第91章 誘いの陣 ― 森に仕掛ける罠
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
夜明けの霧が、森を淡く包んでいた。
地図の上に木片を並べながら、漣司は短く言い放つ。
「夜明けと同時に撤退の芝居を打つ。前衛は退くふりをしろ。敵を奥へ誘い込む」
その声は低く、しかし誰よりも確信に満ちていた。
リュシアが眼鏡を押し上げる。
「幻霧の濃度は昨夜より増しています。魔力の乱れも……」
「上等だ。霧は敵の味方でもあるが、使い方次第でこちらの盾にもなる」
ミナが肩をすくめ、
「あたしたちが逃げるフリ、ね。面白いじゃない」と笑った。
ガロウは腕を鳴らし、
「つまり、打たせてから殴るワケか。得意分野ダ!」
ルーチェは静かに手を合わせ、
「光の残滓を使えば、撤退を幻に見せかけられまする」
と応じる。全員の顔に、緊張よりも信頼の色があった。
◇
陽が昇ると同時に、森がざわめいた。
鳥の声が途絶え、空気の流れが変わる。
「……来たな」
ロイの声に、漣司が頷く。
次の瞬間――木々の間から無数の矢が飛び出した。
無音の奇襲。
矢が地を叩き、盾を貫き、枝葉を裂く。
「撤退ーッ! 全員後退!!」
ミナの号令が響く。
前衛が崩れる――ように見えた。
しかしその混乱は、計算された演技だった。
ルーチェの光魔法が霧に反射し、幻の隊列を生み出す。
敵の矢は幻影を追い、実体を外して森の奥へ吸い込まれていく。
「今だ!」
漣司の号令と同時に、隊列が一斉に反転した。
「――反撃開始だ!」
轟音。ガロウの大斧が地を揺らす。
ロイが前衛をまとめ、ルーチェが光障壁を展開。
「《光障壁・転生陣》!」
矢の雨が弾かれ、光が森を切り裂く。
ミナが笑った。
「逃げてたのは、あんたたちの方よ!」
彼女のナイフが閃き、幻影の弓兵が消える。
確かに、戦況は商会の優勢に傾いた――その瞬間だった。
◇
ピシィ――ッ!
空気を裂く、乾いた一音。
横合いから飛び込んだ一本の矢が、一直線にミナの腕をかすめた。
布が裂け、遅れてひりつく感覚が走る。
「いったーーーっ!?
ちょっと! 服が破けたんだけど!?」
怒号とともに腕を振り上げるミナ。
ロイが即座に振り向いた。
「ミナ!大丈夫か!? 怪我は――」
「大丈夫じゃないわよ!
この美少女に傷をつけたこと、骨の髄まで後悔させてやるっ!!」
怒りが臨界を超えた瞬間だった。
ミナは地を蹴り、幹を駆け上がり、枝を踏み――
音も影も置き去りに、森の上層へ跳ぶ。
その先、木の上。
「よっしゃ! 今の当たっ――」
「……って、あれ?
前に会った子猫ちゃんじゃねぇか!?」
ゴローが目を丸くし、隣のチカが固まった。
「は? うそでしょ。
なんでこのタイミングで来るのよ、あんた!」
「いや、こっちのセリフだろ!? 聞いてねぇぞ、再戦イベント!」
視線が交錯する。一瞬の沈黙。
次の瞬間――森が爆ぜた。
「二回も弓で狙うなんて、ずいぶん根性あるわねェ!!」
ミナの蹴りが閃光のように走る。
踏み込んだ幹が悲鳴を上げ、木ごと傾いた。
「待て待て待て待て!!」
「話し合いって選択肢は――」
――なかった。
「ぎゃああああっ!?」
ゴローとチカが、仲良く揃って落下。
枝を引っかけ、葉を撒き散らし、無様に転がる。
「この服、弁償してもらうからね!」
着地と同時に言い放ち、ミナはナイフをくるりと回して構え直す。
怒りで肩を上下させながらも、目は獲物を捉えて離さない。
チカが歯を食いしばり、即座に身を翻した。
背中の弓を放り投げ、腰の短剣を抜き放つ。
「くっ……近接なら、負けない!」
刃が陽光を弾き、白い反射が瞬いた。
木漏れ日が枝葉の隙間から差し込み、刃の軌道をくっきりと浮かび上がらせる。
――キィン!
ナイフと短剣が噛み合い、乾いた金属音が森に跳ね返る。
澄んだ昼の空気に、甲高い音が遠くまで抜けていった。
「っ、この距離でやり合う気!?」
「当たり前でしょ! 逃げ場なんてないんだから!」
チカは体を低く沈め、連続で斬り込む。
斜め、逆袈裟、足払いめいた薙ぎ。
日差しを裂くような刃の連撃が、ミナの足場を削り取る。
だが――
ミナは、ほんの一拍だけ動きを緩めた。
「――そこ」
短剣が深く踏み込んだ、その瞬間。
踏み込みすぎたチカのつま先が、苔むした枝をわずかに滑る。
「え――」
重心が前に流れた刹那、ミナの身体が懐へ潜り込む。
腰を切り、体重を乗せ――
――ドンッ!!
