襲来
お店の外に出ると、そこかしこから叫び声がした。
逃げ惑うひとびとが、南へ、北へ、東へ西へ入り乱れている。
どうやら、現れた影の数は一体や二体ではないらしい。最悪、街のそこかしこに影が現れたのかもしれない。
「細い路地では不利だわ。広い場所に出ましょう」
エルゼさんはドレスの裾をたくしあげて、腰の辺りできゅっと結んだ。
「それなら、こっちの道に。曲がりくねってるけど、大通りに繋がってる」
リュネちゃんが指し示した方角に向かって、わたしたちは走り出す。挟まれたらおしまいだ。一刻も早く、逃げ場を確保できるところに行かなければ。
薄暗い路地を全速力で駆け抜ける。途中、いろんなひととすれ違ったけれど、みんな恐怖に顔を強張らせていた。
また、叫び声が聞こえた。ぞんがい、近い。
影に出会わないことを祈りながら進むと、昨日、リュネちゃんに連れていってもらった装飾屋が見えてきた。
その前を通るときに、開きっぱなしの扉をなにげなく覗いてみると、あの老紳士が壁際に追い詰められているのが見えた。
「あ!」
知り合いというほどでもない、たった一度お店にお邪魔しただけの関係だけれど。わたしは思わず声をあげて立ち止まった。
「どうしたの?」
エルゼさんも立ち止まり、わたしの視線の先を追う。
わずかな逡巡のあと、エルゼさんは店の中に飛び込んだ。引き止める間もなかった。
エルゼさんは影を横に突き飛ばすと、老紳士の右腕をとった。そのまま紳士を引き寄せて、力任せに入り口にむかって放り投げる。
わたしはあわてて紳士をキャッチしようと動くけれど、支えきれるわけもなく、紳士ごと後ろに倒れてしまった。い、痛い。痛いけど、なんとかなった。
エルゼさんはすばやく入り口まで走って戻ると、急いで扉を閉めた。
扉が閉まる瞬間、黒い影がわたしたちに向かって突進してくるのが見える。
木製の扉を、影がつきやぶってしまうのか、あるいは通り抜けてしまうのか。それすら分からないけれど、嫌な予感が膨らむ。
しかし、エルゼさんが鋭い表情で扉に手をかかげると、一瞬、強烈な閃光が宵闇を切り裂いた。同時に、発光する奇妙な文様が装飾屋の外壁に刻まれる。
よく分からないけど、なんだかすごいことが起こっている。
腕の中に倒れていた老紳士も、呆然とした顔つきで店を眺めている。
エルゼさんがほっと息を吐いてわたしたちに振り向くと、老紳士ははっとした様子で腰を折った。
「ありがとうございます。精霊の方……」
「いいえ。一時的に閉じ込めただけですから。とにかく、一緒に逃げましょう」
老紳士の手を引いて、細い路地を駆けていく。
リュネちゃんとは、わたしが立ち止まったときにはぐれてしまったようだった。彼女には地の利がある。きっと大丈夫のはず。そう思って何度目かの角を曲がり、やっとわたしたちは大通りに戻ってくることができた。
ほっと安心したのもつかの間、ものすごく大きな音が前方から上がり、通りに出ていた出店が何件もつぶれているのが目に入った。
潰れた出店の上には、白い鎧を纏った警備隊士が何人も折り重なって倒れていた。
なにか、大きなものに投げ飛ばされた。そんな風な感じだ。
「第二小隊は東に回れ!市民を中央神殿へ誘導しろ!本体は中央通りで戦線を張れ!なにがなんでも持ちこたえるんだ!」
喧騒と悲鳴の中、聞き覚えの張りのある声が響き渡った。
警備隊を率いたカナンさんが銀の剣を携えて指示を出すと、統率のとれた動きで隊士たちが市民を誘導させていく。
カナンさんは隊士たちを率いて影と戦っていた。
指示を出すだけではなく、自ら剣を抜き、大通りに迫ってくる影達をなぎ払っている。
なんだか、本当に、わたしが考えているよりもたくさんの影がそこにいた。
路地から、地面から、夜の闇が溶け出るようにのっぺりとした黒い影が湧き出てくる。
「君、危ないから早く避難して!」
警備隊のひとが大きく手をふって、南へ行くように誘導される。
けれどわたしは、前線で戦うカナンさんから目を離せなかった。
「リンちゃん、行きましょう」
エルゼさんに腕を引かれる。
そうだ。わたしがここにいたって邪魔になるだけだ。
わたしはなんの役にもたたない。アキちゃんが影に襲われたときも、エルゼさんが影たちに囲まれたときも、装飾屋の老紳士が壁に追い詰められていたときも、なにもできなかった。
