一つ目鍛冶師の秘めたる強さ
主な登場人物
エルザ
種族:サイクロプス
鍛冶職人。ライアとは幼馴染。
ライア
種族:リザードマン
流浪の剣士。エルザとは幼馴染。
私はエルザ。サイクロプスの魔物娘。
そして――鍛冶屋の娘。
物心ついた時から、私の世界には火と鉄の匂いがあった。
言葉よりも音が多い場所。
語り合うより、打ち鳴らす場所。
そんな鍛冶場が、私の“はじまり”だった。
サイクロプスは、昔から“目が一つ”というだけで恐れられてきた種族だ。
感情が読めないとか、怒っているように見えるとか。
人間はよくそう言う。
けれど、私達にとって目は一つで十分だった。
一つだからこそ、逸らさない。迷わない。
見つめたものを、まっすぐに捉える。
昔のサイクロプスは山奥にこもり、戦うための武具を作り続けていたらしい。
無骨で、大柄で、筋肉質で、言葉より腕力がものを言うような暮らし。
でも今は少し違う。
魔王が変わり、世界が変わり、サイクロプスも姿を変えた。
皆女性になり、外見も人間に似た。
それでも単眼だけは変わらなかった。
きっと、それだけは変えられない“核”なんだと思う。
◇ ◇ ◇
私は幼いころから、近所の同い年の子達と遊ぶことはほとんどなかった。
楽しそうな声が外から聞こえるたび、少しだけ気になって覗いたことはある。
一度だけ、輪の中に入ろうとしたことがあった。
けれど、誰かが小さく言った。
「……一つ目、怖い」
その言葉に続きはなかった。
皆が黙って、少しだけ距離を取った。
泣きたかったわけじゃない。怒ったわけでもない。
ただ、それ以上近づく理由が見つからなかった。
それ以来、遊ぼうとは思わなくなった。
でも、不思議と寂しさはなかった。
なぜなら――鍛冶場の方が、ずっと落ち着いたから。
火の音は嘘をつかない。鉄は裏切らない。
言葉がなくても静かにそこにあった。
鍛冶場の奥には、いつもお母さんがいた。
無言で鉄に向き合い、槌を振り下ろす背中。
火花が散るたび、影が揺れる。
その光景は幼い私には少しだけ大きく見えた。
お父さんは横で明るい声を響かせていた。
「今日の仕上がりは最高だぞ!」
「客がまた喜んでた!」
笑いながら話す声が、火の音と混ざって鍛冶場を満たしていた。
私は入口の隅に座り、ただ見ていた。
火は熱く、鉄は重い。
何もできなかったけれど、それでよかった。
叩く音。散る火花。焼けた鉄の匂い。
それらが胸の奥に、静かに降り積もっていった。
ある日、お父さんが私に気づいて言った。
「エルザ。飽きないのか?」
私は首を振った。
飽きる、という感覚はなかった。
目を離したくなかった。
お母さんは鉄を見たまま、一言だけ。
「続ければ、形になる」
説明も、慰めもなかった。
でも、その言葉はずっと耳に残った。
その日から、私は鍛冶場の火のそばにいる時間が増えた。
言葉はいらなかった。見ているだけで十分だった。
そんな日々だった私は、鍛冶場の外でも、もう一つの“熱”を見つけることになる。
◇ ◇ ◇
鍛冶場の裏手には、小さな訓練場があった。
土と砂が混ざった地面に、踏みしめた跡がいくつも残っている。
そこでは毎日のように、一人の少女が剣を振っていた。
彼女の名前はライア。リザードマンの魔物娘。
背筋を伸ばし、歯を食いしばり、何度倒れても立ち上がる子。
私は言葉を交わしたことはなかった。
汗で髪が張り付き、膝に土がついても、ライアは止まらない。
剣はまだ身体より大きく、扱いきれていないように見えた。
けれど彼女は何度も何度も剣を振るった。
私にはできない動きだった。
火のそばで静かに座っている私とは、違う世界の人のように思えた。
それでも――目を逸らせなかった。
訓練場にはライアと、彼女の母の姿があった。
鋭い声で指示を飛ばし、容赦なく攻め込むように見える訓練。
倒れても立たされ、振れなくても構えさせられる。
言葉は厳しく、甘さはなかった。
私は訓練場の端から、その光景をじっと見ていた。
火とは違う熱。鉄とは違う音。
胸の奥がじわりと熱くなるのを、言葉にできなかった。
何日も、何度も。
私は鍛冶場と訓練場を行き来しながら、同じ背中を見つめ続けた。
そしてある日。
訓練場にはライアだけがいた。
母の姿はなく、静かな夕暮れだった。
私はいつものように遠くから見ていた。
ライアは剣を振り終え、ふっと息を吐き、こちらに目を向けた。
一つ目と、二つの目が、まっすぐぶつかった。
ライアはゆっくり歩いてきて、立ち止まると不思議そうに言った。
「……なぁ。ずっと見てるけど――何が楽しいんだ?」
私は答えられなかった。
言葉が見つからなかった。
楽しい、という感覚ではなかった。
でも、離れられなかった。
沈黙が落ちる。
夕日の色が少し濃くなる。
