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月下の吸血鬼と優しき刃

ヴァネッサ

種族:ヴァンパイア

とある古城に独り住んでいる。戦闘能力が高く、幻術も扱える。

──余の名はヴァネッサ。

夜を統べる吸血鬼にして、この古城の主。


人間どもの歴史書とやらには、

魔王の崩御だの、覇権の移り変わりだのと、

いちいち重大事として記されるらしいが……余にはどうでもよいことだ。


魔王が打ち倒され、新たな覇が立ったのが、いつのことだったか。

十年か、百年か…その境すら曖昧なほど、永き時を生きてきた。


あの混乱の折、余の肉体は男の姿から女へと変貌した。

魔王が代わった余波というやつであろう。


だが──


そんな些事で余の本質が揺らぐはずもない。

外面がどう変わろうと、吸血鬼としての魂は変わらぬ。

永き夜を歩む者とは、そういうものだ。


月光が差し込む玉座で、余は静かに息を吐いた。

石壁に触れる夜風が心地よい。

人間どもの喧騒が届かぬこの静寂こそ、余の世界。


それゆえだろうか──

城の外から聞こえてくる甲高い声が、やけに耳につく。


「なぁ、この先が“吸血鬼の城”なんだろ?」

「嘘くせぇ……でも行ってみようぜ!」


……また愚かな若造どもが、度胸試しに来たらしい。


「ふん。夜を知らぬ人間は、いつの世も変わらぬな」


余は玉座から立ち上がり、静かに廊下へ向かった。

足元にまとわりつく霧が、余の気配に応じてしなやかに形を変える。


古城の奥へと進むほど、外の気配は緊張を孕んで近づいてくる。


気配は三つ。若く、浅い呼吸。

恐怖を紛らわせようと軽口を叩き合っているのが手に取るようにわかる。


「良い。余が“夜”というものを教えてやろう」


廊下に流れ込む霧を指先で払うと、それらは形を変え、影の中に沈んでいく。


まず、一人目。

幼い頃に亡くした母親の姿が、霧からゆっくりと現れる。

優しかったはずの顔が、腐り落ちたような裂け目を見せながら微笑んでいる。


「…そんな、うそだ…母さん…?」

少年の膝が崩れ落ちる。


霧の影が手を伸ばす。

その手は、彼が“向き合いたくなかった現実”そのもの。


「やめろ……やめろォッ!」

少年は泣き叫び、仲間を押し退けて逃げていった。


二人目。

暗がりから、怒号が響く。


――何をしている。役立たずめ。

――お前のせいだ。


それは、男の深層に刻まれた“父親の声”。

姿は見えず、声だけが耳元に貼りつく。


「や、やだ…やめてくれ…」

男は壁にもたれ、震えながら後退していく。


最後の一人。

少女の前には──未来の自分が現れた。

夢に破れ、疲れ果て、孤独に泣く“諦めた自分”。


少女は口もきけぬまま、ひたすら城外へ駆け戻っていった。


……ふん。


人は皆、己が心の奥底に恐れを抱えている。

余はただ、それを“映した”にすぎぬ。


廊下に残ったのは、余と静寂だけ。

霧は再び床へと溶け、月光にかすかな銀を返す。


余は踵を返し、再び玉座へと戻った。


「くだらぬ。あれで夜に挑んだつもりか」


人間など、所詮この程度。

余の静寂を乱すには、あまりにも力不足。


そう──この世界に余の夜を揺るがす者などいない。


…あの日、ひとりの“青年”に出会うまでは。


◇ ◇ ◇


…風が揺れた。


静寂を纏う古城に、微かに混じる異質な気配。

足取りは重く、しかし迷いがない。

息遣いは静かで、鼓動の乱れもほとんどない。


…ほう。ひとりか。

この夜に、余の古城を正面から踏み荒らすとは。


ただの無謀な若造ではあるまい。

気配は薄いが、刃のように研ぎ澄まされた“静けさ”を纏っている。

闇に慣れている人間か…いや、それだけではない。


気配が階段を上るにつれて、

余の胸の奥に、微かなざわめきが生まれた。


「よい。まずは“試す”としよう」


指先をひらりと払う。

廊下に満ちる霧が震え、影が形を変える。


