もう一度と希う
好きで好きで堪らないのにどうして届かないのか。自分を捨て駒のように使われてはこちらはたまったものではない。どうして、私の大事な人はみんなそんな風に自身を投げ捨てるような真似をするのだろう。
「アンタなんか死んじゃえばいいわよ」
「ハハッ。……ヒドイな、ルシナちゃん」
身体中傷だらけで、今にも死にそうなアスターが仰向けに倒れている。私を見上げ、いつものようにヘラヘラと笑っていた。
「そんな、泣かないでよ」
───俺ルシナちゃんの怒った顔が好きだな
アスターがふざけるように吐いた言葉に腹が立つ。泣いてしまっている自分にも。手をすり抜けようとする大切なものをつなぎとめる手段を私は持ち合わせていない。
「…アイツのためなら命を捨ててもいいって?冗談じゃない!そんなの許さない。例え、あの大馬鹿者が許したって私は許さない」
「熱烈だねぇ」
口笛を吹こうとして、アスターはゴホゴホと咳をした。迫り上がってきた血を吐き出す。
「アンタが死んだら呪ってやる」
「言ってることが無茶苦茶だよルシナちゃん」
へにゃりと眉を下げたアスターは起き上がろうとして失敗した。そうして、ゆっくりと私に手を伸ばす。血に濡れた手が私の頬を撫でた。涙を拭うようにゆっくりと動くその指が微かに震えているのが、悲しい。
死なないで。お願いだから死なないで。強く祈った。叶わないことなんか知っているけれど、それでも、強く。
これだけ血が出ていたらもう助からない。力が抜けてどんどん冷たくなっていく体。意識がなくなった彼に縋り付いて私は動くことができなかった。
ああ、このまま一緒に逝けたなら腹に溜まった怒りも胸を苦しめる悲しみも捨ててしまえるのに。
私は、今にも墜ちてきそうな曇天の中、膝をついて乞い願う。もう会えないコイツに、もう一度会わせてほしいと恋願う。神なんて信じた事ない癖に希った。
◆◆◆
ハアハアと息を乱し、汗だくで目を覚ます。またいつもの夢だ。物心ついた頃から見るこの夢は、私の前世の記憶だ。正確には、前世の記憶らしいと言うべきかも知れないけれど。
確かに夢の中での出来事は我が事のように感じるけれど、朝起きてしまえばそんなもの単なる夢にすぎないと思いこむことができる。
だから、私1人だけであれば信じることはなかっただろう。本当にあった出来事だ、と。けれど、残念ながら近くにもう1人私以上にはっきりと色々覚えてるヤツがいた。私が泣いて縋った彼のご主人様だ。
そのご主人様は、私の幼馴染としてここに存在していた。前世でも腐れ縁といってもいい関係だったから納得の配役だろう。全く嫌になる。あんな馬鹿みたいな世界の関係性を再現しなくてもいいだろうに。
これは私が願ったが故なのだろうか。私が馬鹿みたいに、命を捧げたから…だから、時代は違うけれど、こんな焼き増しのような配役で産まれてきたのだろうか。だとしたら、最悪だ。だって、それはアスターがもう一度死んでしまうということに他ならないのだから。
なーんて。こんなの馬鹿馬鹿しい妄想だ。そもそもアスターに出会ってさえいないのだ。そんなことあるわけない。前世なんて馬鹿らしいのだから。
だけれど、アスターのご主人様であるリンドウは、私が記憶を持っていることを疑うことなく声をかけてきた。まるで、昨日も会ったかのように話しかけられた時は面食らってしまった程だ。
確かに、顔は覚えていた。もちろん名前だって。けれど、初対面感覚が抜けなくて、出会ってばかりの頃は、リンドウと会う度、戸惑った。まあそれも、少し一緒に過ごすうちに馬鹿らしくなったのだけれど。
リンドウは私の態度を気にすることなく自分勝手に振る舞う。その姿を見ているとあの頃の感覚が蘇った。だから、すぐに気を使う必要を感じなくなった。
リンドウはあの頃から周りを振り回す天才だった。けれど、領主の子息だったから誰も逆らえなかった。リンドウはそれが大層つまらなかったらしい。だから、文句を呈する私と、進んでついて回るアスターを気に入って友と呼んだ。
あの頃、不敬だと言われるような調子で話していたのだから、畏まるなんて今更だ。
だから、私達はあの頃のようになんでも話せる友人になったのだ。
◆◆◆
リンドウは前世と同じようにお金持ちで、腹立たしいことに顔が整っていた。そんなリンドウと親しくしていると、周りから妬み嫉みが私に向いて、大変面倒だった。さらに、リンドウは私を女避けに使っているようで、リンドウのことが好きな子とその友人に嫌がらせを受けることもしばしばだった。まあ、しっかりとやり返すのだけれど。
私は、所謂美人と言われる類の見た目をしている。そして、性格が悪く、キツく見える。だから、リンドウは私を矢面に立たせて、女を捌いていた。そんな面倒なことに巻き込まれるのは腹立たしかったけれど、腐れ縁であるし、昔も似たようなものだったので残念ながら慣れている。腰掛けの婚約者をしていたこともあるくらいだし。それに、私自身も困り事や面倒事は昔からリンドウに押し付けていたので、お互い様だと思うようにしていたのだけれど…。
高校生になって少し経った頃、不都合が起きた。死んでしまった彼、アスターが転校して来たのだ。
信じられなかった。白昼夢を見ているようなそんな感覚に陥って昔と今の境目が曖昧になる。今は一体いつなのか。今いるこの世界は現実なのか。わからなくてぼんやりとすることが多かった。
思えばあの頃の私はかなり危うかった。その自覚は朧げにあって、アスター本人に声をかけずにいられたのが救いだった。
そんな不安定な私をリンドウは外から眺めて愉しんでいた。本当に悪趣味な奴だ。助けてくれてもいいだろうに。
まったく、どうしてリンドウとアスターが親しかったのだろう。互いに遠慮というものが微塵もなかったのは見ていて知っていたけれど、リンドウのように性格の悪い男を親友と呼んだアスターがいまだに謎だった。
◆◆◆
アスターこと紫苑は前世のことを覚えていないようだった。それだけでなく、私のことをあの馬鹿の恋人だと思っている。そして、あの馬鹿は聞かれていないから、と否定しない。そんな微妙な状態で2人は仲良くなるのだから、腹が立つ。私のことは気にもしないくせに、なんて。
こんな思考、馬鹿馬鹿しいにも程ある。昔のことに引きずられるなんて彼に失礼だ。
だから、私は2人に関わることをやめた。まっさらな視点で彼を見ることが出来ない。昔と比べて、違う部分を見つけては落胆する。そんな自分が彼と関わるなんて烏滸がましい。それに、私自身も赤の他人のように振る舞うのが苦痛だった。
