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翠森のエルフ、まだ見ぬ世界に憧れて

登場人物

エリシア

種族:エルフ

精霊と心を通わせたり、精霊の力を行使できる。

私の名前は、エリシアと申します。

深い森の奥にひっそりと佇む、小さなエルフの集落で育ちました。


幼いころから、私はどうやら少しだけ“特別”だったようです。

揺れる葉の音も、そよぐ風の気配も……

それらが自然の営みに留まらず、まるで誰かが語りかけてくるように聞こえていました。


「……こんにちは。今日もいい風だね」


幼い私は、当たり前のように葉へ挨拶をし、木々と話をしているつもりで過ごしていました。

大人達は微笑ましく見守ってくれましたが、

同年代の子供達は、少し不思議そうに私を見ていたのを覚えています。


やがて私は知ります。

精霊の“声”を感じ取れるのは、集落の中で私だけだったことを。


当初は、『森に愛されている子』と褒められました。

けれどその言葉の奥に、どこか距離を置くような色が混じることにも気付くようになりました。


皆が私に向ける眼差しは、優しさと、わずかな戸惑いが入り混じったものでした。

その度に、私は自分だけがどこか違う場所に立っているような気がして……

胸の奥にそっと、孤独が積もっていったのです。


それでも、精霊達だけは変わらず寄り添ってくれました。

言葉にならない囁きで、ふとした時に私を励ましてくれるようで。

その存在が、幼い私にとって何よりの慰めでした。


そして、ふとした折に思うのです。

――森の外には、どのような風が吹いているのだろう、と。


その小さな問いが、私の胸の内に静かに芽生えたことを、

あの頃の私はまだ、知りもしませんでした。


◇ ◇ ◇


朝の光が木々の隙間から差し込み、

淡い金色が森をゆるやかに満たしていきました。


私はいつものように、集落の外れにある小さな泉へと足を運びます。

澄んだ水面には霧が漂い、ひんやりとした空気が頬を撫でていきました。


「……今日も静かですね」


そっと声に出すと、どこからともなく葉を揺らす気配が返ってきます。

精霊達は言葉を持たずとも、私の挨拶に応えるように、柔らかな波紋を心へ届けてくれるのです。


こうして朝を迎えることは、私にとって小さな習慣でした。

集落は穏やかで、皆は優しい人ばかり。


けれどその優しさは、どこか遠慮がちな薄膜に包まれていて。

触れようとすると、そっと引かれてしまうような距離感があります。


『エリシアは特別だから』と。

幼いころから幾度となく耳にした言葉。


ありがたいはずなのに、その度に胸へ落ちる影は、少しずつ濃くなっていきました。


泉のそばに腰を下ろし、水面に映る自分を見つめます。

深い碧の瞳は、まだ知らぬ世界の色を映すこともなく、ただ静かな森の緑を返していました。


そのときです。

ふと、空気がわずかに揺らぎました。


……カサ…


風ではありません。

精霊の小さな囁きが、森の奥から私を呼ぶように届きました。


「また…何かを伝えようとしているのでしょうか」


集落の朝はもうすぐ始まる時間。

けれど私は、なぜか胸の奥が落ち着きませんでした。


この日が、私の小さな世界に、静かに変化をもたらす一日になることなど、

その時の私はまだ知る由もなかったのです。


◇ ◇ ◇


泉から戻ると、集落の中心にある広場がいつになくざわついていました。

普段は静寂そのものの朝の空気が、小さな波紋のように揺れているのがわかります。


「…何かあったのでしょうか?」


近くにいた同族の女性に声をかけると、

彼女は眉を寄せ、少し困ったような表情を浮かべました。


「聞いていないの?昨日、集落を出た若いエルフが…まだ戻っていないのよ」


「戻って、いない……?」


胸の奥がひたりと冷えました。

この森で行方をくらますことは、滅多にありません。


皆、森の構造を熟知していますし、精霊の気配を読めば危険も避けられるはずです。


「急を聞いたレンジャー達が捜索に向かったの。その途中で…矢文が見つかったらしくて」


「矢文…?」


「ええ。木の幹に刺さっていたそうよ。内容は『もっと魔法を学びたい。だから森を出る』…と」


その瞬間、周囲で交わされていたざわめきが耳に入りました。


「どうして戻らずに…」