人間が最も避けたい“心の闇”──恐怖、後悔、絶望。

現れた“幻”が、角を曲がった青年の前へと立ちふさがった。


しかし、青年は止まらなかった。

一瞬だけ目を細めたが、足取りを変えず、

まるで霧の中を歩くように幻を通り抜けていく。


幻は確かに彼の心を映した。

それなのに…彼は怯えない。


「……ほう。恐れぬのではないな。恐怖を抱く余白が残っておらぬか」


これは、人間が“強い”のとは違う。


むしろ逆だ。

傷つきすぎて、恐怖に反応する余力すらない…そんな気配。


余は無意識のうちに、玉座へ戻っていた。

この侵入者は、軽くあしらうべき相手ではない。


ほどなくして、玉座の間の重い扉が、きぃ…と音をたてて開いた。


入ってきた青年は、薄青い月光を背に受け、静かに歩み寄ってくる。


黒髪が微かに揺れ、疲れを隠そうとしない、影を帯びた瞳。

だがその奥には、折れぬ芯が一本、真っ直ぐに通っていた。


…その瞳を見た瞬間、余は思わず息を呑んだ。


「…儚き光、か」


青年は玉座の下で立ち止まる。

刃に手を添えたまま、余を見上げた。


「…あなたが、この古城に住む長命の吸血鬼…ヴァネッサで間違いないですね」


その声音に、畏れよりも確認の色が濃い。

彼は、余を“最古の存在”とも“支配者”とも思っていない。


ただ人々の噂に名が残る、危険な吸血鬼の一人。

その程度として扱っている。


余は足を組み、腰を預けた玉座から青年を見下ろす。


「ふふっ、余はただの吸血鬼よ。群れも持たず、ただ長く生きている…それだけの存在だ」


青年は驚かない。

むしろ、肯定するようにわずかに頷く。


「……その“ただ長く生きているだけ”という言葉に、人は怯えるんです」


ほう。ずいぶん物わかりのよい人間だ。


「余は脅威でありたいと願ったことはない。だが、人間の噂とは勝手に膨れ上がるものだな」


青年は目を伏せた。

何か言いたげだったが、言葉にしなかった。


その沈黙すら、嘘がない。

余は口元を少しだけ緩める。


「よい。お前はただの吸血鬼である余を倒しに来たのだろう?」


「……はい。依頼を受けた以上、あなたを見逃すわけにはいきません」


その声には恐怖も憎しみもない。あるのは、疲労と責務だけ。

余は、その真っ直ぐさにほんの少しだけ胸が焼けた気がした。


青年は剣を抜き、月光にその刃を反射させながら構えた。

その呼吸は静かだが、背筋には緊張が走っている。


対して余は──玉座の間に立ち、冷えた空気すら味方にしていた。


「迷いがあるようだな」


声をかけると、青年は一度だけ小さく息を整えた。


「……あります。でも迷いがあっても、進まねばならない時があります」


その言葉は、恐怖を隠した虚勢ではない。

真っ直ぐで、折れない意志の音だ。


余は薄く笑った。


「ならば進めばよい。余の喉元へ、その刃が届くというのなら!」


青年の足がわずかに震えた。

だが、引く様子はない。


良いぞ。その胆力──試す価値がある。


余はゆっくりと腕を広げ、指先に赤い光が宿る。

吸血鬼特有の戦闘感覚が覚醒し、視界が鮮明に、音が立体的に聞こえ始める。


「……行きますッ!」


青年が床を蹴り、風が割れる音と共に、剣から殺気が放たれる。

しかしすべてが、余には滑稽なほど遅い。


「遅い」


余はひらりと身を翻し、青年の剣を指先でいなす。

金属が甲高く鳴り、火花が散る。


青年は踏みとどまり、すぐに二撃目を振るった。

その軌道は素直で、美しい。

だが──工夫がない。


余は跳躍し、天井近くまで一気に高度を取る。


床が遠ざかる。

月光が背中を照らす。

青年が驚愕で目を見開く。


「ほう……視線は追えるか」


落下とともに、鋭い蹴りを叩き込む。

青年は咄嗟に剣を盾にして受ける。


「ぐっ……!」


衝撃に耐えきれず、床を転がった。

体勢を崩しながらも、すぐに起き上がるその根性だけは認めてやろう。


余は瞬きひとつの間に距離を詰め、爪を振るう。