そもそも、今の私はそこまで前世に未練があったわけではないのだ。あの馬鹿、リンドウに出会わなければ、無かったことにして生きただろう。どれだけあの夢が続こうとも。だって、誰も知らない世界の記憶にしがみつくのは虚しいだけだ。孤独感を感じるだけなのだ。ならば、それを切り捨てるのが正しい判断だ。
私はリアリストだ。自身の記憶だけでしか証明できない出来事を、事実だと認めるなんてとんでもない。それが本当にあったことだったとしても自分しか知らないのなら妄想と大差ないだろう。まあ、そんな考えリンドウに会った時点で意味がなくなったし、アスターと出会った時点で妄想だなんて思えなくなってしまったけれど。
まあ、でも。馬鹿馬鹿しいと思うのは変わらない。それはあくまで過去の出来事で、今生きている自分は全く別の人間だ。………そうはいっても、過去に引きずられてしまうからやりきれないのだけれど。
だって、いつだって思い出す。彼を見るたびに、死ぬ間際の血濡れた姿が脳裏に浮かぶ。それを苦しくは思うけれど、別にそれだけだ。そう言い聞かせている。
希いたくなるなんてそんなの嘘だ。
◆◆◆
リンドウは私が避けても気にしていないようだった。ただ、遠くから見て私をせせら笑っている。その姿はあの頃と全く変わっていない。まったく嫌味なヤツだ。私はリンドウのそういうところが大嫌いだった。だって、アイツは全部わかっているのだ。
私がアスターを許せないと思っていることも。紫苑にアスターを重ねて苛立ちと苦しみに雁字搦めにされていることも。人心掌握に長けたリンドウは全部わかっている。だから、友人だと思おうとも、リンドウのことが嫌いだ。それに。
───どうしたってアスターを連れていってしまう
リンドウのために命を投げ打つアスターを見てしまっているだけに、今でも時々リンドウに殺意を覚える。
今生でもきっとそうなのだろう。彼はリンドウに献身的に仕えるはずだ。そうして、私のことなんて省みることなく、置いていくのだ。
ああ、ダメだ。また前世に引っ張られた考えに取り憑かれている。彼はアスターじゃないのに。どうして、私は近づけないのだろう。彼と関わるのが怖いと思うのだろう。どうして、彼を恋願ってしまうのだろう。
全く関わってなんかいないのに、彼のことを思うたび、胸が苦しくて息ができなくなる。
ああ、だから私はやっぱり彼には近づけない。近づいてはいけないのだ。
◆◆◆
それは突然だった。
私は。私はっ……。私は彼が車にはねられるところを見てしまった。
私とリンドウは家が近い。けれど、学校が終わった後、まっすぐ家に帰る私と、そのまま遊びに行くリンドウとでは帰り道で会うことなんてまあ無い。なのに、その日は何故か私の前をリンドウと彼が歩いていた。今までそんなことなかったからすっかり油断していた。
最悪だと思いながら、距離を保って歩いていたけれど、信号につかまってこのままだと後ろに並ばなければいけない。どうしようかと歩調を緩めて考えていると、いきなり彼がリンドウを突き飛ばした。そして、瞬きする間もなく、彼は車に跳ね飛ばされた。
頭が真っ白になった。何が起こったか理解したくない頭が意識を刈り取ろうとしている。きっと自己防衛なのだろう。けれど。
───自己防衛?そんなの求めてない!!!
無理矢理意識をハッキリさせて、私は走り出した。そして、倒れている彼を見て思わずしがみつく。これじゃ、あの時の焼き増しじゃないか。恐れたことが現実になるなんてそんなの冗談じゃない。
「もう嫌よ!置いていかないで!アスター!死なないで!」
涙がこぼれ落ちる中、私は叫んだ。また、私の大事な人の命が消えていく。誰かを庇って死ぬなんて名誉ある死だ、とか言い出しそうなこの馬鹿が死んでしまう。
そんなのもう耐えられない。
「またアイツのために命を使うなんて…そんなの!そんなの許さない!だから、ねえ目を開けてよ…アスター」
どれだけ声をかけても返事はない。息はある。けれど、死んでしまったように見える。そのことに寒気を感じた。
ああ、血なんて流れていないのに、血溜まりを幻視する。そして、冷たくなっていく体が脳裏に浮かんだ。絶望が私を蝕んでいく。
死んでしまう運命なのだろうか。誰かのために身を投げ打ってしまうことを止めることは出来ないのだろうか。もしそんな世界だというなら、生まれ変わった意味なんてない。神に乞い願った意味なんてない。これじゃ意味がないのに。
「これじゃもう一度会えたって意味ないじゃないっ!生きてなきゃっ!ダメよ!どうしてっ…どうしてなのよぉ…」
アスターは応えない。目を開けない。あの時よりも酷い終わりだ。
私はアスターが死にゆく姿を見ていることしかできないのだろうか。涙が止まらない。私はもうダメだ。
───世界が終わる音が聞こえた
◆◆◆
気づけば私は自分の家にいた。何故こんなところにいるのかわからない。私はアスターに縋り付いていたのではなかったか。イマイチ現状が把握できないままぼんやりとしていると、スマホが鳴り出した。
何もする気がおきなくて、動かず放置していたのだけれど、鳴り止む気配がない。仕方なく電話に出た。相手はリンドウだった。
「……何」
「お前、ちょっと出てこいよ」
「はあ?」
「あ、心配しなくてもアイツは無事だぜ。だから、出てこいよ」
「………」
リンドウの言葉にぐっと息を止めた。そうしないと泣き出してしまいそうだった。
良かった、生きている。アスターは生きている。アスターは死ぬ運命なんかじゃなかった。
けれど、頭には動かないアスターの姿しか浮かばない。だから、安堵しきれない。
あの時の恐怖が蘇ってきて、ガタガタと体が震えだす。それを誤魔化したくて、ゆっくりと息を吐いた。その息も震えていて、それはリンドウにも伝わってしまっているだろう。
この男に弱みは見せたくない。そうしなければ対等ではなくなってしまう。庇護すべき相手にはなりたくない。けれど、恐怖を押し殺せない。
私はどうにかして泣きそうなのを必死で押し留めた。
「はぁ…いいから出てこいって」
「…嫌よ」
「我儘言うなって」
「嫌なものは嫌」
「もう家の前にいんだよ。早く出てこいよ」
言い置いて電話は切られた。音が鳴らなくなったスマホを見つめる。
行かなくてもきっとリンドウは怒らない。文句は言われるだろうけど、最終的に仕方がないと溜息をついて許してくれるだろう。
