第94章 帰路 ― 霧の森の守人たち
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
戦いを終えた森には、ようやく静けさが腰を下ろしていた。
焦げた樹皮の匂いが、湿った土の香りと混じり合い、鼻腔をくすぐる。
踏みしめるたびに、柔らかな地面がかすかに沈み、戦いの重さだけが、
まだ足元に残っていた。
空を覆っていた霧は薄く引き延ばされ、陽光が葉の隙間からこぼれ落ち、
森の奥まで淡く照らしている。
破壊と殺意に満ちていた場所が、ゆっくりと生きた森へ戻りつつあった。
ミナが前線を駆け回り、手を高く振る。
「止血班、こっち!傷は浅いけど、放っといたら化膿するわよ!」
その声に応じ、負傷者たちが次々と集まる。
焦りのない、だが迷いもない声だった。
リュシアは薬瓶を取り出し、淡く発光する液体を掌で揺らす。
「癒術班、前へ。
軽傷者から順に処置を進めて。深手は後でまとめて診るわ」
戦場は、すでに後始末の場へと変わっていた。
ロイは倒木を持ち上げ、仲間たちの無事を確認しながら、低く息を吐く。
「……思ったより、皆持ちこたえましたね」
ガロウが肩を回し、骨を鳴らしながら豪快に笑った。
「おう。死人が出なかったのは奇跡ダ。
……社長が、前に立ってくれたからこそだナ」
その言葉に、漣司は小さく頷き、森の奥へと視線を向けた。
そこに――
縄で拘束され、地面に座り込む一人の男がいた。
ザハード。
腕には応急処置の包帯が巻かれている。
だが、その瞳は濁っていない。
敗者のそれでありながら、折れてはいなかった。
漣司は静かに歩み寄る。
「……立てるか」
問いかけに、ザハードは肩を揺らし、かすかに息を吐いた。
「……ああ。みっともないが、まだ足は動くらしい」
自嘲を混ぜた声。だが、そこには挑発も虚勢もない。
「ラクリアまで同行してもらう」
「……ほう」
「お前のこれからを決めるのは、そこでだ」
一瞬。
ザハードの目が細められ、やがて小さな笑みが浮かんだ。
「……命乞いでもすると思ったか?」
「いや」
「それとも――本気で、生かすつもりか」
「殺すのは簡単だ」
漣司は、はっきりと言い切った。
「だが、それではこの森は救われない」
剣を振るわずとも、その声には、確かな重みがあった。
ザハードは視線を伏せ、地面を見つめる。
長い沈黙の末、低く呟く。
「……奪うことでしか、生き方を知らなかった」
「だが――守れと言われる日が来るとはな」
漣司は答えない。ただ、その沈黙こそが、選択を委ねている証だった。
霧の森は、もはや奪い合いの場ではない。
これからは――帰るための道となる。
そしてその道には、新たな守人が必要だった。
◇
ラクリアへの帰路――。
街へと続く街道は、ほんの数日前まで幻霧に呑まれ、
進む者の心さえ惑わせる魔境だったはずだ。
だが今は、嘘のように穏やかな風が流れている。
霧は消え、道はただ“帰るための道”として、静かに横たわっていた。
馬車の中。
ザハードは無言のまま、窓の外を見つめていた。
揺れる視線の先に映るのは、白い壁と塔が陽光を跳ね返す街――ラクリア。
清潔で、整いすぎるほど整ったその姿は、森の闇とはあまりにも対照的だった。
「……あの街を襲わなかったのはな」
低く、ぽつりと零れる声。
独り言のようでいて、誰かに聞かせる覚悟を伴った声音だった。
「嫌いだからじゃねぇ」
ミナが振り返る。
軽口を叩くときの顔ではなく、相手の奥を見ようとする眼差しで。
「じゃあ、なんで商団を襲ってたの?」
一瞬、馬車の軋む音だけが響いた。
ザハードは口角を歪め、乾いた笑みを浮かべる。
「……あの街は、静かで、澄んでる」
「余計なものがなくて、守られてて……綺麗すぎるほどだ」
指先が、無意識に弓を引く仕草をなぞる。
「だから、耐えられなかった」
「外から来る連中が、欲と金だけ抱えて踏み込んでくるのが」
「平然と、あの美しさを壊していくのが……な」
それは憎しみではなかった。
羨望でもない。
ただ――歪んだ正義だった。
守りたかった。だが、守り方を誰にも教えられなかった。
沈黙が馬車の中に落ちる。
重く、だが拒絶ではない沈黙。
やがて、漣司が静かに口を開いた。
「筋は通っている。だが、歪んだやり方だ」
ザハードは否定しない。
視線を逸らしたまま、ただ聞いている。
「お前は、力を持ったまま、使い道を誤った」
「だがな……お前みたいな人間は」
漣司は、はっきりと言葉を置いた。
「使い方さえ違えば、誰よりも守る側になれる」
ザハードの瞳が、わずかに揺れる。
「……守る、か」
その言葉を、噛みしめるように反芻する。
まるで、初めて与えられた選択肢のように。
「もちろん、罪は償ってもらう」
「禁固は免れない。傷が癒えたら――通常の倍は働いてもらう」