だからせめて、できるひとたちの邪魔だけはしないようにするのが、いい選択なのだろう。
エルゼさんに手を引かれて、南に避難しようとしたときだった。
ぞくりと、背筋が震えた。
奇妙な悪寒が全身を走り抜けて、背後のつめたいひんやりとした気配に戦慄する。
「あれは……」
誰かがぽつりと呟いた。
大通りの真ん中で、小さな、にんげん大の黒い影達が重なるように寄り集まって、ひとつの大きな塊になっていく。誰もその動きを止めることなどできなかった。
影達はお互いに絡み合い、溶け合い、胸の奥を揺さぶるような咆哮をあげた。
本能的な恐怖と、足の力を奪う無力感と、ほんの少しの胸の痛み。きっとそのようなものが影の咆哮には込められていた。
ひとびとがわずかに取り戻しかけていた冷静さも吹き飛んで、呆けたようにみな立ち尽くしていた。
「なにをしている、避難を急がせろ!前線部隊は恐れるな!図体がでかかろうと影は影だ!」
なにかに囚われかけていたひとびとも、カナンさんの怒声ではっと目が覚めたように動きだす。
そしてカナンさんは自ら先陣を切って、巨大な影に向かって走り出した。
カナンさんの動きに反応するように、黒い影から鋭いとげがいくつもカナンさんにむかって伸びていく。危ない!
寸でのところで、カナンさんは鮮やかにとげを避け、逆にそれらを切り裂いた。
大地に突き刺さった影は霧散して、地面には傷跡だけが残っている。
「朝が来るまで持ちこたえるんだ!この場をしのぎ、生き残ることを考えろ!」
カナンさんに続くように、前へ出る警備隊士へカナンさんはそう言い聞かせた。
たしかに、こんなに巨大な影を倒すことなんて、きっと難しいに違いない。
兵士たちだけならともかく、ここは街の中で、戦えないひとたちを守りながらの戦闘なのだ。
「み、南の通路にも巨大な影が!!」
悪いことは続くらしい。
どうやら避難所に続く道に影が現れて、わたしたちは完全に退くことも進むこともできなくなった。
その場のひとたちに動揺が広がる。思わず、剣を落としてしまった隊士すらいた。
けれどカナンさんは顔色ひとつ変えずに声を張り上げた。
「隊をわけるぞ!北側には第一小隊と第四小隊、南側には第五小隊があたれ!南には神殿部隊が控えている、第五小隊は影を刺激しないように。影側から仕掛けてきたら迎撃しろ!」
「はっ!」
一瞬崩れかけた空気は、カナンさんの指示で持ち直したようだった。
警備隊士たちはみなそれぞれの持ち場に走り、周囲を警戒している。
逃げ遅れたわたしたちを守るように周りを囲み、影が近づけば剣で応戦する。夜が明けるまで、耐えしのぐのだ。
「うわぁ!」
しかし、思いもよらないところから悲鳴があがった。
警備隊士が取り囲み、守っているはずのひとびとの中心から、ぞわりと黒い影が一体姿を現したのだ。
そうだ。室内にだって関係なく影は現れたのだから。
どこに現れたって不思議ではないのだ。たとえ、ひとびとのど真ん中にだって。
安全だと思っていた場所に、とつぜん現れた影に、わたしたちは恐慌状態に陥った。こうなればもう言葉は無力だ。みんなで押し合いへし合い、黒い影から離れようと警備兵達の輪から抜け出ていく。強い力で押されて転ぶこどもがいたって、誰も見向きもしない。この危機的状況で、他人に構っていられる余裕なんて誰もないのだ。
けれど輪から離れれば、巨大な影が待ち構えている。ひとびとは行き場を失って、右往左往するばかりだ。
もうだめだ。
誰もがそう思った。カナンさんや警備隊はがんばってくれている。でも、精神的にもう限界だった。
そのときだった。
巨大な黒い影が、溶けていく。
いったいなにが起こったというのだろうか。
まるで強烈な光に照らされたように、影は少しずつ少しずつ溶けていった。
最後には、まるで影なんて嘘のように、静かな夜の闇が花の街に横たわっているだけだった。
「おまえってさ、ほんとでたらめすぎ」
心底つかれたような、げっそりとした少年の声がやけに響いた。
「うるせー。置いていかなかっただけマシだろ。感謝しろ」
ほんの半日、離れていただけなのに。やけに懐かしい声。
彼の気配は思いのほかすぐ近くにあって、その気配に、わたしは思い切り抱きついた。