リンドウはいい奴だ。悪趣味で性格も悪いけれど、度量がある。だって、私が嫌いな、他人のために自身を投げ捨てるような生き方をしていた一人だから。だから、私がどんなに不利益を与えたって怒らない。
私はそんなリンドウを無視するという選択肢を取れなかった。
外に出ると、リンドウがニヤリと笑って「遅い」と言った。本気で言っていないことはわかっているので「うるさい」と返しておいた。
リンドウはしっかりと、私の表情を確認してから、何も言わずに歩き出した。
「どこに行くの」
「んー、ナイショ」
揶揄うような口調で話すリンドウはいやにご機嫌だ。それがなんだか不気味だった。
「なんでそんなに楽しそうなの」
「行けばわかるよ」
リンドウは何も答える気がないようだ。仕方がないので、私は黙って着いていくことにした。
少し前を歩くリンドウの背中を見つめる。昔はここにアスターがいて、リンドウに構われている姿を私は呆れたように見ていた。けれど、今はリンドウ一人だ。
それが、寂しくて、悲しくて、怖い。
私は完全に前世の私に成り下がっていた。いや、そもそも、リンドウ以外に親しい人を作らず生きている時点で、そうだったのかもしれない。いずれにせよ、自覚してしまうと今まで平気だったものが、途端に苦しくなる。
覚えていないアスターも、それを許容しているリンドウも、二人と一緒にいられない私も、全てが苦しくて仕方がない。
負の感情を頭の中で煮詰めていると、リンドウから声がかかる。
「着いたぞ」
そこは、病院だった。多分、アスターが入院しているところだ。
「見舞い行ってこいよ」
そう言って、固まってしまった私の手首を掴んで、リンドウが歩きだす。私は呆然としていて、されるがままに着いていった。
正気に戻ったのは、アスターの病室の前についた時だった。けれど、私はどうしていいかわからなくて、動けなかった。黙ったまま突っ立っていると、リンドウが勝手にノックして扉を開けて、私を押し込んでしまった。しかも、リンドウ自身は中に入らずに扉を閉めた。
「リンドウまた来たの?そんな来なくても大丈夫だよ?」
上体を起こしてベッドの上にいるアスターは、どうやらリンドウが来たと思ったようだった。
私は動いているアスターを見て頭が真っ白になった。何も考えられなくて、ただただアスターを凝視する。
返事がないのを不思議に思ったのだろうアスターがこちらを見て、目を見開いた。その後、愛おしいモノを見るように優しく笑った。
「ルシナちゃん…今は雪花ちゃんって呼んだ方がいいのかな?」
「アス、ター………?」
私は根っこが生えたようにそこから動けない。ただ、アスターに名前を呼ばれたことが信じられなくて、息が苦しい。
「こっちにおいでよ」
そう言われて初めて体を動かすことができた。私は恐る恐るアスターに向かって歩く。無言でベッドの横まできた私の腕をアスターは力を入れて引いた。怪我をしているはずなのに大丈夫なのかと、顔を青ざめながら倒れ込んだ私をアスターは抱きしめた。
「怖い思いさせてごめんね」
そんなことを言われてしまえばもうダメで、私の目から涙が溢れ出した。悲しいのか、嬉しいのか、それとも怖いのか。私の感情はぐちゃぐちゃで、もうわからない。ただただアスターの胸で泣きじゃくった。アスターは「大丈夫だよ」と囁きながら、私の頭をゆっくりと撫でてくれた。
まるで現実感がなかった。夢だと言われた方がしっくりくる。だから、泣き止んでそばにある椅子に座った後、私はアスターの服の裾を掴んで離さなかった。離せなかった。離せば、この現実は消えてしまうんじゃないかと怖かった。そんな私にアスターは苦笑していたけれど、好きにさせてくれた。
「ねぇ、ルシナちゃん。怒った顔見せてよ」
少しして、アスターがそんなことを言った。私が余程情けない顔をしていたのだろう。けれど、その言葉はあの時を彷彿とさせて、苦しくなる。
「いやよ」
震える声でそう言った。このままでは、泣いてしまいそうな気がして眉に力をこめる。
「ごめんね」
なんの謝罪だろう。いや、別になんだっていいけれど、謝られても困る。過去のことは許せないし、今のことは生きているだけで、それだけでいいと思っている。
「名前、どっちで呼んで欲しい?」
唐突に話が飛んだ。私の気を悲しいことから逸らすためだろう。アスターらしいと思う。もう、それだけで泣けてくる。
けれど、アスターは私がどれだけ辛かったのか、さっぱりわかっていなさそうだ。
「どっちでもいいわ。それより大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。強く頭をぶつけて脳震盪を起こしただけだから。それで雪花ちゃんのことを思い出せたんだからラッキーだよ」
馬鹿なこと言うな、と怒鳴ってやりたい。事故をしてラッキーなんて嘘でも言ってほしくない。だって、打ちどころが悪かったら死んでいたかもしれないのだ。たまたま無事だっただけで、何もいいことなんてない。けれど、アスター…紫苑は本気でそう思っているようだった。最悪だ。そんなだから、私はあの頃いつも怒っていたのだ。
人の気も知らないでと思うけれど、事故のことを蒸し返して思い出すのが怖くて何も言えなかった。情けないけれど、紫苑が傷つくことは私にとってトラウマもいいところだ。
だから結局釘を刺すことくらいしかできない。効果があるかどうかは全くわからないけれど。
「アンタが死んだら今度はすぐに後追いするから。覚えておいて」
じゃあ帰るから、と紫苑の返事を聞かずに私は病室から出た。心臓が今にも暴れ出しそうなほど、脈打っている。震える手を握りしめながら、私はその場で座り込んだ。
ゆっくり大きく息をしていると、誰かが目の前に立った。顔を上げるとそこにはリンドウがいた。ずっと待っていてくれたらしい。
優しくしてほしくない時ほど、優しくしてくれるのは、わざとなのだろうか。今、話せば思ってもないことを口にしそうだ。ありもしない恨み言とか。だから、今は放っておいて欲しい。リンドウに苦しい気持ちをぶつけたくはないのだ。
けれど、リンドウが私の言うことを聞いてくれるはずもなく、私は近くの喫茶店に連行された。
「どうよ。久々のアスターは」
「どうもこうもないわよ。アスターも紫苑も大した違いはないでしょ」
「違いならあるだろ。昔の記憶があるか、ないかだ」
そう言われて口籠る。確かにそうだ。けれど、記憶があろうが、なかろうが、人の根本は変わらない。だから、違いはないはずだ。
「だって、思い出してくれてよかっただろ。アイツがいなきゃお前ダメになるじゃん」
「そんなこと…」
