第89章 幻の狩場 ― 森が牙を剥く
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
第一次襲撃から、幾日かが過ぎていた。
二階堂商会は森の開拓作業を再開していたが、
その進みは以前とは明らかに違っていた。
一歩ごとに、慎重すぎるほど慎重に。
進行速度は落とされ、隊列は常に組み直され、
作業と警戒が切り離されることはない。
周囲警戒のため、作業員たちは斧を振るう合間にも視線を走らせる。
誰かが森に踏み入る前には、
必ず一度、空を仰ぎ、肺の奥まで息を送り込んだ。
それは祈りにも似た、無意識の儀式だった。
鳥の鳴き声は戻っている。
枝の上では羽音が響き、風も以前より穏やかだ。
だが――その静けさを、安心だと受け取る者は一人もいなかった。
むしろ「鳴いている」こと自体が、
何かを覆い隠しているように思えてならない。
漣司は、少し離れた場所で地図を広げていた。
指先で等高線をなぞり、視線を森の奥へ向ける。
「ここからが中腹だ」
低く、しかしはっきりとした声。
「地形が複雑になる。見通しも落ちる。
――進行を一段階落とせ」
ロイが即座に頷き、背筋を正す。
「承知しました」
彼は振り返り、森へ向けて声を張り上げた。
「各班、間隔を保て! 前衛は索敵を最優先!
資材班は合図があるまで作業を止めるな!」
「了解!」
短く、揃った返答が返る。
号令は木々の間を縫い、次第に森の奥へと吸い込まれていった。
その余韻が消えたあとも、空気は緩まない。
誰もが感じていた――この森は、まだ何も終わっていない。
むしろ、息を潜めて次を待っているのだと。
◇
霧は薄い。
だが、肌にまとわりつく湿り気は重く、底が知れない。
白い靄が地表を這い、絡み合った樹々の根の間を流れていく。
一歩踏み出すたび、足元の泥がぬちりと鈍い音を立てた。
森全体が、ゆっくりと呼吸しているかのようだった。
「……なんか、イヤな感じね」
ミナは歩を緩め、近くの木の幹に指先を当てる。
ひんやりとした樹皮の奥に、微かな脈動を感じ取った。
「木の中に魔力の流れがあるわ。
自然のものじゃない……誰かが、ここに術を残してる」
その言葉に、ルーチェが眼鏡の奥で目を細める。
杖を軽く地面に当て、霧の揺らぎを観察した。
「おそらく幻霧結界の派生系でござるな。
視界そのものではなく、認識に干渉する術……
見えている景色を、少しずつずらしていく類でござる」
「つまり――」
ガロウが低く唸り、大斧を肩に担ぎ直す。
「森そのものが罠、ってわけダ」
彼は一歩前に出て、周囲を鋭く見渡した。
霧の向こう、木々の影。
そのどこからでも矢が飛んできそうな気配。
「進むしかねェ。ここで足止め食らえば、
また好き放題に撃たれるだけダ」
張り詰めた空気の中で、漣司が静かに頷いた。
視線は揺れる霧の奥を射抜くように据えられている。
「正しい判断だ。――前進する」
しかし、その声は冷静だった。
「だが、無理はするな。地の利は完全に奴らにある。
一歩ずつ確実に、だ。焦った瞬間に、森に飲まれる」
短い沈黙。
霧がざわりと揺れ、木々が軋む音が響いた。
隊列は静かに動き出す。
誰もが理解していた――
ここから先は、森そのものが敵となる戦場だということを。
◇
それは、ほんの刹那の違和感だった。
風は止んでいる。にもかかわらず、
前方の樹冠だけが、ざわりと揺れた。
次の瞬間――霧が逆巻く。
木々の影が歪み、人影が跳ね出した。
「伏せろッ!!」
ロイの号令が走るより早く、矢が降った。
雨のように、しかし規則正しく――
だが、先日の襲撃とは明らかに違う。
空中で、矢が増えた。
一本が二本に、二本が四本に分かれ、
霧の中で不自然な角度へ折れ曲がる。
「っ……また幻影!? どれが本物よ!」
ミナが舌打ちし、地面を蹴って横へ跳ぶ。
視界の端を、矢が掠めて通り過ぎた。
ガロウは一歩前へ踏み込み、大斧を振り抜く。
「こんな小細工、当たるかァァッ!!」