「外の世界なんて、危険なばかりだというのに」

「何かにそそのかされたのではないか」

「いや、あの子は前から外に憧れていたらしい」


――森の外は、私達エルフにとって未知そのもの。

誰もが、あえて触れようとしてこなかった世界。


集落の中心にいた長老が皆を落ち着かせるように口を開きました。


「…彼の選択は残念だが、止めることはできぬ。だが、これ以上森を出ようと考える者がおらぬよう、本日よりしばらく、外周への立ち入りを制限する」


その言葉は、鋭くないのに、どこか硬い鎖のようでした。

私の胸の奥に、小さな痛みが走ります。


――私は、ただ森を愛していたいだけなのに。

それでも、どうしてこんなに息苦しく感じるのでしょう。


周囲では、心配そうな声や嘆きがまだ続いていました。

けれど私は、ひとり静かに空を見上げます。


外へ出たエルフの気持ちが、ほんの少しだけわかるような気がしたのです。


「…森の外は、どのような景色なのでしょうか」


私も、精霊の声をもっと深く理解できたなら。

知らない世界の空気を吸い、外の大地がどんな音を奏でているのか、確かめてみたなら。


「いいえ……駄目です」


思わず、かすかな声で自分を制します。


私は、森に愛された子。

森の声を聞ける唯一の者。

外へ出るなど、きっと許されない。


……そう、ずっと信じてきたはずだったのに。


立ち去る人々の背中を見送りながら、

胸の奥で芽吹いた“微かな熱”をどう扱えばいいのかわからず、

私はただ静かに立ち尽くしていました。


◇ ◇ ◇


長老の言葉どおり、外周へ向かう道は、朝から静かに封じられていました。

形ばかりの簡素な結界が張られ、見張りのエルフが立つ姿もあります。


けれど、それでも私は胸に生まれたあの熱を消しきれませんでした。


「……あの子は、自分の道を選んだのですね」


魔法を学びたい。森の外へ出たい。

その願いが許されるかどうかは別にして、

”選んだ”という事実が、何より眩しく見えてしまったのです。


私は、泉のそばまで戻ると、ゆっくりと目を閉じました。


――カサ……カサ……


いつもと変わらぬ精霊の囁きが、心の底に静かに触れてきます。


「……あなたたちは、どう思われますか?」


返事はありません。

けれど、風の流れがわずかに変わった気がしました。


胸の奥でじんわりと灯り続ける想い。

それは、“あのエルフのように外へ行きたい”という衝動ではなく、


『自分も…もっと知りたい』


という、ささやかな願いでした。


森の外の風はどんな匂いがして、どんな音がして、精霊はどんな声を持っているのか。

知りたいという気持ちは、決して悪いものではないはずなのに。


「…今だけ、少しだけ。外の匂いを確かめるだけなら」


自分への言い訳のように呟きながら、私は立ち上がりました。

歩き出す足は震えてはいませんでしたが、心はまるで羽のように揺れていました。


外周へ向かう道は、遠目には封じられているようでいて、

森をよく知る者なら抜け道があることも知っています。


かつて幼いころ、隠れんぼで友人達が使った小さな獣道。

草葉に隠されているその道へ、私はそっと身を滑らせました。


「ほんの少し…外を見るだけ」


自分にそう言い聞かせながら、けれど胸の奥ではわかっていました。


これは、私の“初めての一歩”なのだと。


森の奥へ踏み出した瞬間、空気が変わったように感じました。

いつもと同じ森なのに、知らない世界へ向かう扉の前に立ったような、そんな緊張感がありました。


“……サラ……”


風が木の枝を揺らし、まるで『行きなさい』と背中を押すように聞こえました。

私はそっと息を吸い込み、そのまま森の奥へと足を進めました。


◇ ◇ ◇


森の奥へと進むにつれ、空気の色がゆっくりと変わっていくのがわかりました。

いつも私が歩く小径には、柔らかな陽の光が揺れていて、葉の匂いも穏やかで馴染み深いものです。


けれど外周を越えた先の森は、まるで別の世界のようでした。


「……こんなにも、違うのですね」


木々は背を伸ばし、その枝葉は重なり、落ちる光は細い糸のように揺れています。

触れた空気はひんやりとして、ふと腕に鳥肌が立ちました。


恐ろしいわけではありません。

ただ、知らない音や匂いが、胸の奥を静かに震わせるのです。


“……サワ……サラ……”