冗談めかした条件。だが、その裏には明確な意志があった。
ザハードは、ふっと息を吐き、低く笑う。
「へっ……不思議な感覚を持ってやがるな、お前は」
「だが……いいだろう」
彼はゆっくりと顔を上げ、窓の外の街を見据えた。
「約束する」
「俺の弓は、もう奪うためには引かねぇ」
その声は、驚くほど静かだった。
「……守るために使う」
馬車は進む。霧の森を背に、白い街へ。
歪みによって生まれた盗賊は、いま、守人へと変わる帰路に就いていた。
◇
ラクリア議会庁舎――
高い天井から降り注ぐ光が、白い大理石の床に反射し、
厳粛さと威厳を同時に湛えた空間を形作っていた。
一歩踏み出すごとに、靴音が澄んだ残響となって広がる。
二階堂商会の一行は、一直線に議場の中心へ進み、
半円状に並ぶ議員たちの視線を一身に浴びながら立ち止まった。
漣司の隣には、手枷をかけられたザハード。
だがその背筋は伸び、かつての盗賊団の頭目は、逃げも怯えも見せていない。
「これが……あの霧の森を支配していた盗賊団の頭目、ですか」
議長が低く呟き、眉を寄せる。
好奇、警戒、そしてわずかな恐れ――
議場に漂う空気が、目に見えるほど張り詰めた。
漣司は一歩前に出て、静かに一礼した。
その所作には、商人としての礼節と、戦場を越えた者の覚悟が同居していた。
「この男は、我々二階堂商会の手で捕縛しました」
一瞬、言葉を区切る。議場全体が、次の一言を待つ。
「――ですが。ただの罪人として扱うつもりはありません」
「な……?」
ざわめきが走る。
「この森の守人として、使いたいと考えています」
「な、なんと……!」
議場は一気に騒然となった。
否定の声、驚愕の吐息、ざらついた疑念が交錯する。
だが、漣司は一切ひるまない。まっすぐに議長を見据え、言葉を重ねた。
「この男は、ラクリアが誇る美しさを――誰よりも守りたかった」
「外から来る欲と暴力が、街と森を踏みにじることを、許せなかった」
視線が、ザハードへと向けられる。
「その想いが歪み、行き場を失い、彼を盗賊に変えた」
「ならば――正しい方向へ導くことこそが、我々の責任です」
議場が静まり返る。重く、しかし拒絶ではない沈黙。
やがて、議長は深く息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。
そして――静かに頷く。
「……二階堂商会に任せましょう」
その一言が、確かな重みをもって響く。
「森の道を切り拓く者として…そして、街と森の境を守る者として――
この男を託します」
決裁の言葉。
同時に、それは赦しであり、役目だった。
ザハードは、その場で深く頭を垂れた。額が床に触れるほど、深く。
「……恩に着る」
掠れた声。だが、そこに迷いはない。
「俺はもう、逃げねぇ。森と街の境に立ち、弓を掲げる」
「奪うためじゃない――守るためにな」
その言葉に、議場の空気がわずかに揺らいだ。
かつて盗賊だった男が、いま、守人として名を刻む。
霧の森は、もはや恐怖の象徴ではない。
人と街を繋ぐ、新たな道の起点となったのだ。
◇
同じ頃――
霧の残る森の奥、倒木にもたれかかる二つの影があった。
全身に泥と血をまとい、息も絶え絶え。
「……クソッ、二度も……やられたな」
ゴローが唇を噛み、拳を地に叩きつける。
「ほんっと信じらんない。あの商会、化け物の集まりでしょ……」
チカは肩で息をしながら、矢筒を放り投げた。
矢はもう一本も残っていなかった。
「森に慣れてる俺たちが、あんな奴らに……」
「戦い方が違うのよ。あの人たち、金のためじゃなく道のために戦ってた」
チカの声は震えていた。
それは悔しさと、どこかに混じる焦りのようでもあった。
沈黙のあと、ゴローが低く呟いた。
「チカ……このままで終わるのか?」
「……終わるもんですか」
チカは血のついた頬をぬぐい、立ち上がる。
その瞳には、燃えるような光が宿っていた。
「次こそ――絶対にあの社長を倒す。どんな手を使ってでも」
「……ああ。今度は、こっちが獲物を狩る番だ」
風が二人の間を抜け、霧を運んでいく。
やがて二人は背を向け、深い森の闇の奥へと歩き出した。
その足跡を、薄紫の残光が静かに飲み込んでいった。
◇
その夜。
ラクリアの街灯が湖面に映り、穏やかな波を揺らしていた。
バルメリア、ラクリア、そして切り開いた森が広がる。
二階堂商会が築いた新たな道が、静かに結ばれようとしていた。
漣司は街の高台に立ち、遠くの森を見やった。
「……これで、少しは風通しが良くなる」
彼の呟きに、リュシアが微笑んだ。
「ええ、次は――本当の往来ね」
夜風が湖を渡り、二人の頬を撫でた。
ラクリアの夜は、穏やかに更けていった。
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