轟音。
衝撃波が霧を押し潰し、矢の群れがまとめて砕け散った。
――だが。
霧は、退かなかった。
むしろ、森全体が応えるように、再び白を濃くする。
「……森が……歪んでいる?」
ルーチェが息を呑む。
木々の輪郭が揺らぎ、地形そのものがずれていく感覚。
周囲の木々が微かに歪み、隊列が崩れ始める。
次の瞬間。
前方の木立の奥に、鎧姿の兵士たちが現れた。
「――先行班! もう合流していたのか!?」
後方のラクリア兵が、安堵混じりに声を上げる。
だが、ロイは即座に否定した。
「違う! 先行班はまだ前に出していない!」
「……なに?」
ざわり、と隊列が揺れる。
兵士たちは、確かに見覚えのある装備を身に着けていた。
ラクリア兵の鎧、商会兵の外套――だが、目が合わない。
視線が、どこか空虚だ。
「――幻影だ! 味方を模した偽兵だ!」
漣司の声が、霧を切り裂く。
「全員、個別確認を徹底しろ!
合言葉を使え! 識別を怠るな!」
幻影――味方の姿を模した偽兵。
幻影は実兵の隙間に溶け込み、位置感覚を狂わせる。
前後左右の距離が、曖昧になり、
戦場が森の内部へと引きずり込まれていく。
混乱の中、幻影が実兵と入り混じり、
戦場は混沌と化していく。
その中、ルーチェが光を掲げた。
「《光散術》!」
光が弾け、霧の一角が晴れる。
幻影が、泡のように消えた。
だが、霧だけは完全には晴れなかった。
光が通った先で、結界そのものが耐えるように軋む。
ルーチェは静かに息を整え、杖を下ろす。顔色一つ変わらない。
ただ、その声音だけがわずかに低くなった。
「……この霧、術式が森そのものに絡み申しておる。
我が光、押し返せはするが――削り合いにござるな」
ガロウが一歩前へ出て、斧を構える。
その背に、霧がまとわりつこうとしたが――
近づけなかった。
「ムリすんナ! お前の光は切り札ダ!」
ガロウが彼女を庇い、前線に立ちはだかる。
霧の奥で、再び何かが動いた。森はまだ、牙を隠している。
◇
その時、森の奥から低い笛の音が響いた。
風のように流れるその旋律が、兵たちの耳に不気味に残る。
「……あれは、号令だ」
漣司の眼が鋭く細まる。矢が再び放たれた。
だが今度は一直線ではない――
空を描くように弧を描き、背後から降り注ぐ。
「後方にも矢!? 囲まれてる!!」
「落ち着けッ!!」
ロイが叫ぶ。
前衛が盾を構え、ルーチェが防御結界を再展開。
その中でミナは目を閉じ、風の流れを読む。
「矢の角度が全部……一つの点に向かってる」
「どういうことだ」
「狙いは私たちじゃない――地形を変えるつもり!」
直後、轟音が鳴った。
前方の斜面が崩れ、地面が割れた。
濁流のように土砂が流れ落ち、前衛と後衛が分断される。
「……完全に誘われたな」
漣司は即座に判断した。
「退け! 一度退く! この森では勝てん!!」
「でも社長!」
「戦は力で勝つものではない――
地を奪われたままでは意味がない」
退避の号令が走る。
ルーチェが最後の光で道を照らし、ロイとガロウが退路を確保。
幻影の兵士が後を追うが、
ミナの投げた閃光弾で霧が一瞬晴れる。
◇
――そして、森の中腹の奥。
霧が絡みつく樹海の陰に、三つの気配が息を潜めていた。
湿った空気は冷たく、枝葉が触れ合う微かな音さえ、
耳に張りつく。
ザハードは太い枝に腰を預け、煙管をくゆらせる。
白煙は霧に溶け、輪郭を失って森へと吸い込まれた。
視線の先――
撤退する商会の隊列が、
街道の曲線に沿ってゆっくりと姿を消していく。
ザハードが、喉の奥で低く笑った。
「悪くねぇ……だが、あの社長、ただの商人じゃねぇな」
背後で、ゴローが双眼鏡を下ろし、首を傾げる。
「……隊列、やけに揃ってるな。
崩走って感じじゃない。まるで、訓練行軍みたいだ」
「それが普通でしょ。あれ、統制の取れた撤退戦よ」
チカが即座に小声で返す。
「いや、でもさ。
撤退って、もっとバラけたり、荷を捨てたりするもんだろ?