青年はギリギリで受け止め、剣と爪がぶつかって鈍い音が響いた。


「しぶといな」


「……諦めたら、立っている理由がなくなる!」


青年は反撃に転じ、大きく踏み込んで剣を横薙ぎに振るう。


その一撃は重い。

技術ではなく、覚悟の重さだ。


余は貫手で刃をはじき、青年の懐へ滑り込んだ。

──拳が、青年の腹部へ突き刺さる。


「が……ッ!」


青年は苦悶の声を上げ、膝をついた。


だが、倒れない。折れない。

剣を支えに、立ち上がる。


血を吐きながら、なおも前を向いた。


「…まだ…終われません…!」


その顔に宿る光は、恐怖ではなく、決意。

殺すためではなく──使命のために。


余は少しだけ、息を吸う。


「終わりを選ぶのは、余ではなくお前自身ということだ」


余は姿を霞ませ、後方から青年の首元へ爪を突きつける。

青年は紙一重で前転し、回避する。


ほう。反応速度が研ぎ澄まされてきたか。


青年は地を蹴り、渾身の突きを放つ。

その一撃は、先ほどとは比べ物にならない。


刃が余の肩口を割いた。

鋭い痛みが走り、血が滴る。


「……悪くはない」


青年は息を切らしながらも、剣を下げない。


「はぁ…はぁ…貴女がどれほど強くても…私は退けない!」


「よかろう。ならば本気を見せてみよ、人間!」


青年の剣が、月光を受けて白く光る。

ただの金属光沢ではない。

胸の奥に刺さるような嫌な気配が、刃から滲んでいた。


(その剣…何かあるな)


余は低く構え、青年もまた呼吸を合わせる。

そして床石を砕いて踏み込み、青年の懐へ一気に迫る。


「──ッ!」


青年は怯まず剣を振り上げ、余の爪と正面から激突させた。


金属と爪がぶつかり、火花が散る。

瞬間、眩い閃光が弾けた。


「……ッ!?ぐ……!」


視界を焼く“光”。

日光ほど強烈ではないが、吸血鬼である余の感覚を容赦なく引き裂く。


痛みは鋭く、脳髄をひっかくような不快感。


青年の声が聞こえた。


「…これが私達一族に伝わる“赤日の刃”だ!」


余は苦しみながら、後方へ跳ぼうとするが、ほんの一瞬筋肉の反応が遅れた。

その“わずか”が、命取りだった。


「──はぁッ!!」


青年の叫びとともに、剣が余の腹部を深々と切り裂いた。


温かい血が滲む。

石床に赤が落ちる音が、妙にはっきり聞こえる。


(…やるではないか、人間…)


膝がわずかに震えた。

余は壁に背を預けながら、青年を見据える。


青年は肩で息をしながらも、次の一撃を放つ構えを見せなかった。

ただ、強く、迷いなく余を見つめ返している。


腹部に受けた一太刀は、吸血鬼である余なら本来どうということはない。

時間と共にに治癒し、再び立ち上がることなど造作もないはずだった。


「…っ…ふ…力が…入らぬ」


膝が崩れ、石の壁にもたれかかる形で、余はずるりと床へ腰を下ろしていた。


傷そのものの痛みではない。

《赤日の刃》が残す残滓が、血肉の奥深くでじりじりと神経を蝕んでいる感覚。


忌まわしい光だ。この余が、人間の一太刀で動けぬとは。

余は荒い息を抑えながら前を見ると、青年が余の喉元に剣を突き付けている。


だが、その刃は──動かない。


普通なら、そのまま首を落とすべきだ。

迷いなど微塵も持ってはならぬ距離だ。


余は目を細め、青年を見上げた。


「……どうした。殺すつもりで来たのだろう?」


一歩踏み込めば、それで終わる。

それなのに──踏み込まぬ。


「余が怖いのか?それとも…迷っているのか?」


自嘲のような、挑発のような声音になった。

青年はわずかに目を伏せ、それでも剣を下げない。

ただ、“とどめを刺さぬ理由”を飲み込んでいるようだった。


余は壁に背を預けたまま、静かに息を吐いた。


「何故だ。なぜ…刺さぬ?」


声は自然と低くなる。

痛みからでも、敗北の屈辱からでもない。


ただ、理解ができなかった。

命を狩る責務を負った人間が、なぜこの瞬間に迷いを見せる?