小さな精霊たちの声も、どこかいつもと違いました。

群れで戯れる幼い精霊ではなく、もっと古くて落ち着いた気配を帯びています。


まるで、『よく来ましたね』と歓迎されているかのようでした。

足元には、見たことのない薄紫の苔が絨毯のように広がり、踏みしめると柔らかく沈みます。


「こんな場所があったなんて……」


思わず、息が漏れました。

集落からほんの少し歩いただけなのに、こうして知らない景色が広がっている。

その事実に、胸がふわりと温かくなりました。


もっと奥へ行けば、まだ知らない森の表情があるのかもしれない。


その想いが、心の中で静かに膨らみます。


耳を澄ませると、どこかで小川が流れる音がしました。

普段は聞こえない方向からの水音。


それだけで、“ここは私の知る森ではない”と実感します。


「外の世界も…こんなふうに、たくさんの知らない気配に満ちているのでしょうか」


呟いた声は、薄い光の中で消えていきました。

けれど、その言葉を拾うように、ひとつの気配がふっと近づいてきます。


精霊でもなく、獣の足音でもなく、明らかに“何者か”の存在。


乾いた枝を踏む、はっきりとした音。

獣の歩みとは違います。

おそらく、誰かが近くにいる。


「……見回りでしょうか」


とっさにそう思い、私は近くの太い木の陰へ身を隠しました。


けれど、胸の奥に微かな違和感が灯ります。

精霊達のざわめきが、いつものように穏やかではありませんでした。


“……サラ……サラ……”


葉が揺れる音に、かすかな緊張が混じっています。

その気配に導かれるように、私はそっと木の陰から覗き込みました。


――そこにいたのは、エルフではありませんでした。


「……人間?」


思わず、息が止まります。


初めて見る人間。

背丈はエルフよりわずかに低く、けれどしっかりとした体つきで、質素ながら丁寧に纏われた服が目を引きます。


彼は周囲を注意深く見回しながら、私の隠れている方へ向かってくる。

心臓が、どくん……と跳ねました。


知らない種族。

知らない気配。

未知への恐怖が胸を満たします。


けれど――このまま何もせず立ち尽くすわけにはいきません。

私は静かに息を吸い、背に下げた弓にそっと手を伸ばしました。

矢羽が指先に触れた瞬間、幼い頃から続けてきた訓練が自然と身に宿ります。


(……こっちへ来てしまう……)


彼の歩みが、まっすぐこちらへ。

ちょうど斜線上に入ったその瞬間、私は木陰から飛び出しました。


「動かないでください!」


矢を番え、まっすぐに構えたまま、彼との距離をはっきりと測ります。

青年は驚いたように目を見開き、とっさに両手を上げました。


「待ってくれ!怪しい者ではない!」


声は震えておらず、むしろどこか落ち着いていて。

それがまた、私を戸惑わせました。


私は弓を引き絞ったまま、その瞳をじっと見つめます。


「……ここは、エルフの領域です。あなたが踏み入るべき場所ではありません」


声がわずかに震えたのは、自分でも驚いてしまうほどでした。


弓を構えたままの私を前に、青年はゆっくりと両手を上げ、敵意がないことを示しました。

その瞳は驚きを含みながらも、どこか誠実な光を宿しています。


「待ってくれ…本当に、悪意があって入ったわけじゃない」


低く、落ち着いた声でした。

私の緊張が少しだけ揺らぎます。


「ここにはただ――精霊に関する古い伝承を調べに来ただけなんだ」


その言葉が耳に触れた瞬間、胸の奥に、針で軽く突かれたような衝撃が走りました。


(……精霊?)


思わず弓を構えた腕がわずかに震え、私は青年を見つめ直しました。

人間の口からその単語を聞くことがあるなど、今まで考えたこともありませんでした。


「…精霊、の…伝承、ですか?」


「そうだ。この森には、昔から“精霊の声に触れた者がいた”という記録が残っていてね」


静かで、柔らかい口調。

森を乱す者の軽率さでも、知識を武器にする傲慢さでもありません。


「その真偽を確かめたくて…つい、奥へ入りすぎたみたいだ」


彼はただ純粋に、“知りたい”という想いから来た人だと、そう感じられました。

私は弓を構えたまま、けれど目だけで彼の言葉を探ろうとします。


「…あなたは、精霊のことをご存じなのですか?」


「文献で読んだ程度だよ。ただ実際に“精霊を感じる者”が存在すると聞いてね」


……精霊を感じる者。

その言葉に、心臓がどくりと鳴りました。


(……わたし……?)


