第90章 静寂の裏の気配 ― 森が見ている
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
森は静かだった。
風もなく、鳥も鳴かず、葉一枚が落ちる音すら、やけに遠くに感じられる。
陽が昇っているのに、光が濃霧の奥へ吸い込まれていくようだった。
整地された拠点で、漣司は手を止め、森の奥を見つめた。
「……気配が変わったな」
その一言で、空気が張りつめる。
ミナが肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「確かに、風が止まってる。……ただ、ずっと見られてる気がするのよね」
ロイが周囲を見回し、警備班に指示を飛ばす。
「警戒を強めろ。全員、間隔を広く取れ。弓の角度は森の縁に合わせる」
すでに彼らの間に言葉はいらなかった。
短い号令だけで、商会兵たちは隊列を組み直す。
ガロウが腕を組み、低く唸った。
「静けぇのはいいガ、気持ち悪ィナ。だが怯えたら負けダ。オレらは進ム」
「止まれば、森に喰われる――そうだな」
漣司は頷き、足元の地図を折りたたむ。
「行動は最小限、感覚は最大限に研ぎ澄ませ。今日からの森は敵地だ」
霧が揺れる。その瞬間、何かが森の奥をかすめた。
ルーチェが反応し、杖を構える。
「……魔力の流れが、逆です。風が北から吹いているのに、霧は南へ流れております」
「逆流?」
ミナが眉をひそめた。
「はい。これは自然現象ではありませぬ。誰かが意図的に霧を止め、操っている」
「つまり、こっちが入ってくるのを待ってる……罠ね」
ミナの声に、漣司は静かにうなずいた。
「ならば、待つ必要はない。動かなければ、森の主導権を握れん」
◇
午後。
陽はまだ高いはずだったが、森の外縁には夕刻のような陰りが漂っていた。調査班は言葉少なに進む。踏みしめる枯葉の音すら、霧に吸い込まれて消えていく。
視界は開けている――はずなのに、奥行きが測れない。
薄くなったようでいて、確実に深くなった霧が、感覚を狂わせていた。
ミナが歩調を落とし、低く囁く。
「……ねえ、気づいてる?鳥の声が、一つも聞こえない」
一瞬、全員が耳を澄ませる。風の音も、羽音もない。
あるのは、自分たちの呼吸と、装備のかすかな擦過音だけ。
ロイが眉を寄せ、周囲を見回す。
「音が消えているな。気温も、さっきより下がっている。
……魔術による領域干渉の可能性が高い」
「姿を見せず、気配だけで圧をかけてくる……」
ミナが吐き捨てるように言う。
「嫌なやり口ね」
ガロウは足を止め、木の幹に手を当てた。
指先で苔を剥がし、湿り気を確かめる。
「地面が水を含んでル。夜になりゃ、確実に滑るナ」
視線を周囲へ走らせ、獣の勘で地形を測る。
「攻める側にとっちゃ足を取られる。だが、待ち伏せと防御にゃ――最高の森ダ」
ルーチェが小さく頷いた。
「つまり……ここが、戦場になるということですな」
「その認識で間違いない」
漣司の声は、低く、澄んでいた。
霧の奥を見据えるその眼差しに、迷いはない。
「全員、戦闘前提で動け。夜までに、防衛線を二重に張る」
即座に視線が交わされる。
「ロイ。罠と動線の再確認を」
「了解しました。防衛陣は南北に分け、交差射線を確保します」
「よし」
漣司は一拍置き、静かに言葉を継いだ。
「……この森は、俺たちを見ている。ならこちらも――見返すつもりで構えろ」
その言葉を合図に、調査班の動きが変わる。
歩みは慎重に、だが確実に。
霧の中へと、刃を研ぎ澄ませるように踏み込んでいった。
静かな森の奥で、何かが息を潜め、夜を待っていることを――
誰もが感じ取っていた。
◇
夜。
森の入口に設けられた野営地は、闇に沈みかけていた。
焚火は必要最低限。炎は高く上げられず、
揺らめく赤が地面に広げられた地図を歪めている。
風が吹くたび、火の粉が跳ね、影が生き物のように蠢いた。
リュシアは帳簿と測定器を並べ、淡々と報告する。
「前方およそ二キロ。微弱な魔力反応を確認しました。
……ですが、周期が安定しません。強弱もばらつきがあります」
その言葉が終わる前に、ミナが即座に口を挟んだ。
「おとりね」
即断だった。
ロイも腕を組み、地図から目を離さずに続ける。
「同感だ。攻勢に出る気配が薄い。位置を誇示するだけで、踏み込んでこない」
