第9章 物流封鎖 ― 保険戦争、開戦
公開裁判で二階堂商会が歴史的勝利を収めてから、
わずか一週間。
その余波は都市中に広がり、
まるで新しい風が街路を駆け抜けていくようだった。
二階堂商会が発行する手形は、噂よりも速く庶民の手に渡り、
八百屋の店先でも、鍛冶屋の炉の前でも、
さまざまな光景を生み出していた。
「聞いたか? 二階堂の手形なら、
今すぐ金貨に換えずとも支払いに使えるらしい」
「ギルドの金貨より軽くて便利だってよ。
持ち運びも楽だ」
「手数料が安いってのも本当なのか?」
そんな囁きが市場を渡り歩き、
朝の喧騒に混じっては新たな波紋を広げていく。
手形を受け取った店主は目を丸くし、
読み慣れぬ文字列を指でなぞりながら感嘆の声を洩らす。
老舗の商人たちでさえ、
慎重な顔つきで手形を光に透かし、やがて満足げにうなずく。
若い職人たちは浮き立つように笑い、
「時代が変わるぞ」
と未来の商機を夢見る者もいた。
街は活気づき、人の流れは商会の支店へと吸い寄せられる。
手形を扱う秘密を知りたい、取引に加わりたい――
そんな声が絶え間なく押し寄せた。
だが。
繁栄の鐘が鳴り響くほどに、
同時にどこかで不穏な沈黙がふくらんでいくのを、
敏い者だけが感じ取っていた。
ギルドの面々が裁判以降、ほとんど表に姿を見せなくなったこと。
夜になると市場周辺から衛兵の足音が不自然に増えていること。
誰かが見ているような、視線の気配。
――繁栄の鐘は、長くは鳴り続けなかった。
新しい時代の光が街を照らすほど、
その影はしずしずと、しかし確実に伸びていったのだった。
◇
「社長! 街道が封鎖されました!」
倉庫に飛び込んできた伝令が叫んだ。
「ギルド傘下の武装商会が、
主要路の通行を妨害していると!」
漣司は顔色ひとつ変えず、地図を一枚広げる。
「……なるほど。
都市への流通路を抑えれば、我々の商売は立ち行かなくなる。
典型的な物流封鎖だ」
リュシアが冷笑した。
「古典ですが、効果は抜群です。
物流が止まれば、市場心理は一気に冷えますから」
ガロウは斧を肩に乗せ、唸った。
「俺たちが突破すればいイ!」
だが漣司は首を振った。
「戦争をすれば被害が出る。
力で勝っても信用は守れない。勝つ方法は、別にある」
そこで彼は一枚の契約書を掲げた。
「……保険だ。俺たちが護衛する物流に保険を掛ける。
襲撃で荷が失われても、保険金を支払う。
これで信用を補強する」
ミナが目を丸くした。
「荷を守るんじゃなく、失ってもいいようにする……って発想?」
「そうだ。信用は安心で支える。
襲われても痛くない物流を作る」
◇
数日後――。
二階堂商会の馬車隊は、朝の薄光を背に、
市外門を抜けていった。
荷台には大きく商会の紋章。
革と鉄の匂いが混じる車列の両脇を、
武装した兵たちが固める。
石畳を踏む車輪の音が、乾いた規則で街に残っていく。
「ギルドの連中にやられるぞ……」
「無茶だよ。あんな堂々と――」
市民たちは不安を隠しきれず、
手を止め、足を止め、遠ざかる馬車を見送る。
護衛兵は間隔を詰め、槍先をそろえる。
リュシアは歩きながら魔力測定器を覗き込み、
数値の揺れを指先で確かめた。
「……異常なし。今のところは、ね」
ミナは建物の影から影へ、
軽やかに跳び移りながら周囲を睨む。
「うまくいくといいけど……」
「大丈夫。社長の読みは外れたことがない」
そう言って笑った声も、どこか硬い。
だが――その空気を切り裂くように。
ひゅっ、と乾いた音が走った。
「――矢だ!」
次の瞬間、街道脇の茂みから、火矢が一斉に放たれた。
空気が弾け、火の尾が弧を描く。
ばちん、と荷台の帆布に火が移り、
炎が一気に舐め上がった。
「燃えてるぞ! 消火――!」
叫びが重なり、隊列が一瞬乱れる。
同時に、茂みがざわりと割れた。
黒装束の影が、雪崩のように飛び出す。
剣、槍、短弓――ギルド傘下の武装商人たちだ。
「来やがったナ!」
ガロウが地面を踏み砕く勢いで前へ躍り出た。
「まとめて相手してやル!」
獣人の咆哮が街道に轟き、巨大な斧が唸りを上げる。
一振りで敵が吹き飛び、砂埃と悲鳴が跳ね上がった。
「うわ、数多っ……!」
ミナが舌打ちしながら短剣を構える。
「これ、全部ギルドの手下じゃん!