ふいに精霊のざわめきが耳の奥をくすぐります。


“……サラ……サラ……”


まるで、何かを告げようとしているかのように。

私は弓を握る手に力を込め直し、声を整えて問い返しました。


「本当に……伝承の調査だけなのですね?森を傷つけるつもりは?」


「もちろんない。精霊を利用するつもりも、争うつもりもない。

もしここがエルフの領域だと知っていたなら、本来なら立ち入らなかった」


その言い方には嘘の気配がありませんでした。

私は大きく息を吸い、緊張をほぐすようにそっと吐き出します。


(…どうしましょう。この方は、危険ではない…と思う。でも…人間。初めて接する外の世界の者…)


揺れる心を抱えながらも、私はゆっくりと弓を下ろしました。


「……わかりました。ただし、少しだけお話を伺わせてください。あなたがどのような方なのか…確かめたいのです」


青年はほっと安堵の息を漏らし、恭しく頭を下げました。


弓を下ろしたとはいえ、胸の奥の緊張はまだほどけてはいません。

私は慎重に距離を保ったまま、青年の次の言葉を待ちました。


「ありがとう。私は精霊や自然に関する古い伝承を各地で集めているんだ」


「……学者さん、なのですね」


「正確には“志している最中”かな」


そう言って周囲の大樹を見上げる瞳は、まるで森そのものを尊ぶように穏やかでした。


少し意外でした。

人間は森を恐れる、あるいは利用する――そんな話を私は大人達から聞かされて育ったのに。


「私達人間にとって、精霊は“概念”として語られるものなんだ」


「……そう、なのですか」


「うん。 だからこそ確かめたかった。精霊が“本当に生きている”という証を」


その言葉が胸を震わせました。

私は幼い頃から、風や光や水の中に宿る精霊達の声を聞き、彼らのささやきに耳を傾けてきました。


けれど、その力は集落の者達に“特別すぎる”と距離を置かれていた部分でもありました。

……その存在を、こうして真正面から知りたいと言う人がいる。

それだけで、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じました。


「…あなたは、精霊を…怖れたりしないのですね」


「怖れる理由がないよ。ただ、敬意を払って接したいと思っているだけだ」


彼の柔らかな声が、森の静けさの中にそっと溶けていきます。

私は、気づけば矢筒に触れていた手を離し、胸に手を添えていました。


「…精霊は、確かに…生きております。私にはその声が…」


言いかけたところで、胸の奥が急に熱くなり、言葉を途切れさせてしまいました。

青年は目を見開き、まるで貴重な宝物を見つけたかのように、静かな感嘆をこぼしました。


「……まさか。君には本当に聞こえるのかい?」


その驚きは、恐れではなく。

ただ純粋な、心からの喜びの色をしていました。


私は、ほんの少しだけ視線を逸らし――そして、ごく小さく頷きました。


風がそっと、私の髪を揺らします。

まるで、精霊達が『よく言えましたね』と微笑んでいるかのように。


「……もし、よければだが。君の聞く“精霊の声”について、話を聞かせてもらえないだろうか?」


その声音には、学者としての興味よりも、一人の旅人としての真摯さが滲んでいました。


私は胸に手を添えたまま、少しだけ考えます。


(…話しても、いいのでしょうか。外の人に…精霊のことを…)


集落では、私が精霊の声を聞くことをあまり表に出さないようにと言われていました。

不必要な混乱を招くから――そう、幼い頃は教えられたのです。


けれど、この旅人は違いました。

精霊を恐れず、森を尊び、言葉の端々に静かな敬意を宿している。


なにより…精霊達が、彼を拒んでいない。


“……サラ……”


葉擦れの音が、そっと背中を押すように揺れました。


「……いいですよ。精霊のことを、お話いたします」


「ありがとう。本当に……ありがとう」


「その代わり条件があります」


「条件?」


「……外の世界のことを、教えてください」


自分でも驚くほど、その言葉は自然に口をついて出ました。

青年は一瞬、驚いたように目を瞬かせましたが、すぐに柔らかく笑いました。


「もちろん。僕に話せることならいくらでも」


それからしばらくの間、私達は静かな木漏れ日の下で、互いの世界について語り合いました。


私は風のそよぎの中に混じる精霊達の声や、ささやきが伝える微かな感情について。

青年は森の外を巡る旅で見てきた景色や、人々の暮らしの違い、夜空の星々が街ではどんなふうに輝くのかを。


彼の語る外の世界は、どれも私の知らない風景ばかりで。

まるで遠い国の絵本を開いたように、胸の奥がふわりと温かくなるのを感じました。


“……サラ……”


