『お姉ちゃんだから』
十歳の誕生日に、私は妹へケーキを譲った。
「お姉ちゃんなんだから、我慢できるよね?」
母にそう言われたからだ。
妹の美咲は、生クリームの苺がたくさん乗った方を選んだ。
私は残ったチョコレートのケーキを食べた。
その日からだったと思う。
私が何かを欲しがるたびに、
「お姉ちゃんなんだから」
と言われるようになったのは。
新しい服。
最後のプリン。
父と二人で出かける約束。
誕生日プレゼント。
妹が泣けば、私が譲る。
妹が欲しがれば、私が我慢する。
それが我が家では当たり前だった。
「お姉ちゃんなんだから、妹に優しくしてあげなさい」
私は頷いた。
「お姉ちゃんなんだから、妹に教えてあげなさい」
私は頷いた。
「お姉ちゃんなんだから、しっかりしなさい」
私は頷いた。
だから私は、しっかりすることにした。
勉強をした。
毎日、妹が寝たあとも机に向かった。
数学の問題集を繰り返した。
英単語を覚えた。
テストで九十点を取った。
嬉しかった。
でも次の日。
妹が百点を取った。
「すごいじゃない、美咲!」
母が笑った。
私は笑えなかった。
美咲は私が使い終わった問題集を少し眺めただけで、同じ問題を全部解いた。
「お姉ちゃんが教えてくれたから」
美咲は嬉しそうに言った。
私は、
「そう」
とだけ答えた。
悔しかった。
だから、もっと勉強した。
高校では毎日図書室に通った。
休日も遊ばなかった。
成績は学年十位まで上がった。
先生にも褒められた。
「努力家だな、香織は」
その言葉が嬉しかった。
努力すれば、いつか届く。
そう思っていた。
けれど、美咲は高校に入ってからも私より上だった。
全国模試で名前が載った。
学校代表に選ばれた。
私は十位。
美咲は一位。
しかも本人は、
「そんなに勉強してないよ」
と言った。
嘘ではなかった。
それが一番苦しかった。
私は毎日三時間勉強している。
美咲は一時間もしない。
それでも勝てない。
だから、さらに勉強した。
三時間を四時間にした。
四時間を五時間にした。
休日は八時間。
睡眠時間まで削った。
それでも、一位は美咲だった。
一度だけ、模試で私が二位になった。
一位はもちろん美咲だった。
答案を返されたとき、私は悔しくて泣いた。
それを見た美咲が、
「お姉ちゃん、すごいよ」
と言った。
「私、香織みたいに努力できないもん」
私はその言葉を聞いて、
余計に泣きたくなった。
努力している私を褒めている。
悪意なんてない。
だから、憎むこともできなかった。
大学に入ってから、私は初めて恋をした。
直人だった。
同じサークルの人だった。
優しくて、よく笑う人だった。
私は少しずつ距離を縮めた。
一緒に帰った。
映画にも行った。
告白しようと思っていた。
その矢先だった。
直人が私に言った。
「俺、美咲ちゃんのことが好きなんだ」
頭の中が真っ白になった。
「……そうなんだ」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
本当に、謝る必要なんてなかった。
美咲は何も悪くない。
私が勝手に好きになっただけだ。
帰宅すると、美咲がいた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「直人さんのこと、聞いた」
「……うん」
「ごめんね」
「だから、謝らなくていいって」
美咲は黙った。
しばらくして、
「私、お姉ちゃんには勝てないと思ってた」
と言った。
私は笑った。
「何それ」
「だって、お姉ちゃんは何でも頑張るから」
「……私は、何にも勝てなかったよ」
美咲は何も言わなかった。
私はその夜、久しぶりに泣いた。
声を出さないように布団を被って。
翌朝には、いつも通り起きた。
仕事に行った。
帰ってきて、夕飯を作った。
風呂に入った。
眠った。
次の日も同じだった。
何も劇的には変わらなかった。
私は天才にならなかった。
突然、誰かが私の才能を見つけてくれることもなかった。
妹を追い越す力も、
妹から恋人を奪い返す力も、
過去をやり直す力も、
私にはなかった。
二十七歳になった。
美咲は海外の大学院へ行った。
そこでまた賞を取った。
母は電話で嬉しそうに話していた。
「美咲は本当にすごいわね」
私は、
「うん」
と答えた。
電話を切ったあと、窓を開けた。
春だった。
風が入ってきた。
私はふと思った。
――私、何がしたかったんだろう。
妹に勝ちたかった。
両親に認めてほしかった。
恋人に選ばれたかった。
一番になりたかった。
でも、それだけだったのだろうか。
私はずっと、
「お姉ちゃんなんだから」
という言葉の中で生きてきた。
妹に譲ること。
我慢すること。
頑張ること。
しっかりすること。
誰かのために生きること。
それが私自身の望みなのだと思い込んでいた。
だから私は、その日初めて、
「妹に勝ちたい」
以外のことを考えた。
小さな部屋を借りた。
好きな家具を買った。
誰にも譲らなくていいソファ。
自分だけが食べるプリン。
壁には、自分で選んだ絵を飾った。
誕生日。
美咲から電話が来た。
「お姉ちゃん、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
「今年、帰ったら一緒にご飯食べようよ」
「うん」
少しだけ沈黙があった。
そして美咲が言った。
「お姉ちゃんは、元気?」
私は窓の外を見た。
昔なら、
「元気だよ」
と答えていたと思う。
でも、その日は違った。
「うん。前よりは」
「そっか」
「美咲」
「なに?」
私は少し迷ってから言った。
「私ね、ずっとあなたに勝ちたかった」
電話の向こうが静かになった。
「……うん」
「でも、たぶん一生勝てないと思う」
「そんなこと――」
「あるよ」
初めて、自分で言った。
「私はあなたより才能がない」
口にすると、思っていたより苦しくなかった。
「だから、もう勝とうとするのやめる」
「お姉ちゃん……」
「その代わり」
私は笑った。
「これからは、自分のために頑張る」
電話の向こうで、美咲が泣いた。
私も少しだけ泣いた。
でも、それで過去が戻るわけじゃない。
失ったものが戻ってくるわけでもない。
私は妹に勝てなかった。
たぶん、これからも勝てない。
恋人も取られた。
両親の愛情も、何度も妹に譲った。
努力した。
それでも届かなかった。
だからといって、私の人生まで妹のものにする必要はない。
私は電話を切った。
冷蔵庫を開ける。
昨日買ったプリンが一つ入っていた。
誰にも譲らない。
私はそれをスプーンですくった。
甘かった。
少しだけ、涙の味がした。
それでも私は食べた。
最後まで。
自分の分として。