そんなことない、とは言い切れなかった。多少自覚がある。いつも前世の記憶が自分のものではないと自己暗示をかけて誤魔化していたから平気だっただけで、アスターのいない世界では息ができない。
「俺、お前が覚えてて嬉しかったんだよ。孤独は誰だって嫌だろ?けどさ、お前が覚えててアイツが覚えてないなんて酷すぎだろ。逆ならまだしもお前だけなんて無理じゃん。アイツが死んでからのお前見てられなかったからな」
思い出すように言われて、ぼんやりとアスターが死んでからのことを思い出す。半透明な膜がかかったようにぼんやりとしていて、鮮明に思い出すことができなかった。
「寝食削って、神に祈り続けてたんだぜ、お前。神なんか信じてないくせにな。しまいにゃ、神に命を捧げるなんてメモ残して自殺するんだから、やってらんねぇよ」
身を削りすぎ、と苦い顔をしてリンドウは言う。そんな表情を見るのはかなり珍しい。あの頃の私は、かなり心配をかけたのだろう。けれど、その言葉には納得できなかった。
「身を削りすぎなんてアンタに言われたくないわ」
「はあ?俺はちゃんと最後まで生きたぞ。死ねずに生き残ったからな」
「領民のためだけに行動してたなら、生きたって言えないわよ。それは単なる歯車よ。どうせ、私たちが死んでから心を許せる相手なんて出来なかったんでしょう。だから、わざと人らしく生きなかった。聞かなくたってわかるわ」
鼻で嗤いながら言ってやる。リンドウも紫苑ももっと自分のために生きるべきなのだ。
「それがわかるなら、なんでお前死んだんだよ。いや、マジで、1人で生きるとかほんとクソだからな」
軽口のように言われて、けれど、本音だろうから、少し申し訳なく思う。あの時は、リンドウを置いていくことなんて微塵も頭になかった。ただ、アスターがいない絶望に支配されていた。
「悪かったわよ。もし、今度そんなことがあったら、今度は傷の舐め合いしてあげる」
そんなこともう起こらないことを願いながら、そう言った。リンドウは、約束だからな、と念を押し、アイツにも言っとけよ、と馬鹿にしたように笑った。
◆◆◆
紫苑が退院してから、私達は3人で行動するようになった。それはひどくしっくりきて、懐かしい感覚を呼び起こす。昔と同じ光景が、とても幸せで、ここでずっと揺蕩っていたいと思った。
それはきっと私だけじゃなくて、特に1人残されたリンドウはその感情が強かったと思う。
だって、見たことないほど素直な表情でリンドウが笑っているのだから。私たちの間では悪どい笑みを浮かべることの方が多かったリンドウが、嬉しそうに笑っているのだ。
紫苑はその姿を見て、愛おしそうにリンドウを見ていた。きっと私も似たような表情をしているだろう。
私達は3人でいなければいけない。3人いてようやく均衡が保たれる。2人では近づきすぎて依存まっしぐらだ。だから、3人揃ってようやく、私達は肩の力を抜くことができる。
それを思うと、リンドウに、紫苑が死んだら傷の舐め合いをしてあげる、と言ったのを取り消すべきかもしれない。1人が欠けたら2人で後追いする方が正しいことのように思える。まあ、そんなことを思っている時点で、互いに依存しているし、間違っているのかもしれないけれど、それが私達の正しい在り方だった。
今世でようやく私は互いがなくてはならないものだと納得できた。まあ、あの頃はこんな自分の気持ちに気づかなかったし、気づいたとしても認めることはできなかっただろう。崩れ去ってからじゃないとわからないこともある。人間は馬鹿だから。
だから、今度は間違わない。自己犠牲なんてさせない。あの頃は、2人にしかわからないことがたくさんあって、私には手出しできない出来事が2人を傷つけていったけれど、今度はそんなことさせない。なんでも首を突っ込んでやる。
それに、素直にならなければいけないと思う。あの頃の後悔は、みすみす死なせたことと、心を伝えなかったことだ。それはアスターに対してだけじゃなくて、リンドウに対しても言えることだった。
思えば私は2人に甘えていた。言わなくったってなんとなく伝わるリンドウに、なんでも許してくれるアスター。そんな2人だから、本心を口にしなくてもやってこれてしまった。
私はよく、リンドウに「嫌い」だと言い放って、アスターには「死ね」と悪態をついた。それらは揶揄われて苛立ったが故の言葉で、本心でないことは2人とも理解してくれてはいたけれど、決して傷つかないわけじゃない。今更それを謝っても、と思うけれど、それでもちゃんと2人のことが大切なのだと伝えなければいけないと思った。特に、置いていったリンドウにはちゃんと謝らなければいけない。非常に嫌だけれど。
それが、これからまた3人で生きていくための私のケジメだ。
それに…、と思う。私たちの間にはまだ少し距離がある。あの頃よりお互いの心が遠いと感じる。私の心を曝け出すことで、それをどうにか出来るんじゃないか、なんて馬鹿みたいな事を思っている。
「ちょっといい?」
昼休みの屋上で、私は2人と一緒にいた。紫苑が退院してからはもうずっとここで、昼食を取っていた。
「なんだよ」
私のらしくない声かけに、リンドウが訝しげにこちらを見ている。紫苑は不思議そうに首を傾げていた。
「2人に言いたいことがあるの」
そう言うと、2人は顔を見合わせて、それから愉快そうに笑った。どんな面白いことが始まるのだろうと思っているのが丸わかりな2人に舌打ちをしそうになって、それを無理矢理飲み込んだ。
「一回しか言わないし、笑ったら呪うから」
そう言って2人を睨みつけると、リンドウは肩をすくめ、紫苑はニッコリと笑った。そんな2人に、少し息を吐いてから口を開く。
「これは私の懺悔。だから、聞かなかったことにしてくれても良いから。いや、聞いたら忘れて。絶対に忘れて」
「勿体ぶってないで早く話せよ」
「そーだよ!雪花ちゃんの話早く聞きたいなぁ!」
またニヤニヤし出した2人に、今度は我慢しきれずに舌打ちが漏れる。けれど、言うと決めて来たのだから、覚悟を決めて話さなければ。
キッとリンドウを睨みつけて、私は一つ深呼吸した。
「昔、アンタによく嫌いって言ったわ。今更だけど、それ撤回する」
私の言葉にリンドウは目が点になっている。きっと、はあ?何の話してんの?と思っているに違いない。そんなリンドウの反応を無視して続ける。
「きっとアスターと出会ってなければ、あのまま婚約者になってアンタと結婚してたと思う。そんな人生を最期まで歩んだなら、後悔せずに生きたって胸を張ったわ。人生のパートナーがアンタならきっと幸せだろうと思えるくらいにリンドウのこと好きよ」