するとライアは、少しだけ困ったように笑って言った。
「まぁ…いいけどさ。変な奴だな、お前」
その言葉は不思議と嫌じゃなかった。
夕暮れの風が少しだけ涼しくて、胸の奥が静かに落ち着いた。
ライアは剣を肩に担いだまま、じっとこちらを見つめる。
「…お前、名前は?」
「…エルザ」
自分の声が思ったより小さくて、弱かった。
けれど、その名を初めて誰かに向けて言った気がした。
「ふーん。エルザ、か。覚えとくよ」
それだけだった。
握手も、笑顔も、約束もなかった。
でも、その一言が胸に残った。
名前を呼ばれる未来が、ほんの少しだけ想像できてしまった。
その日から――私たちは、同じ場所にいるようになった。
言葉は少なくても。笑いあわなくても。
火と鉄のそばで育った私の世界に、初めて“誰か”の名前が刻まれた。
◇ ◇ ◇
ライアと名前を交わしてからの日々は、静かに形を変えていった。
訓練場へ行けば、必ずライアがいた。
剣が振られる音は、鍛冶場で聞く槌の音とは違う。
もっと荒々しくて、途切れそうで、それでも途切れない音だった。
私は少し離れた場所に腰を下ろし、その音を聞き続けた。
土が舞い、風が汗を運び、夕日が地面を赤く染める。
ライアが立ち、倒れ、また立つ――
その繰り返しが、毎日決まった儀式のように感じられた。
会話と呼べるほどの会話はなかった。
「また来たのか、エルザ」
「……うん」
「今日も見てるだけか?」
「……うん」
短い言葉がぽつりと落ちて、沈黙が続く。
けれど、その沈黙は嫌ではなかった。
火のそばとは違うけれど、落ち着ける静けさだった。
鍛冶場にも相変わらず通った。
鉄の匂いと火の熱は、身体の奥まで染みついている。
訓練場と鍛冶場。
二つの場所が、いつの間にか“当たり前の日々”になっていた。
そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
――その日までは。
訓練を終えた帰り道。
西の空は茜色で、影が長く伸びていた。
気づけば、私は口を開いていた。
「……ライア。来て」
自分でも驚くくらい突然だった。
胸の奥が跳ねて、息が少しだけ詰まる。
ライアは足を止め、こちらを振り返った。
額には汗が光り、息は荒い。
その顔が不思議そうに歪む。
「お前の家か?」
「……うん」
家に誰かを連れて帰るなんて、考えたこともなかった。
でも、その一歩を止める理由もなかった。
鍛冶場の扉を開けると、熱がどっと流れ出た。
火の赤が壁を揺らし、鉄の香りが鼻を刺す。
ライアは目を丸くした。
「すげぇ…これ、全部…?」
私は無言で頷いた。
喉が熱くなり、言葉が出なかった。
気づいたら、手が動いていた。
壁に掛かった、子ども用に作られた、軽くて短い小さな槌。
手に取ると、柄の木が少し汗ばんだ掌に馴染んだ。
胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「……見てて」
その言葉は、震えていた。
母の背中を見続けてきた。
槌の振り方も、鉄の置き方も、火の近づき方も。
頭では知っている。
ただ、一度も自分の手でやったことはなかった。
台に赤く熱を帯びた小さな鉄片を置く。
熱は顔にまで届き、肌を刺すようだった。
槌を握り、腕を振り下ろす。
カン。
軽い音。けれど手首に重く響く。
もう一度。
強く。もっと強く。
カンッ。
火花が散った。
熱が跳ね、指先に鋭い痛みが走る。
「っ……!」
槌が手から離れ、音を立てて落ちた。
手の甲に赤みが広がっていくのが見える。
焼けるような疼きが脈を打った。
涙が勝手に滲んだ。
痛みだけじゃない。悔しさとも違う。
胸の奥がぐしゃりと潰れるような、どうしようもない感覚。
「お、おい!大丈夫か!?」
息を呑む音とともに、ライアが駆け寄る。
声を出そうとしても喉が震えて音にならない。
涙が頬を伝い、視界が歪んだ。
情けない。恥ずかしい。逃げたくなる。
でも、足は動かなかった。
私は首を横に振った。
「……まだ、やる」
「無理だろ!火傷してるんだぞ!」
心配する声だった。
怒っているようにも聞こえた。
それでも、私は掌をぎゅっと握った。
「……やる」
理由は言えなかった。
言葉にできなかった。
ただこの場所を離れたくなかった。
涙が落ちながら、槌に手を伸ばす。
泣きべそをかき、火に怯え、痛みに震えながら――
それでも立とうとする自分がいた。
ライアは大きく息を吐き、呆れたように、それでもどこか温かく言った。
「……変な奴だな。ほんとに」
その言葉が、不思議と胸の奥を軽くした。
鍛冶場の火が揺れ、その赤が私達の影を重ねた。
世界がほんの少しだけ動いた気がした。
◇ ◇ ◇