「ぐっ……!」
鋭い蹴りが腹部を打ち抜き、息が一気に吐き出された。
チカの身体が後方へ弾き飛ばされ、枝を折り、葉を撒き散らしながら落下する。
ばさり、と乾いた葉音。
続いて、地面に叩きつけられる鈍い衝撃。
「……っ、く……」
短剣が指からこぼれ、転がる。
肺がうまく膨らまず、視界が陽光に滲んだ。
見下ろす位置に、ミナの影が落ちる。
逆光の輪郭が、はっきりとした輪郭を描いていた。
「甘いのよ。怒ってる女に、真正面から踏み込むなんて」
ナイフの刃先が、昼の光を鋭く跳ね返す。
ざわめく木々と、鳥の遠鳴きだけが、張り詰めた空気を満たしていた。
――ぎし、と背後で枝が軋んだ。
「……っ、チカ! 動くな!」
ゴローが体勢を立て直し、弓を引き絞る。
矢羽が風を切り、狙いはミナの背中――至近距離。
引き金になるはずの一瞬。
だが。
「遅い」
ミナの身体が、影のように跳ねた。
地を蹴る乾いた音。
踏み切りと同時に、空気が弾ける。
「な――」
ゴローの視界いっぱいに迫ったのは、靴底だった。
――バキィッ!!
「ぶふぉっ!?」
鈍く湿った衝撃音。
顔面を真正面から蹴り抜かれ、ゴローの首があり得ない角度でのけ反る。
弓から力が抜け、指が矢を放す前に離れた。
身体が宙で一回転し、背中から地面へ叩き落とされる。
どさり。
土埃が舞い上がり、葉がぱらぱらと降り注ぐ。
ゴローは白目を剥き、ぴくりとも動かなくなった。
「……はい、二人目」
ミナは着地と同時に軽く首を回す。
呼吸は乱れているが、足取りは一切ぶれていない。
倒れ伏すチカと、沈黙したゴロー。
昼の森だけが、何事もなかったかのようにざわめいていた。
鳥の鳴き声が、妙にのどかに響く。
「次、来るなら――まとめて相手してあげるわよ」
ナイフを肩の高さで遊ばせながら、ミナは鋭く視線を巡らせた。
その様子を見て、ガロウが口元を歪めた。
「……派手にやったナァ!」
ロイは頭を抱える。
「……請求書はリュシアさんに相談してくれよ」
森の中。
緊張と混乱の戦場に、不釣り合いな悲鳴と文句が転がっていた。
◇
その場に残っていた笑い声を、踏み消すように――
森の奥から、確かな足音が響いた。ざり、と落ち葉を踏む音。
霧がゆっくりと割れ、その向こうから長身の男が姿を現す。
黒い外套。風に揺れる裾の奥、背には一本の長弓。
構えもせず、隠れもせず、まるでこの森そのものが歩いてきたかのような堂々たる歩みだった。
「……なるほどな」
低く、腹の底に響く声。
「噂に聞く武装法人ってやつか」
空気が張り詰める。漣司は一歩、前に出た。
「お前が、この森を束ねているのか」
男は肩をすくめ、薄く笑う。
「束ねてる? ずいぶん立派な言い方だな。
俺たちはただ、森の流れに従ってるだけさ」
ロイが即座に言葉を返す。
「森に従うのは自由だ。だが道を塞げば、それはただの妨害だ」
「妨害、ねぇ」
男は鼻で笑う。
「俺から見りゃ、あんたらの方が森を壊してるように見えるが?」
「違う」
短く、しかし揺るぎなく、漣司が言った。
「俺たちは繋いでいる」
間髪入れず、ミナが一歩踏み出す。
「街と街を結ぶ道を作ってる。人が生きるための流れをね。
あなたたちは――それを壊してるだけよ」
男――ザハードは、薄く笑った。
「壊す? 違ぇな。守ってんだ」
弓にかけた指先が、ゆっくりと動く。
「森は生き物だ。勝手に切り開けば、当然、反発もする。
だから俺たちは牙になった。森が噛みつく前に、代わりに吠えるんだよ」
「……なるほどな」
漣司は短く息を吐いた。
「なら、教えてやる。森を恐れさせるより、共に守る方が賢い生き方だ」
一瞬、ザハードの目が細まる。
「綺麗ごとだな。――嫌いじゃねぇがな」
その指が、弓弦に触れた。張り詰める音は、まだ鳴らない。
だが、それだけで十分だった。
応じるように、漣司は剣を抜く。澄んだ金属音が、霧を切り裂く。
「勝った方が、この森を治める」
「それでいい」
二人の間に、風が走った。霧が流れ、木々がざわめき、まるで世界が息を止める。
ミナが、思わず息を呑む。
「社長……」
漣司は振り返らない。ただ、前だけを見据え、静かに言い切った。
「引くな。これが――この森の答え合わせだ」
剣と弓。思想と意地。
森を懸けた決闘の火蓋が、今まさに切られようとしていた。
◇
森は、息を殺した。
ざわめいていた葉も、鳴いていた虫も、すべてが沈黙する。
風は止み、霧は静止し、世界そのものが瞬きを忘れたかのようだった。
天上から、一条の光が射し込む。
それは偶然ではなく、まるでこの瞬間を選び取ったかのように――
光の中心に、二つの影が立っていた。
二階堂商会の長。そして、森に牙を与えし弓の支配者。
剣と弓、思想と意志。
次に放たれる一矢が、勝敗だけでなく、この森の未来を決める。
交易か、停滞か。繋がれる道か、閉ざされた聖域か。
霧がわずかに揺れ、張り詰めた空気が震えた。
二階堂商会とザハード――森の命運を懸けた戦いが、いま、静かに牙を剥く。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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