リンドウは私の言葉を聞いているのか、いないのか、固まって動かない。隣の紫苑は口をポカンと開けている。
「だから、あの時アンタを置いていったこと後悔してる。誘ったってきっとアンタは領民の事が気になって来なかっただろうけど、それでも一緒に死のうって、アスターを追いかけようって、声をかければよかった。だって、アンタが一番寂しさに弱かったのに。そのことは私が一番よく知ってたはずなのに、私紫苑の記憶が戻るまで忘れてたの。ごめんなさい。リンドウだって大事なのに、私馬鹿だから…ごめん」
私はそこまで言って唇を噛んだ。
いくら言葉を重ねても足りないような気がして、けれど上手く言葉が出てこない。
どうしてだろう。口に出した途端、酷く薄っぺらいもののように感じるのは。きっと、上手く伝えられていない。
幾ばくかの沈黙の後、いつの間にか下げていた視線をリンドウに戻す。すぐに返事をしそうなリンドウからの反応がなくて、不思議で仕方がない。
視界に入ったリンドウは微動だにせず、涙を流していた。
「…リンドウ?」
「…っ」
私の呼びかけで、自分が泣いていることに気がついたらしいリンドウは、何を思ったか私を抱きしめて肩に顔を埋めた。どうやら泣き顔を見られたくなかったようだ。
困った結果とりあえず背中を撫でてみる。笑われる想像はしても泣かれる想像はしていなかったので、どうして良いかわからない。
「お前…ほんっと今更すぎんだろ」
リンドウは笑おうとして、失敗したのだろう声音で小さく呟いた。吐き出される息は震えていて、涙が止まっていないことを表していた。
「…………俺さ。死ぬまでお前らと一緒にいると思ってたんだ。それ以外の未来を想像したことなかった。だから、お前らがいなくなった世界は俺にとって地獄だった。なんでお前らいねぇのっていっつも思うんだ。毎日、横を向いてアスターがいなくて、振り返ってルシナがいなくて、けどさ、ふとした瞬間アスターの弾んだ声が、ルシナの呆れた声が、聞こえるんだ。俺、おかしくなりそうで、そんな現実見たくなくて馬車馬のように働いた」
そんなリンドウの姿は簡単に想像できる。そして、それがリンドウにとって苦痛でしかなかったこともよくわかる。
今はこんなに心を曝け出しているけれど、本来リンドウは他人に弱さを見せるのが大嫌いだ。あの頃リンドウの本心なんて殆ど聞いた覚えはないし、言ったとしても本心だとはわからないようにたくさんの冗談に混ぜ込んで口に出していただろう。
本当なら、依存することすら許し難いはずだ。だって、リンドウは誰かに頼ることを良しとしない。その癖、寂しがり屋で、1人に耐えられなくて私とアスターなんてお供を作ってしまったことも。
「だから、前雪花が言ってたみたいに、俺生きてなかったよ。お前らが死んで上手く生きられなかったよ。お前らがいないとさ、俺………。けど、きっと誘われても死ねなかった。辿った道はきっと一緒だった。直系は俺しかいなかったから領民を捨てる道は選べなかったし、どっちにしろ選ばなかったと思う。だから……。だから、良いよ雪花。許してやるよ。お前が今そう思ってくれるだけで、あの頃の俺は報われるよ。だから、お前も泣くな」
そう言われて初めて自分も泣いていることに気がついた。どうしてだろう。私が泣くところでは決してないはずなのに。
何故だか、リンドウの尊大な言葉が胸を締め付ける。
「俺、お前が泣いてんの苦手なんだよ。昔っから。泣くくらいなら悪態ついてる方がまだマシだ。笑えとは言わねぇから、そんな顔すんな」
私を抱きしめたままだから、見えないはずなのにそんなことを言われて顔が歪む。私のことなんてお見通しとでも言いたいのだろうか。
ムッとして、いつものようにツンケンした言葉が出てくる。
「泣いてないわよ!」
リンドウに対する懺悔はここまでだ。
「へーへー、そうですかぁ。…あ、一個訂正するけど、俺別に寂しがり屋じゃねぇからな!」
リンドウの腕から解放されたと思ったら、指を刺されてそんなことを言われる。
目元は赤いけれど、リンドウは通常運転に戻ったようだ。さっきまでのしおらしさはどこにもない。それにホッとしていると、紫苑がリンドウに抱きついて泣いている。「ごめんねぇ」としがみつく紫苑にリンドウは苦い顔をしてポンポンと背中を叩いている。らしくない2人の姿が微笑ましくて、こっそりと笑った。
そこで、ふと、そういえば、と思う。私は紫苑が本当に泣いているのを今初めて見た。あの頃の紫苑は涙腺が凍っているのだと笑って、悲しい表情をしても決して泣かなかった。きっと紫苑の言葉の通り、悲しいという心が凍ってしまっていたのだろう。
あの頃の紫苑は孤児だった。詳しく聞いたことはないけれど、リンドウと出会うまでの紫苑は相当酷い生活状況だったらしい。殺伐とした世界で生きてきた紫苑は、後ろ暗い事なら何でもやってきた。殺しも含めて、思い当たる悪い事は全てやったことがあるんじゃないか、とはリンドウの言だ。
けれど、その辺りの話を私は知らない。私には話してくれなかった。尋ねても、ただ少し悲しそうに笑って「秘密」と口に人差し指を当てるばかりだった。その声があまりにも静かで、紫苑らしくなくて私はそれ以上聞けなかった。深く知るのが怖かった。きっと私はキツイ言葉で紫苑を傷つけてしまうから。
だから、案外私がアスターについて知っていることは少ない。初めて見た時は単なる優男だと思っていたくらいだし、アスターが深く踏み込まれる事を嫌った。ただ、アスターがリンドウと仲良くなった時点で腹に一物を抱えていることは想像に難くなかったし、紫苑を観察しているとすぐに想像が確信に変わった。紫苑は誰とでも仲良く話すけれど、その表情は綺麗に綺麗に作り上げられたものだった。私から見て、紫苑の顔はあまりにもリンドウと話す時と違っていた。
リンドウに対する表情が作られたものだとは思わなかった。リンドウがそばに置いた時点でリンドウにとって信用たる人間だということだから、リンドウに心を許さない相手なわけがない。なんなら紫苑を見ていると、リンドウ以外には心を許していないように見えた。決まった相手にしか心を許さない姿はまるでリンドウを見ているかのようだった。似ている2人だから、互い側にいることを許容できたのかもしれない。
そんな他人に心を開かない紫苑だったけれど、何故だか私にも素の姿を見せていた。私がリンドウの側にいたからかもしれないが、それが不思議で仕方がなかった。