ある日の夕方、鍛冶場の火が落ちると、家の中には静かな匂いが満ちた。
鉄ではなく、煮込みの香り。鍛冶の音ではなく、皿が触れ合う小さな音。
家族で囲む食卓は、火の前とは違う温度があった。
お父さんは大きな声で笑い、湯気の立つ皿を運んでくれる。
お母さんはいつものように無言で席に着き、手を合わせる。
「いただきます。」
三人の声が重なり、少しだけ温かい空気が流れた。
しばらくして、お父さんがふと私を見た。
「そういやエルザ。最近、訓練場によく行ってるみたいだな」
スプーンを持った手が止まり、胸が少しだけ跳ねた。
「……見てるだけ。」
正直に答えると、お父さんは目を丸くした。
「ほう?誰をだ?」
すぐに名前が浮かぶ。
言うのは少しだけくすぐったかった。
「……ライア」
「ライア?ああ、あのリザードマンの娘さんか!」
お父さんは嬉しそうに笑った。
「よかったじゃないか!友達ができて!」
“友達”
その言葉が、胸の奥にぽつりと落ちた。
友達と言えるのか、わからなかった。
一緒に遊ぶわけでも、笑い合うわけでもない。
ただ隣にいて、同じ時間を過ごしているだけ。
でも――嫌じゃなかった。
言い返せずに黙っていると、お母さんがぽつりと言った。
「……あの子は強い。」
それは評価でも褒め言葉でもなく、ただの事実のように聞こえた。
「強くなる」
もう一言、静かに続ける。
その声音には、迷いがなかった。
「だろうな!あんな気迫の顔してりゃ、伸びるに決まってる!」
笑いながら自分の事のように誇らしく語るお父さんに対し、お母さんの目は違っていた。
火を見るときと同じ、真剣な光があった。
そして、言葉が落ちる。
「強くなる者には――相応しい刃が要る」
私の胸が、微かに揺れた。
刃。剣。鍛えるもの。
お母さんは料理に視線を落としながら、息を吐く。
「…いつか、あの子の剣を打つことになる」
その一言は、まるで予告のようだった。
鉄が熱を帯び始める瞬間のように、胸の奥が静かに熱を孕んだ。
ライアの剣を私が打つ。
理由はまだ言葉にならなかった。
でも、火が灯ったのがわかった。
その夜、食卓のあたたかさとは別に、胸の奥で赤い火が小さく揺れていた。
◇ ◇ ◇
それから――三年の月日が流れた。
季節が幾度も巡るうちに、訓練場の地面は剣と足音で踏み固められ、鍛冶場の壁には新しい煤が何層も重った。
ライアは背が伸び、筋肉が締まり、剣の振りは迷いがなくなった。
倒れる回数は減り、立ち上がるまでの時間も短くなった。
一方の私は、気づけば両手の甲に火傷の跡がいくつも刻まれ、
それは痛みよりも「鉄と向き合ってきた証」として私の日常に溶け込んでいた。
痛みはとっくの昔に怖くなくなっていた。
火に近づく息の熱さも、鉄の重さも、もう日常だった。
鍛冶場の奥。
母の背中の隣には、もう“座るだけの子ども”はいない。
私は火に向き合い、鉄と向き合い、槌を振るうようになっていた。
まだぎこちなく、まだ未熟で、まだ弱い。
けれどそれでも「打つ側」に立っていた。
三年という時間は、大きな変化を見せないようでいて、静かに全部を変えていた。
そんなある日。
ライアは母との訓練を終え、汗を拭いながら一人静かに剣を収めていた。
母の姿が家へと消え、訓練場に残るのは朝の光と、まだ熱を帯びた土の匂いと、ライアだけ。
私は胸の奥が強く脈打つのを感じた。
三年間の火傷と努力と想いをすべて抱えてそっと歩み寄る。
「…ライア」
振り返った彼女の目には、あの日から変わらない真っ直ぐさが宿っていた。
私は両手で抱えていた一本の剣を差し出す。
「…これ。私が、打った」
ライアは驚いたように目を瞬かせ、剣を受け取る。
刃を確かめ、重さを感じ、しばらく黙っていた。
その沈黙は拒絶ではなく、丁寧に向き合おうとする時間で、
やがて彼女は小さく息を吐き、ほんのわずか口元を緩めながら言った。
「……すげぇよ。エルザ」
その一言が胸の奥に強く響き、鍛冶場の火でも鉄の熱でもない温かさが、ゆっくりと心を満たしていくのを感じた。
三年間、言葉にできなかった想いが、ようやく形になった瞬間だった。
◇ ◇ ◇
その日も、私はいつものように槌を置き、訓練場へ向かった。
昼下がりの空は澄んでいて、風は少し強かった。
地面には、昨日までの足跡が薄く残っている。
いつもなら、この時間――ライアと、その母が現れる。
私は無言で待った。
石壁に背を預けて、ただ立ったまま、影が伸びていくのを見つめる。
けれど…時間が流れていくだけで、誰の足音も聞こえなかった。
太陽はゆっくりと傾き、訓練場の影を長く伸ばした。
木の葉がざわめき、砂が足元をかすめる。
それでも、ライアは来ない。
胸の奥に、言葉にならないざわつきが小さく灯る。
(…今日は、休み?)