青年はしばらく沈黙していた。


刃がかすかに震え、その影が余の首筋へ落ちる。

そして、ようやく絞り出すように口を開いた。


「…あなたの目を見たら…刺せませんよ」


青年の言葉は、あまりにも真っ直ぐな瞳が、余を捉えている。


恐怖でも憎悪でもない。

ただ、余の奥底にある“なにか”を見抜こうとするような、真摯で、愚かで、揺るぎない光。


余は瞬きを忘れたように、その顔を見つめ返す。


「…愚かな。余は吸血鬼だぞ?血を啜り、人を脅かす存在だ」


「脅かしていません。今まで倒してきた吸血鬼とは…貴女は違う」


「違わぬ。余も同じ“夜の眷属”よ。お主らの言葉で言えば──怪物だ」


青年は剣を握る手に力を込める。

だが、再び振り下ろすそぶりはない。


むしろ、言葉の重さに耐えるように俯いた。


「…私は、怪物を刈ってきたつもりでした。けれど倒した相手も、最後はみんな“人の顔”をしていた。悲しい顔ばかりでした」


その言葉には、痛みと、悔いと、疲れが滲んでいた。


余はほんの一瞬、呼吸を止めた。


その隙は、誰にも悟られぬほど僅かだったが──自分の中で何かがわずかに揺れたのを感じた。


「……情に流されたか。甘いな、人間」


「わかっています。それでも私はあなたを…殺せません」


青年はそっと剣を下げた。

刃が余の喉元から離れる瞬間、胸の奥で何かが微かに軋んだ。

余は知らぬ振りをするように、冷たく言い放つ。


「殺せぬなら、帰れ。余を見逃し、二度とこの古城に足を踏み入れるな」


余の言葉を耳にしたであろう青年は動かなかった。

視線が、余の腹部の傷へ向いていた。


赤日の刃の残滓がじりじりと広がり、傷口は吸血鬼の再生を阻み、血を流し続けている。

青年は深く、苦しげに息を吸い込んだ。


「…貴女、そのままだと…死んでしまう」


「余が死ぬことを、気にしているのか?」


「…見過ごせません」


その一言が、ただの剣より重く響いた。


ああ、そうか──

この人間は、ずっと迷っていたのではない。

“自分の正しさ”に従っているだけなのだ。


とりつくろいでも、計算でもない。

ただ、まっすぐに。


「……人間よ。余の命を救うというのか?」


「治す方法があります。私の…血を。少しだけ分ければ…あなたは再生できるはずだ」


余は言葉を失った。


吸血鬼に血を与えるという行為は、狩人にとって最も愚かで、最も命知らずな行動。


殺すべき存在に、血を与えようとするなど…あり得ぬ。


しばらく沈黙した。

痛みも、赤日の残滓も、今は遠いものに感じた。


「…人間。お主は本当に…愚かだ」


青年は否定しなかった。

その愚かさを恥じてもいなかった。


むしろ、誇りのように受け止めていた。


青年はゆっくり歩み寄り、余の前にしゃがみ込む。

その手が、余の傷の近くに伸びる。


温かい。

それは余がずっと拒んできた“人のぬくもり”だった。


「助けたいんです。たとえ…あなたが吸血鬼でも」


余は、その熱を真正面から受け止められなかった。


初めてだった。

初めて──人間の前で視線を逸らした。


◇ ◇ ◇


──気がつけば、薄明かりの部屋にいた。


重たい眠りから覚めるように瞼を開けば、見慣れた古城の天井が視界に入る。

石造りの冷たいはずの空気が、妙に温かった。


余はゆっくりと上体を起こす。


腹部に手を当てると、致命傷はすでに塞がっていた。

だが、内側に微かに残る《赤日の刃》の影響が、動こうとするたびに鈍い痛みを呼び起こす。


本来なら、一晩もあれば完治しているはず。

長き生の中で、こんな回復の遅れは初めてだ。


「起きたんですね」


低く落ち着いた声が耳に届く。

部屋の隅、粗末な椅子に腰かけていた青年が、こちらへ視線を向けていた。


