれは、精霊族の成れの果て。狂ってしまったのね」
「狂う?」
「ええ。私達は、弱いから」
エルゼの言葉にアキサリスはすぐさま反論した。
「弱い?あれが?いかれてるな」
あんな化け物が存在するなんて、いかれているとしか思えない。あの化け物には、黒い影の不気味さと似た得体の知れない気持ち悪さがあった。
あれをもって弱いと称するエルゼは、けれど、皮肉を言っているようにも見えない。彼女の真意を測りかねていたところで、思わぬ邪魔が入った。
「こんな場所に好き好んで来るあなたたちも、相当いかれてるわよ。獣人族の族長には釘をさしておいたはずだけれど」
長い銀髪のサイドテールを軽くはらって、勝気そうな少女がふたりに歩み寄る。魔術師らしいくすんだ灰色のローブは泥をつくことを嫌ってか、膝丈でばっさりと裁断されており、ほっそりとした白い素足が見えていた。
あの化け物に向かって放たれた風の魔術。エルゼでなければ、この目の前の少女の仕業だろう。
そして、この沼地で魔術を扱う者がいるとすれば、獣人族が忌避した魔女であると考えるのが妥当だ。
「……沼地の魔女か」
確信をもって呼びかけると、少女は呆れたように肩をすくめた。
「なに、そのセンスのない呼び名。だっさいからやめてくれる?」
「あんたにはいくつか聞きたいことがある」
「答える義理なんてないし。さっさと家に帰りなさい。あいつをしとめる邪魔だけはしてほしくないのよね」
あいつ、とはおそらくあの緑の蔦の化け物のことだろう。少女と化け物は敵対しているようだ。
「あんたの邪魔をするか、しないか決めるのは話し次第だ。俺達は獣人族の間で流行っている奇病について調べに来た」
「……あの眠りの病は、さっきの精霊の仕業よ」
少女はあっさりと言った。
「信用するもしないもあなたの自由だけどね」
「あんたはなんであの化け物を倒そうとしてるんだ?」
「理由なんてどうでもいいでしょ」
少女はアキサリスの疑問をはねつけて、彼を睨んだ。
必要以上の情報を渡す気はないらしい。一瞬、険悪な空気がアキサリスと少女の間に流れる。
その空気を取り払ったのはエルゼだった。彼女はぱんぱんっと手を叩いて、にらみ合う少年少女に微笑みかけた。
「そうね。理由はこの際置いておいて、協力しましょうよ。精霊を倒せば、魔女さんも私達も助かるのだから。ね?」
「足手まといはごめんなのよね」
つっけんどんな口調で、少女はエルゼとアキサリスを上から下まで眺めていった。
「大丈夫。もし、私達が足を引っ張るようなことがあれば、見捨ててもらってかまわないわ。あなたの邪魔はしないし、協力するだけ。ね?」
「……あなた、精霊族でしょ。同族を消す行為に手を貸していいの?」
内心、アキサリスは少女の評価を改めた。
エルゼの正体に気付くことのできる人間は少ない。たいていの人間は、エルゼを見て人間族だと思うだろう。彼女はそれだけ人間に近い姿を擬態することのできる精霊族だが、その擬態を見破るだけの力を少女は備えているということだ。
エルゼは笑みを浮かべたまま、うなづいた。
「一度狂ったものは、二度と元には戻せないの」
銀髪の少女は眉をひそめて、エルゼを見返した。
「それが本当なら、私のやり方は正しいということね。安心したわ。……ついてきなさい」
少女はふたりに背を向けて歩き出す。
深い霧に覆われた沼地で、少女を見失わないように歩くのは至難の業だった。実際、アキサリスは何度も少女を見失ったが、エルゼの先導で彼女においつくことができた。
「ここ、私の家」
粗末な小屋の前に立ち、少女は振り向いた。
彼女の指差した小屋は、沼地から伸びる蔦に覆われており、近づくのが躊躇われる雰囲気だ。
小屋から少し離れたところに立っているアキサリスとエルゼの手をつかみ、少女は迷いのない足取りで小屋の入り口の前に立った。
「……なんだ?」
小屋の前に連れて行かれたところで、アキサリスはほんの一瞬、水の膜をくぐりぬけたような違和感を覚える。違和感を探るように周囲に視線を走らせると、ほのかに口角をあげる少女と目が合った。
「ふーん。気付いたの。まるで役立たずってわけじゃなさそうね」
少女は小屋の扉に手をかけて、続けた。
「この小屋の周りには結界が張ってあるの。無関係な人間を近づかせないための、強力なね。いまは私と一緒だから、結界の効果はあなたたちに働いていないけれど」
「結界の性能より、理由を教えろよ」
「ちょっとは感心しなさいよ。つまんない男ね」
こどもっぽく頬を膨らませて、少女はアキサリスをねめつけた。
「あの精霊の影を、この小屋の中に閉じ込めてあるの。少し前にあいつをしとめ損ねたときに、力の一部を奪ってやったのよ。奪われた力をとりもどそうと、あいつはここにやってくるはずよ」
少女が扉を開くと、貧相な小屋の中とは思えない光景が広がっていた。
ちょっとした屋敷風の内装で、あきらかに小屋の外見とそぐわない。広さも、高さも、なにもかもがかみ合っていなかった。