声に出すことはなかったけれど、そんな思いが一瞬だけよぎった。
それも、理由のわからない不安に押しつぶされ、静かに消えた。
陽が沈みはじめる。
訓練場は冷たい色に染まり、風が肌に刺さるように感じる。
私はもう一度だけ入口の方を見た。
(…やっぱり、来ない)
私は踵を返し、家路についた。
背中に落ちる夕陽が、やけに重かった。
◇ ◇ ◇
家に戻ると、工房はもう暗く、昼間まで熱を帯びていた鉄の匂いが、ひんやりとした空気に溶けていた。
台所からは煮物の湯気が立ち、小さな家の中にだけ、かすかな温もりが漂っている。
それなのに――胸の奥は冷たかった。
食卓には三つの皿。
毎日見ている、変わらない並び。
向かいで母が淡々と箸を動かす。
無表情で、音ひとつ立てない。
いつも通りのはずなのに、今日だけはその沈黙が妙に重く感じた。
父は笑おうとして、どこかぎこちない顔をしていた。
かちゃ、かちゃ――
食器が触れ合う小さな音だけが、家の中を満たす。
料理の味は、よくわからなかった。
胸のざらつきが、ずっと消えない。
堪えきれず、私は口を開いた。
「今日…ライア、来なかった」
父の箸が、その瞬間、ぴたりと止まる。
ほんの一瞬。でもはっきり分かった。
母は相変わらず無表情で口に運ぶ。
しかし、動きがほんのわずかに遅れたように見えた。
一秒だけの静止。
それが、逆に確信を生んだ。
「…そうか。たまたま、だろう」
父の声は明るさを装っているけれど、
その明るさが薄い紙みたいに頼りなくて、触れたら破れそうだった。
私は父をじっと見つめた。
「お父さん」
「ん?な、なんだ?」
「……何か、隠してる?」
父の肩がわずかに揺れた。
その反応は、嘘のつけない人のものだった。
「別に……いや、その……」
濁った声が食卓に落ちていく。
父の視線は皿の上をさまよい、私の方を見ようとしない。
私は黙ったまま、父を見つめた。
逃げ道を作らない視線。一つ目だからこそ、逸らせない真っ直ぐな眼差し。
父は観念したように、大きく息を吐いた。
「……今朝、ライアが来たんだ」
心臓が、ひゅっと縮んだ。
父の声は低く、どこか悔やむようで――重かった。
「剣を…買わせてくれって言ってな」
母の箸がそこで止まる。
顔は動かない。だけど空気が変わった。
父は続ける。
「ライアは…真剣だった。何も言わなかったけど、あの目は、もう決めてる目だったよ」
言葉が胸に刺さり、息が浅くなる。
「多分……旅に、出たんだ」
世界が、すっと遠のく感覚。
音が消えた。匂いも消えた。
食卓の温かさすら、感じなくなる。
すべて遠くへ沈んでいく。
理解が追いつかない。
言葉も浮かばない。
ただ――胸の奥に、ぽっかり穴が空いた。
椅子の脚が床を擦った音が、妙に大きく響いた。
気づけば私は立ち上がっていた。
自分が立ち上がった理由を、まだ言葉にできていなかった。
ただ――身体が先に動いていた。
父が驚いたように目を見開く。
母は相変わらず無表情のまま、ゆっくりフォークを置いた。
その仕草だけで、空気が変わる。
「…どこへ行くつもり?」
母の声は低く、静かだった。
怒っているわけでも、慌てているわけでもない。
ただ、真っ直ぐに私の動きを止めた。
喉が張り付いて、声がなかなか出ない。
けれど、絞り出すように言葉がこぼれた。
「……ライアを」
母の一つ目が、わずかに細められる。
「探すの?」
問いというより確認。
逃げ場を与えない声音。
私は唇を噛んで、ぎこちなく頷いた。
「どこに行ったかも、わからないのに?」
母の視線が突き刺さる。
そこには冷たさも優しさもなく、ただ事実だけ。
本当に、そうだ。
行き先も、理由も、手がかりすらない。
それでも――胸の奥が燃えるように痛んだ。
「……それでも…見つけ出す」
沈黙が落ちる。
鍛冶場の火が消えたあとのような、重たい静寂。
母は真っ直ぐに私を見据えたまま、もう一つ問いかける。
「どうして?」
その一言が、鋼のように硬かった。
私は一瞬だけ目を伏せる。
喉の奥が熱くなる。胸の穴が広がっていく。