「……まだ居たのか。余はもう、死なん」


「それでも目が離せません。赤日の残滓がまだ身体に残っているかもしれない」


「余の身体のことなど、余が一番理解している。人間の手など不要だ」


少し語気を強めれば、青年は苦笑したように息を漏らす。


「…そう言うだろうと思っていました」


そう言いつつ、青年は水差しを持って近づいてくる。


余はその手を払おうと腕を伸ばした──が、痛みが走り、わずかに顔が歪む。


青年は即座に気付き、その手をそっと押し戻した。


「ほら、まだ完全じゃない」


「……放っておけ」


「できません。あなたは…私のせいで傷を負ったんです」


あの時はあれほど真っ直ぐだったその表情は、

今はどこか自分を責めているようで、不思議と余の胸にざらりとした感覚を残した。


青年は椅子をベッドのそばに引き寄せ、まるで長患いの患者を世話するかのように座り直した。


まるで当然のように。

余は呆れ半分、本気で苛立ち半分でため息をつく。


「人間…余は吸血鬼だぞ。お前の敵であり、斬られるべき存在だ。介護など、無駄な情けだ」


青年は静かに首を横に振る。


「敵だったのは…あの瞬間までです。今はただ、弱っている貴女を見捨てる気にはなれません」


なんと理不尽で、なんと押しつけがましく、なんと…奇妙に心に刺さる言葉だ。

余は吊るし上げるように青年を睨んだ。


「お主は、余が牙を剥かぬとでも思うのか?」


青年は一拍置いてから答えた。


「あなたは私の首を噛まない…そう思いました」


その根拠の無い自信が、なぜか胸をざわつかせた。


青年は水差しを置き、ふと古城の窓外へ視線を向ける。

夜明け前の薄い蒼が広がり、遠くの森を覆う霧がゆらいでいる。


静寂が長く続いた。


余がその沈黙を破った。


「…いつまで余の手元にいるつもりだ」


「あなたが歩けるようになるまで」


余はわざと冷たく笑ってみせる。


「ふん…余を殺しに来たくせに、最後は介護に尽くすとは…まったく滑稽よ」


青年は少しだけ視線をそらし、すぐにこちらへ向き直る。


「滑稽でも……後悔はしていません」


まただ。

その真っ直ぐな瞳。


戦いのときも、敗北のときも、余がどれほど睨みつけようと折れなかった光。

胸が騒ぎ立つ理由が、余にはまだわからない。


この数日間、青年が余の傍に居続けたその事実だけが、じわりと身体に沁みていった。


拒むべき温度のはずなのに、なぜか冷たくはなかった。


◇ ◇ ◇


「動くと傷が開きますよ。じっとしていてください」


「余は吸血鬼だぞ?人間ごときの手当てなど――」


言いかけて、余は言葉を飲んだ。


青年の指先が、驚くほど丁寧だったからだ。

まるで壊れ物でも扱うように、静かに包帯を当てていく。


……滑稽な話である。

吸血鬼が、人間に世話を焼かれているなど。


「…好きにするがよい」


「はい、そうします」


青年は小さく笑った。

その笑みが、なぜか胸に引っかかった。


◇ ◇ ◇


青年は朝から古城を掃除していた。

余計なことを、と思った。


しかし放置していた廊下が思いのほか綺麗になり、私はなぜか咎める言葉を失った。


「じっとしているのが苦手なので」


「…勝手にしろ」


余は長命ゆえ、時間など腐るほどある。

だが、彼は違うのだと気づく。


人間は短命だ。

同じ一日でも、価値の置き方がまるで異なる。


そのせいか、彼の動き一つ一つが、妙に輝いて見えた。


◇ ◇ ◇


青年が食堂で食事をとっているのを見かけた。


人間は食事をせねばならぬ種族――

そんな当然のことすら、久しく忘れていた気がする。


香りが古城に満ちて、奇妙に落ち着く。