そういえば、紫苑は初めから私に対して警戒心を持ってなかった。逆に私の方が警戒していたくらいだ。
そもそも、人を信用して信頼することが基本的にないリンドウが誰かを選ぶなんて天変地異の前触れと言って差し支えない。なのに、選んだということは、余程信頼出来る何かがあるということで。けれど、それが私にとって信用たる相手であるという根拠にはならない。
確かに、あの頃、いきなり現れた紫苑がリンドウのことを慕っているのを見て、安堵する気持ちはあった。私は単なる腐れ縁でしかないし、リンドウが友と呼べる相手が出来るなんて一生ないと思っていたから、そう呼べる相手が出来て、1人じゃなくなって本当に良かったと思った。あの時、脱ぼっちおめでとう、なんてふざけたことを考えたりもしていた。
けれど、私がリンドウの腐れ縁だからといって私に対して初めから信頼度MAXなのは意味がわからない。まるで昔からの友人であるかのような態度は、私を疑わしく思わせるのに十分だった。
私もリンドウと同じく、元来他人を寄せ付けない排他的な人間だ。だから、人懐っこいアスターが理解できなかった。
いつもなら、そう思った時点で距離をとって関わらないようにする。私の家もリンドウほどではないけれど、有名な家で私に取り入って得することはたくさんある。だから、君子危うきに近寄らず、とよくわからない人間には近づかないのだ。
けれど、紫苑に限ってはそうしなかった。普段なら疑わしい人間への興味はすぐになくなるのだけれど、紫苑のことは気になった。リンドウの側にいるからだ、とか理由はいくらでもつけられるけれど、違っていることはわかりきっている。理由はもっと自分本位なものだ。
きっと私は初めて見た時からアスターに惹かれていた。気になってずっと遠くから見てしまうくらいアスターのことを知りたかった。
どうして好きになったかなんてわからない。もしかしたら、一目惚れの類なのかもしれない。初めて見た時から、何故かアスターがキラキラして見えた。リンドウに向ける屈託のない表情が頭から離れなかった。それは、暗いものを腹に抱えていると知ってからも変わらなかった。というか、それはリンドウも私も似たようなものだから別に気にならない。ただ、そんな状態でも誰かのために生きようと思えるアスターが眩しかった。その生き方が美しいと感じた。感じてしまった。それは間違いだったのに。
だって、そんな心の所為でアスターは死んでしまったのだから。それは何があっても許せない選択だ。周りの人間全員を苦しめる選択なのに。アスターは、きっと微塵も後悔していない。それが、死ぬほど辛かった。
だから、死ぬという選択をやめさせられなかった自分を悔やんで、それを迷いなく選んだアスターを恨んでいる。今から紫苑に言う言葉は、懺悔よりも糾弾だ。
そう、私は今から紫苑を責めたてる。この気持ちはきっとリンドウにも理解してもらえるだろう。
相変わらずリンドウを抱きしめている紫苑を私は睨みつけた。
「紫苑、いいかしら」
私の声で紫苑はリンドウから体を離し、こちらに向き直った。何を言われるのかわかっているのか、いないのか、眉を下げて困ったように笑っている。
「アンタにはよく死ねって言ったわ。あの時ほどその言葉を後悔したことはない。あれが言霊になってアンタが死んだんじゃないかってずっと後悔してる」
私の言葉に紫苑は「そんなことないよ」と安心させるように口元を緩めた。隣にいるリンドウはそんな紫苑をみて、うわぁ、と言いたげな表情で眉を顰めている。
「じゃあ、なんで死んだの?あの時、進んで死にに行ったでしょ。アンタがしなきゃいけない事じゃなかったって知ってるんだから。大人しくリンドウのとこにいればよかったのに自分から囮引き受けたって!別にアンタじゃなくても良かったじゃない!」
人でなしなことを言っているのはわかっている。紫苑がやらなきゃ他の人が死んでいたのだろう。けれど、それがどうした。身近な人が死ななきゃそれでいい、なんてみんな思っている感情だ。特に私たちは世界が3人で閉じているから他の人よりずっとそれを強く感じている。
それを示すように隣のリンドウが大きく頷いている。きっとその時必死にとめたのだろう。
「でも、俺が行かなきゃリンドウが死んでたかもしれないんだよ?」
「だったら、2人で死ねばよかったのよ!そうすれば、リンドウが残されて苦しむことなんてなかったわ!」
駄々をこねる幼子を見るような目で見られて腹が立つ。それは自分の行いが正解だったと思っているから出来る目だった。
どうしてわかってくれないのだろう。紫苑1人が死んで救われる世界なんてそんなものいらないのだ。私もリンドウも苦しむようなそんな世界、早々に壊れてしまえばいいのに。それを紫苑はわかってくれない。
胸ぐらを掴んで、ふざけるな、と叫んでしまいたい。けれど、それをしてしまえば会話を放棄することになりそうで、唇を噛み締めて心を抑える。そんなことをしていたら、リンドウが紫苑の頭を叩いていた。
「お前なぁ…。いい加減自分がどんだけ迷惑かけたか理解しろよ。俺もコイツもお前が死んでからの人生最悪だったんたぞ?大体、想像したらわかるだろ。お前の世界から俺かアイツが欠けたら生きていけんのかよ」
ぼやくようにリンドウは言った。その言葉に紫苑は口を尖らせる。
「それとこれとは別じゃんか〜」
「別なわけないでしょ!アンタ馬鹿なの?残された方の身になってよ!」
私の言葉に「え〜」なんて、納得行かなそうにしている紫苑に頭が痛くなる。
どうして伝わらないのだろう。どうして自分を大切に生きてくれなかったのだろう。どうしてこんなに酷い人を大切に想ってしまったのだろう。
苦しくて涙が出る。ダメだ。嗚咽が出そうなのを無理やり押し込めて、紫苑を睨みつける。もう意地だった。涙を流す姿も見られたくなかったけれど、それよりも目を逸らして弱いところを見られる方が嫌だった。
「はぁ…。雪花のこと泣かすなよ。泣き顔見たくねぇって言ってんだろ」
「え、雪花ちゃん泣かないで!」
慌てたように私を見た紫苑は、オロオロとしながら、片手で私の手を取り、もう片方で頬に手を伸ばし涙を拭う。その手は僅かに震えていた。そんなに困っている紫苑は珍しい。
そういえば、紫苑の前で泣くのは初めてかもしれない。いや、病院で泣いたっけ。けれど、あれは再会の涙だし…ノーカンだろう。
「アンタのせいよ!ざまあみろ」