理由なんて、うまく言えない。
言葉を飾ることもできない。
だけど、はっきりしていることが一つだけあった。
顔を上げると母の一つ目と、自分の一つ目が正面からぶつかる。
「……友達、だから」
その言葉は、掠れていた。
でも嘘じゃなかった。
父が息を呑む気配がした。
母の表情は変わらない。
それでも、空気がわずかに揺れた。
「見つけ出して、その後は?」
母の問いは鋭い。先を見据えるような声。
「……わからない。でも」
息を吸い込む。
心臓が痛いほど脈打つ。
「このままお別れは…嫌」
そこには涙も叫びもない。
ただ、静かな決意だけが残った。
火花が散るような、言葉のない時間。
沈黙は、永遠みたいに長く感じられた。
私と母の一つ目がぶつかり合ったまま、誰も動かない。
父は息を潜め、私達を見守るだけだった。
やがて、母が椅子を静かに引いた。
母は立ち上がり、私の正面に歩み寄る。
足音は静かで、しかし一歩ごとに床が重く鳴った気がした。
「――わかった。追いかけなさい」
胸が大きく跳ねた。
許された。止められなかった。
それだけで、息が戻ってくる気がした。
けれど、続く言葉は鋼のように硬かった。
「ただし、条件がある」
私は言葉を失い、固まったまま母を見上げた。
「ライアのための剣を打ちなさい」
母の言葉に心臓が、強く打った。
「今度は――“本物”を」
母の声は淡々としていて、感情を乗せていない。
だけどその言葉は、火のように熱かった。
「エルザはまだ子どもだぞ……!」
父の声は震えていた。
心配と動揺が滲んでいる。
けれど母は、揺るがなかった。
「子どもでも構わない。打たなければ、追わせない」
その一言で、部屋中の空気が締め上げられる。
私は拳を握りしめた。
掌の火傷跡が、じんと痛む。
「……できるの?」
母の問いは、挑むようでも、突き放すようでもなかった。
ただ、試す声。
私は喉を動かし、言葉を絞り出した。
「……やる」
震えていた。でも、逃げなかった。
母のまつげが、ほんのわずかに揺れた。
「教える」
短い。だが重さがあった。
「鍛える。折れない剣を打つまで、終わらせない」
その宣言は、母なりの“背中を押す”形だった。
父は目を見開き、何か言おうとして――言葉を失った。
胸がまだ痛い。
穴は埋まっていない。
でも――
「……必ず、打つ」
その言葉は小さかったけれど、揺るがなかった。
母は背を向け、工房の扉に視線を向ける。
「明日から始める。夜明け前に降りてきなさい」
それだけ告げて、歩き出した。
私は立ち尽くしたまま、拳を握り締めた。
ライアに会うための道は――いなくなったその日ではなく、
“剣を打つ”と決めたこの瞬間から始まった。
◇ ◇ ◇
翌朝。夜明け前。
工房にはまだ冷たい空気が残っていた。
母が黙って炉に火を入れる。
赤い光が鉄を照らし、静かな影が揺れた。
私は槌を握った。
重さが、これまでと違って感じられる。
ここからが始まりだった。
火花が散り、腕に熱が刺さる。
皮膚が焼けて、じり、と痛む。
何度も鉄を叩く。
叩いて、叩いて、叩き続ける。
形になったと思えば次の瞬間、砕けた。
床に落ちた破片が冷たい音を立てる。
「弱い。やり直し」
母のそれだけの言葉に、私は返事をせず、また炉に鉄をくべた。
別の日。
手のひらの火傷は増え、指は震えていた。
槌を握る力が抜けても、母は助けない。
「迷いがある。打ち直せ」
私は息を吐き、再び槌を振り上げた。
季節が変わった。
工房の窓から吹き込む風の匂いが違っていた。
外に出ることもほとんどなかった。
訓練場にも行かなかった。
ただ鉄と火と槌の音だけが、時間を進めた。
夜遅く、手はもう震えて上がらない。
それでも、私の胸に浮かんだ言葉はひとつだけ。
「……友達、だから」
その言葉が、次の一打を振らせた。
ある日。
完成に近づいた鉄を炉から取り出した瞬間、母が初めて言った。
「迷いがない」
私は槌を振り上げた。
息を止め、力を込めて一撃。
工房が静まった。
鉄は、剣になっていた。
歪みはなく、刃は鋭い。