彼は気づき、こちらに笑いかけた。


「よかったら一緒にどうです?」


「余は食事はせぬ」


「知っています。でも…話くらい、どうですか?」


妙な人間だ。

余のようなものと語らって何が楽しいというのか。


だが、気づけば向かいの席に座っていた。


青年は昔の旅の話、人間の町の祭り、出会った人々のことを語った。


吸血鬼にとってはどれも瑣末な話のはずなのに、なぜか耳に心地よかった。


◇ ◇ ◇


書庫に踏み入った青年が、古い文献を興味深そうに眺めていた。


「…それは余の蔵書だ。勝手に触るな」


「すみません。ですが…すごいですね。こんなに古い文字まで読めるなんて」


褒められて嬉しいなど…吸血鬼として恥である。


それなのに、青年のまなざしは、ただ純粋で――

余の長い人生を肯定されたような気すらした。


「当然だ。余は長く生きている。それだけだ」


「それだけじゃありませんよ。知ろうとする意志があるから、読めるんです」


……やめろ、人間。

なぜそんな目で私を見る。


そのまなざしは、妙に、温かい。

吸血鬼の身には過ぎた温度だ。


◇ ◇ ◇


あれは何度目の夜だったか。


月光のもと、窓辺に佇んでいると、青年が隣に立った。


「…貴女は、寂しくないんですか?」


「余を誰と勘違いしている。寂しさなど、とうに捨てたわ」


「捨てたんじゃなくて…見ないようにしていただけだと思う」


胸が痛んだ。

吸血鬼に、心の痛みなどあるものか。


たかが人間の言葉に、心を動かされるなど。

余はその場で返す言葉を失った。


月の光の下、二人の影が横に並んだ。

妙に…落ち着く距離だった。


◇ ◇ ◇


青年がこの古城に留まるようになって、どれほどの夜が過ぎたのか。

正直、余にはもう分からぬ。


人間にとっての数日が、吸血鬼にとっては霧に沈む一瞬であり、それでいて妙に、濃い。


いや、"濃い"と感じている時点で、すでに異常なのだが。


人間の温度が、これほど空間を満たすとは思わなかった。


◇ ◇ ◇


青年が古城を離れようとしている気配に気づいたのは、

いつもの静寂が――何かを失う前兆のように、妙に耳に残ったからだった。


人間の気配というものは儚い。

しかし儚いがゆえに、消えゆく瞬間だけは鋭く感じ取れる。


青年が「帰る」と明言したわけではない。

けれど、荷物に触れるわずかな指先の緊張や、歩く速度の微妙な変化、

漂う空気の淀み方、それらすべてが、“別れ”を告げていた。


胸がざわついた。

苦く、重く、そして……寂しいと呼ぶにはあまりに初々しい。

私はとうに忘れたはずの感情を思い出したくはなかった。


青年が古城の大扉へ向かおうとしたとき、余は気づけばその背を呼び止めていた。


「…どこへ行く」


自分でも驚くほど、声が掠れていた。

青年は振り返り、あの――余計に胸をざわつかせる、柔らかな笑みを浮かべる。


「元いた場所へ、戻るだけですよ。長く世話になりました」


その声音には、温度があった。

人間特有の、一瞬で消える儚い温度。

余のような存在には、到底似つかわしくない光。


彼が城を出れば、またあの、底なしの静寂が戻ってくる。


いつも通りのはずだ。

失われるものなど何もない。

けれど今だけは――そのはずの静寂が、不意に耐え難い虚無として迫ってきた。


「……行くな」


その言葉は、自分の意思を挟む暇もなく零れ落ちた。


青年の瞳が揺れる。

驚きと戸惑い、そして…理解しようとする優しさ。


その優しさが、何よりも苦しかった。


気づけば私は、大扉へ歩み寄り、青年の前へ立っていた。

吸血鬼らしい冷静さも誇りも置き去りにし、ただ、本能に押されるように。


“失いたくない”


