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『お姉ちゃんだから』

作者: ツバキ
掲載日:2026/08/26



十歳の誕生日に、私は妹へケーキを譲った。


「お姉ちゃんなんだから、我慢できるよね?」


母にそう言われたからだ。


妹の美咲は、生クリームの苺がたくさん乗った方を選んだ。


私は残ったチョコレートのケーキを食べた。


その日からだったと思う。


私が何かを欲しがるたびに、


「お姉ちゃんなんだから」


と言われるようになったのは。


新しい服。


最後のプリン。


父と二人で出かける約束。


誕生日プレゼント。


妹が泣けば、私が譲る。


妹が欲しがれば、私が我慢する。


それが我が家では当たり前だった。


「お姉ちゃんなんだから、妹に優しくしてあげなさい」


私は頷いた。


「お姉ちゃんなんだから、妹に教えてあげなさい」


私は頷いた。


「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい」


私は頷いた。


だから私は、しっかりすることにした。


勉強をした。


毎日、妹が寝たあとも机に向かった。


数学の問題集を繰り返した。


英単語を覚えた。


テストで九十点を取った。


嬉しかった。


でも次の日。


妹が百点を取った。


「すごいじゃない、美咲!」


母が笑った。


私は笑えなかった。


美咲は私が使い終わった問題集を少し眺めただけで、同じ問題を全部解いた。


「お姉ちゃんが教えてくれたから」


美咲は嬉しそうに言った。


私は、


「そう」


とだけ答えた。


悔しかった。


だから、もっと勉強した。


高校では毎日図書室に通った。


休日も遊ばなかった。


成績は学年十位まで上がった。


先生にも褒められた。


「努力家だな、香織は」


その言葉が嬉しかった。


努力すれば、いつか届く。


そう思っていた。


けれど、美咲は高校に入ってからも私より上だった。


全国模試で名前が載った。


学校代表に選ばれた。


私は十位。


美咲は一位。


しかも本人は、


「そんなに勉強してないよ」


と言った。


嘘ではなかった。


それが一番苦しかった。


私は毎日三時間勉強している。


美咲は一時間もしない。


それでも勝てない。


だから、さらに勉強した。


三時間を四時間にした。


四時間を五時間にした。


休日は八時間。


睡眠時間まで削った。


それでも、一位は美咲だった。


一度だけ、模試で私が二位になった。


一位はもちろん美咲だった。


答案を返されたとき、私は悔しくて泣いた。


それを見た美咲が、


「お姉ちゃん、すごいよ」


と言った。


「私、香織みたいに努力できないもん」


私はその言葉を聞いて、


余計に泣きたくなった。


努力している私を褒めている。


悪意なんてない。


だから、憎むこともできなかった。


大学に入ってから、私は初めて恋をした。


直人だった。


同じサークルの人だった。


優しくて、よく笑う人だった。


私は少しずつ距離を縮めた。


一緒に帰った。


映画にも行った。


告白しようと思っていた。


その矢先だった。


直人が私に言った。


「俺、美咲ちゃんのことが好きなんだ」


頭の中が真っ白になった。


「……そうなんだ」


「ごめん」


「謝らなくていいよ」


本当に、謝る必要なんてなかった。


美咲は何も悪くない。


私が勝手に好きになっただけだ。


帰宅すると、美咲がいた。


「お姉ちゃん」


「なに?」


「直人さんのこと、聞いた」


「……うん」


「ごめんね」


「だから、謝らなくていいって」


美咲は黙った。


しばらくして、


「私、お姉ちゃんには勝てないと思ってた」


と言った。


私は笑った。


「何それ」


「だって、お姉ちゃんは何でも頑張るから」


「……私は、何にも勝てなかったよ」


美咲は何も言わなかった。


私はその夜、久しぶりに泣いた。


声を出さないように布団を被って。


翌朝には、いつも通り起きた。


仕事に行った。


帰ってきて、夕飯を作った。


風呂に入った。


眠った。


次の日も同じだった。


何も劇的には変わらなかった。


私は天才にならなかった。


突然、誰かが私の才能を見つけてくれることもなかった。


妹を追い越す力も、


妹から恋人を奪い返す力も、


過去をやり直す力も、


私にはなかった。


二十七歳になった。


美咲は海外の大学院へ行った。


そこでまた賞を取った。


母は電話で嬉しそうに話していた。


「美咲は本当にすごいわね」


私は、


「うん」


と答えた。


電話を切ったあと、窓を開けた。


春だった。


風が入ってきた。


私はふと思った。


――私、何がしたかったんだろう。


妹に勝ちたかった。


両親に認めてほしかった。


恋人に選ばれたかった。


一番になりたかった。


でも、それだけだったのだろうか。


私はずっと、


「お姉ちゃんなんだから」


という言葉の中で生きてきた。


妹に譲ること。


我慢すること。


頑張ること。


しっかりすること。


誰かのために生きること。


それが私自身の望みなのだと思い込んでいた。


だから私は、その日初めて、


「妹に勝ちたい」


以外のことを考えた。


小さな部屋を借りた。


好きな家具を買った。


誰にも譲らなくていいソファ。


自分だけが食べるプリン。


壁には、自分で選んだ絵を飾った。


誕生日。


美咲から電話が来た。


「お姉ちゃん、誕生日おめでとう」


「ありがとう」


「今年、帰ったら一緒にご飯食べようよ」


「うん」


少しだけ沈黙があった。


そして美咲が言った。


「お姉ちゃんは、元気?」


私は窓の外を見た。


昔なら、


「元気だよ」


と答えていたと思う。


でも、その日は違った。


「うん。前よりは」


「そっか」


「美咲」


「なに?」


私は少し迷ってから言った。


「私ね、ずっとあなたに勝ちたかった」


電話の向こうが静かになった。


「……うん」


「でも、たぶん一生勝てないと思う」


「そんなこと――」


「あるよ」


初めて、自分で言った。


「私はあなたより才能がない」


口にすると、思っていたより苦しくなかった。


「だから、もう勝とうとするのやめる」


「お姉ちゃん……」


「その代わり」


私は笑った。


「これからは、自分のために頑張る」


電話の向こうで、美咲が泣いた。


私も少しだけ泣いた。


でも、それで過去が戻るわけじゃない。


失ったものが戻ってくるわけでもない。


私は妹に勝てなかった。


たぶん、これからも勝てない。


恋人も取られた。


両親の愛情も、何度も妹に譲った。


努力した。


それでも届かなかった。


だからといって、私の人生まで妹のものにする必要はない。


私は電話を切った。


冷蔵庫を開ける。


昨日買ったプリンが一つ入っていた。


誰にも譲らない。


私はそれをスプーンですくった。


甘かった。


少しだけ、涙の味がした。


それでも私は食べた。


最後まで。


自分の分として。

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