あれ、まるで次の布陣に移動してる部隊みたいじゃね?」
「……あんた、それ、
逃げてるんじゃなくて再配置って言いたいだけでしょ」
「そうそう、それそれ。再配置。なんか響きカッコいいし」
「カッコよさで戦況を判断するな!!」
チカの鋭いツッコミが、霧の中で小さく弾ける。
ザハードは煙管越しに二人を一瞥し、わずかに口角を上げた。
「……まぁ、言いたいことは分かる。統率は崩れてねぇ」
チカが視線を戻す。
「でも、ダメージは入ってますよ。
補給車、三台止めましたし」
「うん。あれ、たぶん中身ぶちまけて、
今ごろ道が穀物まみれだな」
「だから表現が平和すぎるのよ!!」
チカのツッコミが、霧の中で小さく弾ける。
ゴローは悪びれもせず、さらに首を傾げた。
「うん。補給線は切れた。
でも、指揮系統はまだ生きてる感じだな」
ゴローが真顔で頷く。
「ほらな。やっぱ撤退っていうより、
次の陣地に下がっただけっぽい」
「だからって、余裕ぶらないの。
油断したら次で殺されるわよ」
その言葉で、空気が一段、引き締まった。
ザハードは、森の奥――自分たちの根城へと視線を送る。
「いや――逃げたんじゃねぇ。次を考えてる目だった」
ザハードは視線を森の奥へと向けた。
霧が渦を巻き、森の中心――彼らの本拠へと風が流れていく。
◇
夜、二階堂商会の野営地。
焚火の炎が弱く揺れていた。
兵たちは疲労の色を隠せず、
リュシアが負傷者の手当てをしている。
ミナが地図を広げ、赤線をいくつも引いた。
「……矢の軌道、全部同じテンポ、同じ間隔。
敵の射手たち、まるで一つの鼓動みたいに動いてた」
漣司は焚火の向こうを見据え、わずかに目を細めた。
森の奥から伝わってくる、規則正しい気配――
それは確かに、脈打つような感覚だった。
「……鼓動、か」
低く息を吐き、言葉を継ぐ。
「だとすれば厄介だな。この森は地形じゃない。
こちらの動きを感じ取り、学び、応じてくる――生きた戦場だ」
焚火がぱちりと弾け、橙色の火花が夜闇へ消える。
冷えた風が吹き抜けても、漣司は身じろぎ一つしない。
「正面から削り合えば、消耗するのは俺たちだ。
だが……必ず、綻びはある」
地図を指でなぞりながら、静かに言い切った。
「相手が生き物なら、息継ぎの瞬間がある。そこを突く。それだけだ」
焚火の光を映したその眼には、揺るぎない闘志が、確かに燃えていた。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
少しでも面白いと思ったら☆☆☆☆☆を★★★★★にして頂ければと思います。一つひとつの応援が、次の物語を生み出す力になるんです。これからも、どうぞ気軽に見守っていただけたら嬉しいです。