「動かないことで、こっちを動かそうとしてる」
ミナが肩をすくめる。
「焦らせて、判断を鈍らせる。森を使う連中の常套手段ね」
焚火の向こうで、ルーチェが顔を上げた。
「では……こちらから迎撃を仕掛けまするか?」
「いや、違う」
漣司は短く否定した。地図に歩み寄り、人差し指を置く。
そこから、ゆっくりと線を引いた。
「次は待つ。だが、待たされるんじゃない――こちらが待たせる」
指先が止まる。
線は、森の奥へと誘い込むような形を描いていた。
「敵が仕掛けてくるその瞬間を、こちらが決める」
「それって……」
ミナが意味を察し、目を細める。
「つまり、こっちから芝居を打つってことね」
「そうだ」
漣司の声は低く、だが揺るぎなかった。
「混乱しているように見せる。防衛線が崩れたと錯覚させ、撤退するフリをする」
さらに線を引き、別の地点を示す。
「敵が油断し、距離を詰めた瞬間――接近戦に持ち込む。
幻影も、矢も、間合いがなければ意味を持たない」
焚火が、ぱちりと音を立てて弾けた。
赤い光が全員の顔を照らす。
不安ではない。そこにあったのは、理解と覚悟だった。
「明日は――森が牙を剥く日だ」
漣司は視線を上げ、仲間たちを見渡す。
「その牙を、正面からへし折る」
静寂の中、誰も反論しなかった。
リュシアは報告書を閉じ、静かに頷く。
ルーチェは杖を胸に抱き、目を伏せて祈るように息を整えた。
ミナとガロウは短く拳を合わせ、何も言わずに笑う。
ロイはそれを見届け、無言で頷いた。
それだけで、全員の士気が伝わる。
言葉は不要だった。策は共有され、意志は揃っている。
焚火の炎が、再び小さく揺れた。
◇
その頃、森のさらに奥――
霧の帳に包まれた空間で、
もうひとつの焚火が脈打つように揺れていた。
火は高く上げられず、赤黒い光だけが周囲の木々を舐める。
煙は上へ昇らず、霧に溶けて消えていった。
ザハードは岩に腰掛け、長弓の弦をゆっくりと撫でている。
研ぎ澄まされた指先が、木と魔力の感触を確かめるように滑った。
「……静かだな」
それは独り言に近い呟きだった。
焚火の向こう、副官が低い声で応じる。
「商会の連中、進みが遅ぇ。完全に警戒してやがります」
「進まねぇ――それ自体が、もう策だ」
ザハードは弓から視線を離さず、淡々と言い切った。
少し離れた場所で、チカが膝を抱え、唇を尖らせる。
「ほんと嫌な相手よ、あの社長。
目は冷たいのに、中で火が燃えてる。……油断ならない」
「へぇー、社長に恋でもしたか?」
唐突に、後ろから気の抜けた声が飛んだ。
「してないわよッ!」
チカが即座に振り返り、ゴローの額を小突く。
「何でそうなるのよ! 敵! 敵の話!」
「いやぁ、だってよ。そんな言い方されたらさぁ。
冷たい目で燃えてるとか、詩人かよって思うだろ?」
「このバカ……!」
チカが本気で睨みつけるが、
ゴローはどこ吹く風で肩をすくめる。
「ま、確かにヤバそうではあるな。ああいうタイプはよ、逃げねぇし、折れねぇ。
――殴り合いになると、一番面倒だ」
一瞬だけ、空気が変わった。
「……あァ」
ザハードがようやく顔を上げる。
焚火の赤が、その片目の傷を照らす。
「だからこそ、狩り甲斐がある」
焚火がぱちりと音を立てる。
「奴は勝ちに来るタイプだ。だがな――この森じゃ、それは通じねぇ」
視線が、闇に沈む樹海へと向けられる。
「森は誰のものでもねぇ。支配しようとした瞬間、逆に喰われる」
その言葉に、副官が一瞬だけ黙り込み、やがて問いかけた。
「……で、どう動きます?」
ザハードは弓を立て、焚火の赤を刃のような眼で見据える。
「簡単だ」
低く、断定的に。
「――奴らが踏み込んだ瞬間が、開戦だ」
焚火が一際強く燃え上がり、闇が濃くなった。
◇
夜はさらに深まり、森は音を失った。
霧の奥で、風が一度だけ走る。
枝葉が震え、土がかすかに鳴り――
それはまるで、森そのものが胸いっぱいに息を吸い込むかのようだった。
嵐の直前に訪れる、あまりにも不自然な静寂。
そして――黎明。
闇が薄くほどけ、東の空が白み始めた瞬間。
最初の一羽の鳥が、ためらうように、しかし確かに鳴いた。
その一声が合図だった。
二階堂商会と盗賊団――
森を懸けた最後の戦いの幕が、静かに上がった。
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