無理矢理口の端を上げて嗤ってやる。思った表情になっているかはわからないけれど、隣のリンドウが愉快そうな顔をしているから、上手くいっているのだろう。
「うぅ…」
「アンタが置いていくから悪いのよ。アンタが置いていくから私は…私は…」
止まっていなかった涙だけれど、そこまで言って、話せないほど溢れ落ちて来た。
「あわわ、泣かないでぇ雪花ちゃん!リンドウ俺どうしたらいいの!」
「お前の方が女泣き止ませるの上手いだろ」
「そんなこと言わないで!?俺、雪花ちゃん泣き止ませる方法なんて知らないよぉ」
あまりにも紫苑が情けない声を出すものだから、思わず笑ってしまった。あんなに止めどなく流れていた涙も止まっている。けれど、笑ってしまったことが癪で、無理矢理怒った顔を作った。
「そんな狼狽えるなら泣かさないでよ。アンタが泣かさなきゃ泣かないんだから」
私の言葉にリンドウがやる気なさそうに「そうだそうだー」と合いの手を入れる。若干楽しそうなそれが腹筋を刺激するけれど、何とか耐えた。
「俺が泣かさなきゃ雪花ちゃんは泣かないの?」
「っそうよ!アンタとリンドウのこと以外でなんてもう何年も泣いてないわよ!だから、アンタが」
続けようとしたけれど、目が潤んできて口を閉じる。涙腺が馬鹿になっているみたいだ。さっきまで笑うのを我慢していたくらいなのに。
「アンタが…」
声が震える。ダメだ。言葉を続けられない。落ち着きたくて、視線を下げて息を吸った。
「…俺が死ななきゃ雪花ちゃんは笑ってくれる?」
「そ、うよ。アンタが…。アンタがいるなら笑うわよ。泣きたいわけでも怒りたいわけでもないもの」
らしくなく、素直に真面目に答えた。そんな私の答えに紫苑はホッとしたように笑って、ギュッと私を抱きしめた。その後ろでリンドウが「そうだそうだー」とさっきみたいに、やる気なく、けれど若干楽しそうに言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「リンドウひどいよぉ!雰囲気ぶち壊しだよ!」
「俺の前でイチャついてんのが悪いんだろ」
リンドウはニヤニヤと笑って、私たちに茶々を入れる。その愉しげな姿に呆れた溜息が漏れる。
こういうところ、昔から変わらない。やっぱり、寂しがり屋で、構ってちゃんであってるじゃないか。
「リンドウだってさっきまで雪花ちゃんと抱き合ってたじゃん!」
紫苑はリンドウの言葉が不服なようで、頬を膨らませて怒ってますアピールをしている。紫苑がぶりっ子しているところを久々に見た。そういえば、あの頃はこんな風にいっつもふざけていたっけ。
「あ、嫉妬?リンドウさん焼いてるの〜?もうリンドウってばしょうがないな〜」
「ちっげぇよ!やめろ、こっちくんな!」
紫苑は煽るようにそう言ってから、ニヤリと悪い笑みを浮かべて、リンドウに飛びついた。リンドウは慌ててやめさせようとしたけれど、もう遅い。力一杯抱きしめられてもう逃げられない。そんなリンドウから、助けろという視線が向けられているけれど、そんなものは無視だ。それより、ほんと久々に見たな。こういうノリ。それがとても嬉しい。
ようやく私たちの日常が戻って来た。
前世なんて信じていなかった私があの頃の日常を望むなんて、想像もしていなかった。きっとこうなると教えられても信じなかっただろう。世の中何が起こるかは本当にわからない。昔の私ならその変化が許せなかっただろうけれど、今はよかったと思う。
これで今世は最期までみんなでいられる。きっと紫苑だって無理をしない。もちろんリンドウも。まあ、ここは無理をしたって死にはしない世界ではあるのだけれど、それでも死んでもいいやと思っているのと、いないのとでは全然違う。自分をどうでもいいと思っていたら死ななくていいところでも死んでしまう。あの頃のように、貧富の差が激しくて、荒んでいる土地で生活しているわけではないけれど、それは変わらないだろう。
だから、今、私は木漏れ日のように柔らかな気持ちを抱いていた。これほど穏やかな気持ちになるのは一体いつぶりだろう。楽しそうに戯れている2人を見て、無意識に頬が緩む。そこで、ふと気づいた。私は一番大切なことを伝えていない。
これは言っておかないと絶対に後悔する。いや、後悔したのだ。これは死に際ですら伝えられなかった言葉だけれど、今の温かな気持ちでなら素直に言える気がした。
「紫苑」
笑いながら名前を呼ぶなんていつ以来だろう。もしかしたら、そんなこと今まで一度もなかったかもしれない。それくらい、あの頃の私は紫苑に対して優しくできなかった。出来るほど余裕がなかったし、させてくれないくらい紫苑の生き方が向こう見ずだった。怒らなきゃやってられないくらいに。けれど、今初めて優しい気持ちで紫苑と向き合える。
「私、アンタのこと愛してるから」
生きてきた中で一番綺麗な笑顔で告げた言葉に、紫苑は固まってしまった。不快にさせたわけではないだろう。けれど、自分のらしくない言動に、紫苑の反応が怖くなって慌てて付け足す。
「はいじゃあ忘れろ!さっさと!全部!丸っと忘れろ!いいわね!」
「くくっ。忘れるわけねぇだろ。こんな面白いこと」
リンドウがお腹を押さえてプルプルと笑っている。そうそう、こういう奴だった。優しい人間だったような気がしていたけれど、そんなの錯覚だ。本性は他人を揶揄うのが大好きで悪趣味な男なのだ。
「え、あの………え?」
事態が良く飲み込めていないらしい紫苑は、視線を彷徨わせて困り果てている。どうやら私の気持ちを知らなかったらしい。人の機微に聡い紫苑が気づかないなんて不思議なこともあるものだ。あの頃、かなりあからさまだったはずなのに。
「ぶはっ、マ、マジか。お前…ふっ、はは、ははは」
ついに耐えきれなくなったらしいリンドウは声を出して笑い始めた。そして、「コイツ昔っからお前のこと好きなんだぜ?」と余計なことをニヤニヤと付け加える。別に想いを遂げたい訳ではないから、流せるなら流してしまいたかったのに、リンドウの所為でそれも無理になってしまった。
「…えぇぇぇ!?」
紫苑は両手を口に当てて大きな声で叫んだ。女子か。
ああ、そんなに驚かれると、少し悲しくなってくる。全力で驚かなければいけないほど、意外だろうか。私はそんなに紫苑に冷たかっただろうか。いや、冷たかったな。うん、冷たかった。ならこれは仕方がないことなのかもしれない。
はぁぁ、と頭に手を置いて溜息をつく。そうでもしないとやってられない。というかもうこの話終わりにしよう。ただの気持ちの吐露で、どうでもいい話なんだし。