かつての玩具のような剣ではない。
“実戦で使える武器”だった。
「――形になった」
母の告げた一言に、私はゆっくりと息を吐いた。
震えは、もうなかった。
◇ ◇ ◇
工房の扉を開けたとき、空はまだ藍色で、夜と朝の境目が静かに揺れていた。
大槌と新しい剣と旅の荷物を抱えて立つ。
息を吸うと冷たい空気が肺に落ちて、胸がきゅっと縮んだ。
そのとき――足音がした。
振り向くと、家の前の通りに二つの影が立っていた。
ライアの父と、母だ。
ライアの父は、少し寂しげに笑った。
「ライアを…頼むよ」
その言葉は重くて、でも温かかった。
返事は喉に引っかかって出てこなかった。
ただ、強く頷いた。
ライアの母は何も言わなかった。
ただじっと、私を見つめていた。
母が工房の入口に立っていた。
無言で、ライアの母と視線を交わす。
二人の間に言葉はなかった。
でも交わされた一瞬の眼差しには、
「任せた」「託す」
そんな感情が確かにあった。
もしかして、この二人はずっと互いを理解していたのかもしれない。
私はその視線の意味を全部は分からないまま、でも、確かに背中を押された気がした。
父の声が、小さく届く。
「気をつけて行くんだぞ?」
母は背を向けたまま言った。
「鉄は打てば応える。心も、だ」
私は剣の柄を握りしめ、深く頷いた。
そして、一歩踏み出した。
ライアに届けるために。
あの日の答えを手にするために。
まだ暗い道を、真っ直ぐに。
◇ ◇ ◇
旅は、思っていたよりずっと厳しかった。
地図の読めない道。乾いた風。
知らない街の知らない人達。
私は街をひとつ越えては、またひとつ歩いた。
人が集まる場所――酒場、宿屋、市場。
扉を開けるたび、ざわめきと視線が刺さる。
話すのは苦手だった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
それでも、必要な言葉だけを投げた。
「……リザードマン。女。戦士。知らない?」
簡潔に短く。
曖昧に笑ってはぐらかす者には、ただ黙って一つ目を向けた。
逃げ場のない視線。
それだけで、相手は言葉を飲み込み、ポツリと情報を落とすこともあった。
旅は孤独で、眠れない夜も多かった。
槌を抱いて眠る日もあった。
それでも、止まらなかった。
――必ず会う。
その想いだけが、足を前に出した。
◇ ◇ ◇
ある街の酒場。
埃っぽい空気、酔客の笑い声、木製のテーブルに刻まれた傷。
その中で、ふと耳に入った。
「最近有名なんだとよ。若いリザードマンの戦士がな」
心臓が跳ねた。
「賞金首を次々倒してるらしい。腕は確かだとよ」
私は席に近づき、低く問いかけた。
「……その戦士。どこに?」
男は驚いたように私を見上げ、言った。
「北の荒野だ。賞金稼ぎの連中が集まる場所だよ」
私は深く頭を下げ、そして走った。
◇ ◇ ◇
北へ向かう道は、荒れていた。
乾いた土がひび割れ、風が砂を巻き上げる。
足跡も道標もなく、ただ広がる灰色の大地。
それでも、歩みは止まらなかった。
胸の奥で、ずっと同じ言葉が繰り返されていた。
――もう、いなくならないで。
誰にも聞こえない声。
自分にすら届かないほど小さな願い。
やがて、荒野の中心で人影が揺れた。
最初は蜃気楼のようだった。
けれど、近づくほど輪郭がはっきりする。
逆光に照らされた鱗。
伸びた尻尾。握られた剣。
胸が、ぎゅっと締め付けられた。
やっと見つけたのに、その背中は、あまりにも遠く思えた。
声もうまく出なかった。
それでも絞り出すように呼んだ。
「……ライア」
その瞬間、影がわずかに動き、ゆっくりと振り返る。
そして、その目が見えた。
鋭い。荒んでいる。
迷いも温度もなく、ただ前だけを睨む戦士の目。
あの日、訓練場で見せた無邪気な光は、どこにもなかった。
胸が痛んだ。
まるで、自分の知らない誰かを見ているみたいで。
でも――確かに、ライアだった。
唇が震える。言葉が追いつかない。
そのとき、ライアがかすかに目を細め、短く呟いた。
「……エルザ?」
名前を呼ばれた。