本気で潰しに来てる!」
矢が飛び交い、剣戟がぶつかる。
馬が嘶き、護衛兵が叫び、炎がぱちぱちと音を立てる。
混乱の渦の中で、荷台の一部が崩れ落ちた。
「被害、出てます!」
「隊列、下がるな! 囲まれるぞ!」
怒号が交錯する。
――だが。
その中心で、漣司だけは、
炎に照らされながら静かに立っていた。
飛び散る火の粉も、駆け抜ける影も、
すべてを一歩引いた目で見渡す。
眉一つ動かさず、淡々と状況を測る。
「……ふむ」
小さく息を吐き、口角をわずかに上げた。
「これでいい。むしろ好都合だ」
その言葉は、戦場の喧騒とは不釣り合いなほど、
冷えていた。
◇
翌日。
商会本部の広場には、焼け焦げた荷車と損失報告書が並べられた。
市民や商人たちが集まり、不安の声を上げる。
「ほら見ろ、物流は潰された!」
「やっぱり二階堂商会じゃ駄目か……」
そのざわめきを断ち切るように、漣司が壇上に立った。
「――皆、聞け!」
声は広場全体に響き渡る。
「確かに馬車隊は襲撃を受け、荷の一部は失われた。
だが――損失は補償される!」
リュシアが帳簿を広げる。
「これは保険契約に基づく支払いです。
失われた貨物の価値、銀貨二十枚を即時に補填します」
ざわめきが広がる。
実際に商会の倉庫から銀貨の袋が運び出され、被害商人の手に渡った。
「う、嘘だろ……なんだこれは……!」
「失ったはずの貨物が、銀貨で戻ってきた……!」
驚嘆の波が、歓喜へと変わる瞬間――漣司は手を広げ、宣言した。
「これが二階堂商会の保険だ!
物流を襲おうとも、我々は必ず補填する!
信用は揺るがない!」
群衆は大きな歓声を上げた。
◇
一方、暗い部屋でその報告を聞いたギルド長マルコは、
机を叩き割らんばかりに怒鳴った。
「馬鹿なぁ!! 荷を燃やされて信用が増す!?
保険など聞いたこともない!」
市民が信用するのはもはやギルドの通貨ではなく、
二階堂商会の制度だった。
報告官は青ざめたまま震えている。
「市民は……二階堂商会の制度を支持し始めています……」
マルコの顔が蒼白になる。
「通貨の……主導権が奪われる……!」
◇
その夜。
倉庫の屋根に腰を下ろし、ミナは風を受けて笑った。
街灯の明かりは遠く、頭上には星が滲むように瞬いている。
「社長、正直びっくりしたよ。
荷を燃やされて――
それでこれでいいなんて言う経営者、初めて見た」
軽口のようでいて、どこか本気の混じった声音だった。
漣司は屋根の縁に片手を置き、夜気を吸い込む。
「企業は、リスクを恐れてちゃいけない」
漣司は言い切ったあと、いったん言葉を切った。
屋根の縁をなぞっていた指が止まり、
夜風がコートの裾を小さく揺らす。
遠くで、どこかの倉庫扉がきしむ音がした。
その静けさを一息ぶんだけ受け止めてから、
視線を上げる。
「恐れるべきなのは、管理できないまま抱え込むことだ。
リスクは契約で管理する。感情で動いては負けるだけだ……
それが経営だ」
リュシアは少し離れた位置で、星空を見上げている。
夜風に揺れる髪を指で押さえながら、静かに言った。
「……金融戦争の幕開けですね」
星のまたたきに視線を重ねたまま、続ける。
「次にギルドが仕掛けてくるのは、
通貨そのものの信用でしょう。
数字ではなく、心を削りに来ます」
「だろうな」
漣司の目に宿る光は、炎でも、恐怖でもない。
ただ、新たな戦場を見据える戦略家の輝きだった。
夜空を見上げ、その光を一度、
静かに胸に収めてから、口を開いた。
「いいだろう」
短い言葉が、夜気に溶ける。
ミナとリュシアの気配を背に感じながら、
漣司はゆっくりと視線を上げた。
「物流を封じられようが、金融を攻められようが
――俺は必ず勝つ」
拳を、わずかに握る。
力を誇示するためではない。決意を、逃がさないための動きだった。
「二階堂商会は、止まらない」
その瞬間、遠くの都市の灯が、ひときわ強く瞬いた。
点在する光は、夜空に散った星のように連なり、
次なる戦いの始まりを、静かに告げているかのようだった。
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