会話を強制終了しようと言葉を選んでいると、衝撃の発言が耳に入って来た。
「俺はてっきりリンドウのことが好きなんだって…」
「言われてっけど?」
笑いを収める様子もなく愉しそうにリンドウは私を煽る。それに乗ることなく私は軽く頭を振って答える。
「ないでしょ。あるわけないわ」
もうなんだか疲れた。素直に話すなんてうん年ぶりで、気力を使い果たしている。
私の投げやりな返事にリンドウは「だってさ」なんて紫苑との会話の間に入っている。果てしなく無駄だ。
「えぇ…。ほんとに?」
「ホントホント。お前が大好きな雪花ちゃんはお前のことが大好きってわけだ。良かったな」
「………は?」
よくわからない言葉が聞こえた気がする。理解ができなくて思考がシャットダウンした。
「いやぁ、ホント良かったなぁ。元々雪花に会いたくて俺のとこまで来たんだもんな。粘り勝ちってやつ?良かった良かった」
「……なにそれ」
そんな言葉しか出なかった。というか、今の私はリンドウがありえないくらい愉しんでいるということしかわからなかった。
だって、リンドウの言葉はまるで紫苑が私のことを好きであるように聞こえるのだ。それはおかしい。
あの頃の紫苑は誰にだって優しかったし、女の子をお姫様のように扱っていた。けれど、私は紫苑にいつも揶揄うように絡まれていた。リンドウと一緒になって私を揶揄っている時は、酷く腹立たしくて、ついつい悪態をついていたのを昨日のことのように覚えている。そんな態度の紫苑が、嫌な態度しかとれなかった私を、好きになるはずがない。
「も〜!リンドウ!それ言わない約束だったじゃん!」
「そんなもん時効だろ。時効。大体、約束したのお前じゃねぇし。あれはアスターと約束したんであって、紫苑との約束じゃないからな」
リンドウはニヤニヤではなく、もはやニタニタとしか呼べないような嫌な笑顔を浮かべている。まるで悪魔の角が見えそうだ。秘密の暴露は悪魔の所業に違いないのだから。
紫苑はあわあわと慌てて、悪魔みたいなリンドウに縋っている。
紫苑は本当にリンドウが好きだなあ。仲がいいようで何よりだ。
「ほらほら、早く釈明しねえと、雪花に嫌われるぞ」
リンドウはベリッと紫苑を剥がして、私の方へずいっと紫苑を押し出した。
他人事のように2人を眺めていたので、いきなり目の前にやってきた紫苑を驚いて凝視してしまう。
「あ〜…はは。これキモチワルイから言いたくなかったんだけどなぁ…。あの時、リンドウと仲良くなったのって偶然じゃないんだ」
リンドウは私の視線を受けて徐に言葉を紡ぎ出した。柔らかい苦笑が貼り付いた顔は、叱られる前の子供のように見えた。
「雪花ちゃんってさ。小さい頃から街外れにあるボロボロの孤児院によく来てたでしょ?俺、あの辺で生きてたんだ。…って言っても孤児院にいたわけじゃないけどね。その辺の道で物乞いみたいに生きてた。孤児院っていっつも定員オーバーだったから入れなかったんだ。あの頃にはよくあったありふれた話だよ」
紫苑は内容とは反比例してとても穏やかで優しくて幸福そうに語る。それが少しだけ悲しかった。そして、あの頃、この話を聞き出せなかったことがやるせなくて、少し苦しい。
「でね、そんな劣悪な環境で生きていた子供の頃の俺は天使を見つけたんだ。孤児院に来る、美しい金髪を持った、いつも白い服を着ている俺と同じくらいの歳の女の子」
その光景を思い浮かべる。もちろん女の子視点でだ。
紫苑の言葉には覚えがあって、思い返せば確かに紫苑に似た子供が孤児院の周りにいたかもしれない。といっても鮮明に思い出せるわけではないけれど。
「きっと一目惚れだったんだ。その子が孤児院に来るのを毎日毎日待った。それだけが生き甲斐だった。けど、ある時気づいたんだ。このままじゃ、遠くないいつか、彼女に会えなくなるって。だから、どうにかして、彼女に近づこうと思った。近づけば死ぬまで彼女を見ていられるんじゃないかって。だから、街で仕事を探したし、頼まれたらなんでもやった。それでどうにかこうにかリンドウにお目通りが叶ったってわけさ」
紫苑は少し得意そうに唇をあげた。初めに浮かんでいた苦笑はどこにも見当たらず、そこにあるのはあの美しい日々を懐かしむ思いだけだった。
それを証明するように、紫苑は私ではなくどこか遠くを見ている。あの頃のことを思い出しているのだろう。
「それで、リンドウに『なんで俺に会いたかったんだ?』って聞かれて、この話したらすっごい爆笑されたんだ。酷いっしょ?しかも、婚約秒読みだとか言うんだよ。『お前の天使は俺と結婚するんだよ』って。でも、それを聞いて、俺笑ったんだ。リンドウには気味悪がられたけど、次期領主様と結婚なんて幸せが確約されるようなものじゃん。だから、嬉しかった。それをそのままリンドウに言ったら苦虫を噛み潰したようないやーな顔して『今日から俺の下僕な』って。ほんと意味わかんなかったなあ。お偉方の考えは下賎な民にはわからないなって」
わからないといいながら、紫苑はわからないという顔をしていなかった。チラリとリンドウに視線をやって嬉しそうにはにかんだ。
「けど、リンドウのおかげで俺は雪花ちゃんに会えたんだ。だから…ってわけでもないけど、俺はリンドウがすごく好きだし、恩を返す為なら死んでも良かったんだ」
「…そんなの」
「うん。もうわかったよ。そんなことしてリンドウが喜ばないことも、雪花ちゃんを泣かせることもちゃんとわかった。だから、これからは死んでもいいなんて思わない。ちゃんと2人と生きる」
紫苑のそんな言葉を聞いて涙が頬を伝う。泣くつもりなんかなかったのに。紫苑の選択への歓喜が私の胸を震わせて、熱いものを溢れさせる。止めようと目元に手をやるも、それをやんわりと止められて、そのまま抱きしめられる。
「雪花ちゃん。俺、一目見た時から雪花ちゃんのことが大好きなんだ」
それを聞いてしまえば、もう涙を止める手立てなんてない。胸が苦しくて苦しくて、泣いてさらに苦しくなって。無限ループだ。それをどうにかしようと嗚咽を飲み込むように息を止めてみてもあまり効果はなさそうだった。仕方がないからギュッと紫苑の体に回す腕に力を込める。
「やーっとくっついたかよ。お前らは俺に平伏して感謝すべきだかんな。…ほーんと昔から傍迷惑な奴らだよ」
ようやくあるべきところに収まった私たちに、リンドウがなんだかんだ嬉しそうに言う。呆れたように溜息をつきながらも笑っている。
こうやって、これからも3人で歳を重ねていきたい。
今度こそ3人で最期まで生きられるような予感がした。