精霊達の囁きも、どこか楽しげに揺れています。

こうして私は初めて、森の外の風景をほんの少しだけ知ったのです。


◇ ◇ ◇


どれほど話したのでしょう。

時間の感覚が、木漏れ日の揺れに溶けて曖昧になるほど、

私達は穏やかに言葉を交わしていました。


けれど、精霊たちのざわめきが少しずつ変ったとき、青年が立ち上がりました。


「……そろそろ、行かないといけないようだ」


名残惜しさを隠すように、彼は肩にかけた鞄の紐を握り直します。


「長く引き留めてしまってすまない。君のおかげで、有意義な時間を過ごせたよ」


「こちらこそ…外の世界のお話、ありがとうございました。とても…新鮮で、胸に残りました」


青年は柔らかく微笑むと、森の奥へ向けて一歩、足を踏み出しました。


「…いつか、また話を聞かせてくれたら嬉しい。精霊の声も…君の感じている世界も」


その言葉が、心の奥に静かに灯をともします。


「ええ…その時が来たなら、きっと」


気づけば、自然とそう答えていました。

青年は深く頷き、葉の影の中へと歩み出しました。


その背が木々の間に溶けていく頃、風がそっと揺れます。


“……サラ…”


まるで精霊たちが、彼の旅路を見送るかのように。

私はしばらく立ち尽くし、沈みゆく光の中で胸に手を添えました。


(外の世界……)


知らない風の匂い。見たことのない空。

青年が語った景色のひとつひとつが、胸の奥で淡く息づいていました。


ほんの短いひとときだったのに、それは確かに、私の小さな世界を揺らしたのです。


◇ ◇ ◇


森の光はすっかり薄れ、夕暮れが色を落としはじめていました。

私は枝葉の影に身を紛れ込ませながら、ゆっくりと集落へ向かって歩きました。


(…誰にも見られていませんよね)


そう自分に言い聞かせながらも、胸の鼓動はいつもより早く、

足取りだけがそっと静かに進んでいきます。


私は今日の出来事が、胸の奥で灯り続けているのを感じていました。


(…外の世界は、本当にあんなにも広いのでしょうか)


揺れる気持ちを抱えたまま、私は自分の家の前へと辿り着きました。

そっと扉に手をかけた、その時――。


「…エリシア」


背後から静かな声がして、思わず肩が跳ねました。

ゆっくり振り返ると、そこには長老が立っておられました。


他のエルフより背が低く、白む金髪を編んだ姿。

しかしその瞳は、森そのものの深さを宿したように澄んでいました。


「こんな時間まで、どこへ行っておったのです」


長老は穏やかに問いかけます。

叱責の響きはありません。

けれどその柔らかな声は、すべてを見透かしているようにも感じられました。


「…少し、精霊達と話をしていました。気付けば遅くなってしまって…」


自分でも驚くほど、声が小さくなります。

長老は私をじっと見つめたまま、

ふう……と静かに息を吐きました。


「エリシア。森の外には、我々の知らぬ風が吹いています。それは好奇心を誘い、心を惑わせる。

だが…精霊に愛された者ならばこそ、その風に近づきすぎてはならぬのです」


胸の奥が、ちくりと痛みました。


(…やはり、気づかれているのでしょうか)


長老の声は、諭すように穏やかでした。


「あなたの心がどこを向いているのか…私には、少しだけわかる気がします」


思わず息を呑みました。

長老は続けます。


「外の世界を知ろうとする気持ちを、否定はしません。

ですが――焦って道を踏み外すことだけは、どうか避けなさい」


その言葉には、不思議と責め立てる響きはありませんでした。


それどころか、“あなたが何を見つめているのか、 私はもう感じているのです”

と語りかけるような、柔らかな痛みを含んでいました。


私は静かに頭を下げました。


「……はい。肝に銘じます。ご心配をおかけして、申し訳ありません」


長老は私の肩に軽く手を添え、ゆっくりと背を向けました。


「今夜は休みなさい。精霊達の声に、耳を澄ませるといい。答えは急がずとも、いつか見えてきます」


その背は、薄闇の向こうへ静かに消えていきました。

私はしばらくその場に立ち尽くし、胸に手を当てます。


(…焦って、いたのでしょうか。でも――あの方のお話を聞いて、私の心は確かに揺れたのです)