それだけで、膝が崩れそうになる。
会いたかった。伝えたかった。追いつきたかった。
だけど返ってきた声は、驚きではなく、警戒と苛立ちの混じった低い声音だった。
「……なんで、ここにいる」
私は胸の奥を握られるような痛みに耐えながら、答える。
「……会いたかったから、来た」
言葉は短く、それ以上飾ることもできず、ただ思ったままを口にしただけだった。
「ふざけるな」
吐き捨てるような声音には、相手を遠ざけるための棘があった。
それでも私は視線をそらさず、静かに言葉を返す。
「ふざてない…真剣」
その瞬間、ライアの目が鋭く細められ、遠い昔に感じた威圧とは桁違いの圧が空気を重くする。
「私は会いたくなかった…誰とも」
その言葉は、刃より痛かった。
胸の奥がきゅっと縮む。
それでも、聞かずにはいられなかった。
「どうして…いなくなったの?」
沈黙が落ちた。
風と砂と夕陽だけが時間を進める。
そしてライアは、感情を押し殺した声で静かに答えた。
「…強くなるためだ」
その言葉は短いのに、驚くほど冷たく、決意の形だけを残していた。
私は一歩だけ前へ踏み出す。
「私が…手伝う」
その申し出に、ライアの眉がぐっと歪み、噛みつくように言い放つ。
「いらない。私はもう、一人で戦えるんだ」
その口調には自信があった。
だけど不思議と、その自信がどこか空洞を抱えているように思えてしまう。
胸の奥で確信めいたものが生まれ、私は小さく首を振った。
「……嘘」
ライアの目がぎらりと光を帯びる。
「嘘じゃない。私は強くなったんだ」
強い言い切り。
途切れも迷いもない断言。
けれど私は視線をそらさず、はっきりと告げる。
「……違う」
乾いた空気が止まり、夕暮れの色が濃くなる。
「何が違うっていうんだ」
その声には怒りと、触れてほしくない傷の震えが混ざっていた。
私は息をのみ、言葉を絞り出す。
「ライアは……強さを間違えてる」
その瞬間、彼女の中で何かが弾けたようだった。
「お前に……何がわかる」
声は低く震え、荒野そのものがざわめいたように感じる。
「私がどれだけ戦ってきたか。どれだけ倒してきたか」
荒々しい息遣い。握りしめられる拳。
剣の柄に伸びる指が白くなる。
私はそれでも目を逸らさない。
「でも……満たされてない」
その一言が落ちた瞬間、ライアの顔が怒りに歪み、叫びが荒野に響く。
「黙れ!」
乾いた風が巻き上がり、砂粒が舞い、空気がびりつくほど緊張が高まる。
「これ以上踏み込むなら……お前でも容赦はしない」
ライアの手が剣の柄を強く握り締め、その瞳には明確な闘志と拒絶が燃えていた。
(……怖い)
正直に言えば、それが本音だった。
私は、一度も“戦い”をしたことがない。
鍛冶場で槌を振り続けてきただけの、鍛冶師の娘。
でも――逃げられない。
逃げたら、一生追いつけない。
私は槌を握り直し、息を吸い込む。
「……うん。いいよ」
夕陽が二人の影を重ね、その境界線を曖昧にする。
ライアが細い目で睨みつける。
「本気か?鍛冶師のひよっこに何ができる」
私は一歩も引かず、まっすぐに答えた。
「――ライアを止められる」
その言葉が放たれた瞬間、二人の間に戻れない線が引かれた。
そして。ライアが地を蹴った。
その動きは迷いがなくて、流れるようで、綺麗だった。
同時に、息が詰まりそうなほど速かった。
剣が振り下ろされ、私は反射的に大槌を構える。
ガンッ!!
衝撃が腕から肩、背中まで一気に突き抜ける。
足が土にめり込み、呼吸が乱れる。
(……っ、重い……!)
ライアの攻撃は次々と迫る。
追いつけない。受け止めるだけで精一杯。
私はただ、必死に立っていた。
「まだやるのか?」
「……うん」
声は震えていた。
でも、気持ちは揺れていなかった。
ライアがわずかに体をひねった。
その瞬間、嫌な勘が走る。
(来る――!)
斜め上から、肩口を断ち割るような鋭い袈裟斬り。
逃げる暇なんてない。
受け止めなきゃ――死ぬ。
私は反射的に大槌を振り上げた。
振り下ろされる軌道に合わせ、剣の“芯”へ角度を合わせる。
ガァンッ!!