理由などない。

ただそれだけの純粋な衝動。

そして、私の口は、その衝動をそのまま言葉にした。


「…眷属になれ。共に永遠を生きようではないか」


時間が凍った。


青年は驚愕し、何かを言いかけて止まった。

余もまた、自分の発した言葉の重みに気づき、衝撃に身を染めた。


そんなつもりではなかった。

そもそも、考えたこともなかった。


ただ、失うという事実が堪えられなかった。

その方法が眷属化しか浮かばなかっただけ――本当に、それだけだった。


だが、人間にとって眷属とは“永遠の拘束”に等しい。

それを私は深く考えずに、口にしてしまった。


青年はしばらく黙り、ゆっくりと視線を落とし、それから。

まるで余を壊れ物のように丁寧に扱う声で、口を開いた。


「…すまない。私は…人間として、人間のままで在りたいんだ」


刺さるような拒絶ではない。

むしろ、抱きしめるような拒絶。


その優しさが、どうしようもなく残酷だった。


胸が、ひどく痛んだ。

痛みなどとっくの昔に捨てたと思っていたのに。


返す言葉を見つけられないまま、私はただ、青年の声を聞いていた。


「あなたを否定するつもりはありません。貴女と過ごした時間は本当に大切でした」


なぜだ。

そんなに優しくするな。


「でも、だからこそ…私は“私”を手放したくない」


冷淡に切り捨ててくれたなら、

余はこんな痛みを知らずに済んだものを。

そう思うほど、青年の言葉は温かかった。


「ありがとうございました。あなたとの日々は…決して忘れません」


忘れない。

吸血鬼にとって、その言葉は呪いに等しい。


忘れられぬものがあるという事実は、余にとって初めての“喪失”の兆しだった。


その背は確かに遠ざかりつつあったが、扉に手をかける寸前、青年はふと振り返った。


月明かりが彼の横顔を照らす。

まるで、余に刻まれた“痛み”を見透かしたような、

穏やかなまなざしだった。


「…最後に、ひとつだけ」


彼の声は静かで、それでいて妙に胸に残る温度を帯びていた。


「あなたが振るう力は…誰かを傷つけるためだけのものじゃない。守ることにも使えるはずです」


余は言葉を失った。

吸血鬼の力は暴力であり、支配であり、奪うための象徴だった。

そう信じて疑ったことすらなかった。


だが青年は、躊躇いも迷いもなくその価値観を否定したのではなく、

別の可能性をそっと指先で示すように、ただそう告げた。


守るための力?余が?この身で?


理解できなかった。

だが、胸の奥がわずかに震えた。


「貴女の力は、美しいと思いました。誰も傷つけない形に、その力を整えられたなら…きっと、もっと貴女らしくなる」


“貴女らしく”


そんな風に言われたのは、生きてきた長い年月の中で初めてだった。

余はただ、彼の言葉を受け止めるしかなかった。


青年は微笑み、静かに扉を開けた。


「どうか…あなたの未来に、安らぎがありますように」


そして月の夜に消えていった。


沈黙が戻る。

長命種にとっては当たり前の静けさ。

だが今は…ただ、痛い。


私はその場に立ち尽くし、初めて自らの胸の内に生まれた“名もなき痛み”の正体を掴みかねていた。


◇ ◇ ◇


青年が去った扉の音は、まるで古城のどこか深い場所まで長く長く反響しているように感じられた。


再び訪れた静寂――千年を超えて慣れ親しんだはずの沈黙が、今は肌に張りつくように冷たく、重い。


余はしばらく動けなかった。


人間一人が消えた程度で、ここまで胸を締め付けられるとは…なんと情けないことか。


月の光が差し込む廊下へゆっくり進むと、青年が掃除した部分だけがわずかに明るさを保っているように見えた。


そこに立ち止まり、私はしゃがみ込んだ。


古城の石畳はいつも通り冷たく、変わったのは、“余の側だけ”なのだと理解した。


「……守るための力、か」


青年の言葉が脳裏に蘇る。


爪も牙も、吸血鬼が生まれ持った暴力。

誇りでもあり、呪いでもあった。


青年はそれを“美しい”と言った。

そんな解釈をされたことなど、生まれてから一度もなかった。


思い返すほどに胸が痛む。

だが同時に…胸の奥で静かに何かが息をしている気がした。


それが何なのか、この時の余にはまだ分からない。

ただ、青年の残した言葉が消えず、その温度が胸に残り続けている。


ゆっくり立ち上がり、青年が最後に振り返った場所へと歩いた。

扉を開けると、夜の風が城内に流れ込んでくる。


その風には青年の匂いも、足跡も、温度も、もう何ひとつ残ってはいない。


けれど、確かに彼は存在した。

この古城に、余の隣に。


そして彼が残した言葉は、確かに余を変えた。


「…余も、変わるというのか…?」


初めて自分の“変化”を自覚した瞬間だった。


長命種は変化しない――そんな傲慢を、青年はたった短い滞在で覆したのだ。


扉を閉じ、余はそっと胸に手を置いた。


そこにはまだ、青年の声の余韻がある。


“あなたの力は、美しい”


“もっとあなたらしくなる”


その言葉だけが、静寂よりも深く響き続けていた。


余は長い夜の中に戻っていく。

だが、もう以前の“孤独”とは違う。


いつかこの力を、誰かを守るために振るう日が来るのなら。

それはきっと、青年が余に与えた、唯一の贈り物なのだろう。


古城に、静かに月光が満ちる。

その光の下で、静かに目を閉じた。

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