眉をひそめるアキサリスを笑うように、軽やかに少女は小屋の中に歩みを進めた。
彼女に続いて、ふたりも小屋に足を踏み入れる。魔術で泥だらけの足を清め、ビロードの絨毯を踏みしめる。薄暗い屋敷にはまったくひとけがなく、しんと静まっている。
「不思議でしょ。私も最初に見たときはびっくりしたわ。ここは、あいつの空間になってるみたいなのよね」
「入っても大丈夫なのか?あの化け物の力の一部を閉じ込めたつもりで、俺達が閉じ込められた、なんて事態は洒落にならないぞ」
「あら。大丈夫よ。だから、結界が施してあるの。仮に私達が、いま、この空間に閉じ込められたってかまわないのよ。そのときは、あいつの影の力を完全につぶして、脱出すればいいわ。だって、あいつは絶対にここからは逃げられないもの」
「すごい自信だな」
少女は自らの施した結界によほど自信があるらしい。
結界を壊されることはおろか、自分達が返り討ちにあう可能性をみじんも考えていないようだ。少女の様子に危うさを感じながらも、アキサリスは軽く相槌を打った。
「さて。あいつの力を閉じ込めたはいいものの、隠れてしまってるみたいなのよね。まずは影を探し出して、とっつかまえて囮にしないと」
「囮にしたとして、あの化け物がやってきたらどうするんだ」
「もちろん、倒すのよ。当たり前でしょ。精霊族は体の中心に核をもっているわ。それを砕いてしまえば絶命するはずよ」
慣れた足取りで少女は二階へ続く大階段を登っていく。
彼女においていかれないように、アキサリスとエルゼもあとを追った。
「あんた、その様子だと、この屋敷に何度も足を運んでるようだな」
「あら、どうして?」
「屋敷の構造が分かってるだろう。迷いがない。なんでさっさと、あの化け物の力とやらを捕まえておかないんだよ」
二階の部屋をひとつひとつ開けてまわりながら、アキサリスは少女に問いかけた。
少女はつんっとあごをそらして、アキサリスの横暴な物言いに反論した。
「残念。半分当たりで、半分はずれよ」
「はぁ?」
「屋敷の構造はたしかに分かってるわ。でも、この屋敷に足を踏み入れたのは初めてよ」
「つまり……」
「最初に言ったでしょ。ここはあいつの空間になってるって。この空間が模しているのは、私の実家の屋敷なの。だから、構造は分かってる。けど、ここに実際に足を踏み入れたのは今回がはじめてってわけ」
彼女の説明にいちおうの納得をアキサリスは見せたが、そうなると新たな疑問がわいてくる。
なぜ、あの化け物は少女の家を再現できたのだろうか。彼女と化け物には、アキサリスが思っている以上のつながりがあるのかもしれない。
二階の部屋をあらかた調べ終わり、ホールに戻ってきた三人は、一階の部屋の探索を開始した。
「あら?」
最初に屋敷の変化に気付いたのはエルゼだった。
「えーと……あの、魔女さん、アキ君」
「ああ、ユカと呼んで。それで、どうしたの」
一階のホールの絨毯を指差し、エルゼは首をかしげた。アキサリスとユカも絨毯に視線を落とす。
入り口からてんてんと、ビロードの絨毯の上には泥がおちたあとが残っていた。人間ふたり分の足跡のようだ。アキサリスたちのあとに、この屋敷に足を踏み入れた人間がいるらしい。
「……あいつじゃなさそうね。私の結界をくぐりぬける人間がいるなんて信じられないけど」
「この屋敷に閉じ込めた、あの化け物の力っていうのは危険なのか?」
アキサリスの問いかけに、ユカは軽く肩をすくめて答えた。
「少なくとも、安全ではないわね」
「足跡を追おう。化け物の力を先に見つけられたら厄介だ」
絨毯に残された足跡を追っていく。足跡の持ち主もこの屋敷を探索していたらしく、書斎や食堂といった場所に立ち寄っていた。
やがて、泥も乾き、絨毯で拭われたためか完全に足跡の痕跡が消えた。結局は地道に部屋をひとつひとつ探すしかないらしい。
「開きっぱなしの扉があるわ」
エルゼが指し示したのは、周りの扉に比べて少し小さな扉だった。
三人は急ぎ足で扉に近づき、部屋の中を伺った。一目みただけで異常だと分かる光景が広がっている。部屋の中は薄暗く、部屋全体がみっしりと緑の蔦で覆われていた。
その部屋の中心にはひとりの少年が倒れており、彼を抱える少女の姿があった。
少女のからだは薄ぼんやりとした光に覆われていて、焦点の合わない目で中空を見つめている。
アキサリスは少女に駆け寄ろうとして、思いとどまる。彼女の背後に、ゆっくりと迫る二本の緑の蔦に気がついたからだ。彼は烈風をイメージし、迷いなく蔦に向かって魔術を放った。彼の生み出した風は蔦の先端を切り落とし、壁にへばりつく蔦を傷つけ消えた。
先端を切り落とされた蔦は、獲物を狙い定めるようにうねうねとうごめている。
「やるじゃない、あなた」
蔦と対峙するアキサリスの隣に並び、ユカも臨戦態勢をとった。
部屋の中で座り込む少年少女をアキサリスは知っていた。沼地ではぐれた彼の連れだ。ずいぶん厄介な場所で再会してしまったが、間に合ってよかったとも思った。