森の風が、そっと頬を撫でていきました。


◇ ◇ ◇


長老と別れた後、私は自室の窓辺に腰を下ろし、冷たい夜気を胸いっぱいに吸い込みました。


(…外の風、か)


青年と話した日の夕暮れ。

森の奥で感じたあの“知らない匂い”が、もう一度ここにあるかのように胸をざわつかせます。

ふと気配を感じて目を向けると、窓辺に、小さな光が揺らめいていました。


「…あなたは」


普段、私のそばに寄ることのない、まだ幼い精霊でした。

淡い緑の光を纏い、羽音のような揺らぎをまとっています。

その精霊は、私の手元へふわりと降りてきました。


『…きょうの風、すこしだけ違いました』


囁き声のような、それでいて森の奥の鈴を鳴らすような音。


「外の…風、ですか?」


『うん。森の外から、旅する人の風。あなたと、同じ匂いがしていました』


胸の奥がきゅっと締めつけられます。

青年と別れた時、風がひどく優しく吹いたのを思い出しました。


精霊は続けます。


『その風が…見せてくれました。あなたが見たがっていた、世界を』


一瞬だけ、光がふわりと広がりました。


そして私の視界の中に――

言葉では言い表せないほど鮮やかな“断片”が流れ込みました。


知らない青の湖。

白く広がる雪原。

無数の灯りのともる街。

海辺の煌めく夜。

高い塔の影が落ちる石畳の街道。


ほんの数秒。

それだけなのに、胸の内側が熱を帯びるほど強烈な情景でした。


「…なんて、広い」


精霊は私の手の上に静かに座り、その小さな羽を揺らします。


『エリシア。世界はね…こわいものもあるけれど、きれいなものも、たくさんあるのですよ』


その言葉に、私は息を呑みました。


『あなたは、みつけられる人です。だって、あなたは…精霊の声を聞けるひと』


静かで、優しくて、どこまでも真っ直ぐな声でした。

胸に手を当てると、まだ見たことのない世界の風が、確かにそこに吹き込んでいるのを感じます。


「…私は、いつか――」


言葉が自然と零れました。


「この森の外へ…自分の足で、歩いてみたい」


精霊は満足げに光を揺らし、ゆっくりと宙へ浮かび上がりました。


『その日がくるまで…あなたの心を守ります』


そう言って、小さな光は夜の中に溶けていきました。

私はしばらく窓辺に立ち尽くし、胸に残るあたたかさを静かに抱き締めました。


(…世界は、森だけじゃない)


その確信が、初めて私の中で“輪郭”を持った瞬間でした。


◇ ◇ ◇


翌朝、葉に宿る一粒の朝露が、外の光を映して揺れていました。

その透明な輝きが、ふと彼の語った“外の世界の風景”を思い出させました。


森の朝はいつも鳥のさえずりと霧の香りに包まれています。

けれどそのどちらも、今朝は少しだけ違って感じられました。


(…世界は、広い)


昨日の精霊が見せてくれた光景が、胸の奥でまだ静かに揺れていました。


私はそっと身支度を整え、家の外へ出ました。

朝日が木々の葉を透かし、緑の粒子が光の中で舞っています。


(こんなにも、道が明るく見えるなんて)


昨日と同じ森なのに、ほんの少しだけ色が違って見える。

風の流れも、精霊達の息遣いも、まるで外の世界へ続く道を指し示すようでした。


私は無意識のまま、青年と話したあの場所へ向かって歩き出していました。

夜露で濡れた草を踏む足音だけが、静かに森に溶けていきます。


昨日、彼が立っていた場所。

その傍らに立つと、風がふわりと頬に触れました。


(…あの方は、もう遠くへ行ってしまったのでしょう)


足跡はすっかり消えていました。

けれど、彼が語った景色の断片と、精霊が見せてくれた“外の光”だけは、はっきりと胸に息づいています。


私はひとつ深く息を吸い込みました。

木々の間を通り抜ける風が、まるで外の世界の呼び声のように思えたからです。


この森にいるだけでは、きっと知ることのできないものがある。

そんな思いが、静かに私の胸の底で形を成し始めていました。


(今すぐには…行けません。でも――いつか、必ず)


今の私にはまだ、その“いつか”がいつ訪れるのかはわかりません。

けれど、その日の私が迷わぬように、心はもう外へ向かって歩き始めている。


そんな確かな予感を抱きながら、私は朝の光の中へ溶けていきました。

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