火花が散り、耳が痛くなるほどの衝撃音が響いた。
剣と大槌がぶつかった場所――そこは刃じゃなく、刀身の中心。
鉄と鉄が軋み、手の骨が砕けそうなほどの重みが腕に食い込む。
剣の勢いを殺した。
真正面から受け止めたんじゃない。
“合わせた”んだ。
ライアの目がわずかに揺れた。
「っ……!」
(届いた……!)
でもその一瞬が終わる前に、ライアが踏み込んだ。
「それがどうした!」
力で一気に押し返され、体勢が崩れた。
そして尾が閃き、腹に衝撃が走る。
バシュッ!
「っ――!」
腹に衝撃が走り、息が抜ける。
膝から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。
大槌が手を離れ、転がっていく音が遠くに聞こえた。
(……痛い)
でも、それ以上に――
(ライアが、遠い)
そんな気持ちが胸の奥に広がった。
影が覆いかぶさる。
見上げると、剣先が喉元に向けられていた。
冷たい。本当に、終わってしまうみたいだった。
「言い残すことは」
迷いのない声。
昔と違う。優しく笑っていたあの頃のライアじゃない。
だから…だから私は、言った。
「……ある。私の勝ち」
「何を――」
ミシ……
手元から、小さな音がした。
ライアの剣に細い亀裂が走っていく。
そして――
パキン
刃が根元から折れ、砂の上に転がった。
ライアの手が震えていた。
信じられないものを見るような目。
「…な…に…?」
私はゆっくり起き上がる。
呼吸は荒くて、痛みもまだ残っている。
でも、言わなきゃいけなかった。
「…ライア。剣の手入れ…してない」
言った瞬間、胸が締め付けられる。
本当は、責めたいんじゃなかった。
ただ――気づいてほしかった。
強さは、倒すことじゃないって。
ライアが折れた柄を見つめ、呟く。
「私の剣が…負けたって…言うのか」
「違う。負けたのは…“強さの考え方”」
折れた刃が砂の上で転がり、カラン、と乾いた音を立てた。
その音を聞いた瞬間、ライアがふっと沈み、膝をついた。
俯いたまま、拳を握りしめて震えている。
強さを誇っていた背中が、小さく見えた。
(……苦しかったんだ)
倒すことだけを追い続けて。
一人で、誰にも寄りかからず。
きっとずっと、あの孤独と一緒に戦ってきた。
胸が締めつけられる。
だから私は、背負っていた布包みを静かに解いた。
ずっと抱えて旅をしてきた、一本の剣。
息を整え、ライアの前に立つ。
震える手をそっと伸ばし、彼女の視界に剣を差し出した。
「……ライア」
ゆっくりと、ライアが顔を上げる。
その目は、強さよりも戸惑いの色が濃かった。
「これ、私が…ライアのために、打った」
ライアの瞳が揺れる。
まるで信じられないものを見るように、剣を見つめていた。
両手でそっと受け取ると、刃の重さと均衡を確かめるように指で触れる。
昔の、粗くて歪んだ剣じゃない。
刃は真っすぐ通り、鍔も揺らぎがない。
芯には折れない意志を込めた。
「これ…本当に…お前が?」
ライアの声には驚きと、少しの悔しさと――どこか救いを求める響きがあった。
私は胸に手を当て、言葉を絞り出す。
「…うん。私も…強くなったから」
力の意味は違う。倒す力じゃない。
折れずに立ち続ける力。
誰かに向かって手を伸ばす力。
それを、やっと言葉にできた。
ライアは剣を見つめたまま、長い沈黙を落とした。
夕風が吹き抜け、二人の間を通り過ぎる。
やがてライアが小さく息を吐く。
肩から、何か重いものが静かに落ちていくみたいだった。
その顔は、戦士の険しさではなく、昔の、あの頃のライアに近かった。
「一緒なら…もっと強くなれるよ」
強さを“分け合える”ってことを、やっと伝えられた。
ライアはゆっくりと私を見上げる。
その瞳に、わずかだけど光が戻っていた。
「……ありがとう」
その一言だけで十分だった。
折れたのは、剣じゃない。
閉ざしていた心の殻だった。
私はそっと手を差し伸べる。
「行こう。もっと強くなるために」
ライアはしばらく俯いたまま動かなかった。
けれど、ゆっくりと、その手を掴んで立ち上がる。
「……ああ。二人でな」
夕陽の中で、私達の影が並んだ。
同じ長さで、同じ方向へ伸びていく。
どこへ辿り着くかなんて、わからない。
何が待っているかも、知らない。
それでも、一人で歩くより、きっといい。
強さの答えを探す旅が、ここから始まった。




