第88章 森の矢雨 ― 最初の衝突
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
朝の森は、異様なほど静まり返っていた。
小鳥のさえずりはなく、葉擦れの音もない。
風は止み、薄く漂う霧だけが、地面を這うように流れている。
ラクリア近郊――交易路建設予定地。
二階堂商会の隊列は、森の外縁で粛々と作業を進めていた。
荷馬車が軋む音を立てて資材を運び、
ラクリア兵と商会兵が入り混じって杭を打ち込む。
金属と木がぶつかる乾いた音が、一定のリズムで森に溶けていった。
陽光は穏やかで、空気は澄み切って冷たい。
誰もが、この日も平穏に終わると――疑いなく信じていた。
――その静けさが、不自然だと気づくまでは。
ミナが、ふと顔を上げる。周囲を包む空気に、
わずかな欠落を感じ取った。
「……鳥の声が消えてる」
その一言に、ロイが地図から視線を離し、眉をひそめる。
「さっきまでうるさいほど鳴いてたのに……?」
ミナは耳を澄ませ、肌で風を読むように目を細めた。
「風も変。流れが……逆」
次の瞬間、背筋を氷水で撫でられたような感覚が走る。
理屈ではない。長年積み重ねた感覚が、
はっきりと警鐘を鳴らしていた。
ミナは反射的に叫ぶ。
「ガロウ!! 森の奥――何か来る!!」
ガロウの表情が、一瞬で獣のそれに変わった。
数年の戦場経験が、次の瞬間を予感していた。
肺の奥から、咆哮が爆ぜる。
「――敵襲ダァァァァァァァッ!!!」
号令一閃。
その声が森に叩きつけられた瞬間、
張り詰めていた空気が、一気に引き裂かれた。
静寂は砕け散り、次の瞬間――
森は、殺意を孕んだ目覚めを迎える。
◇
森の奥から、矢の雨が降り注いだ。
合図も、怒号もない。
ただ――殺意だけが先に落ちてくる。
音もなく、影のように。
無数の黒い矢が霧を切り裂き、角度を変えながら降下する。
「――っ!?」
最初に悲鳴を上げたのは、ラクリア兵だった。
理解が追いつく前に、矢が地面へ、木箱へ、盾へと突き刺さる。
資材が放り出され、荷馬車の馬がいななき、列が一瞬で乱れた。
「伏せろッ!」
ロイが前に飛び出す。
判断は早く、声は鋭い。
盾を構えた瞬間、金属音が連なって響いた。
矢が盾に弾かれ、火花のように散る。
その直後、ガロウが最前線へ躍り出た。
地を踏み鳴らし、巨大な斧を叩きつけるように突き立てる。
「全員、戦闘隊形ィッ!!
防御壁、展開ダ!!」
獣の咆哮のような号令。
一瞬、混乱しかけていた空気が、
そこで強制的に締め上げられた。
日々の訓練が生きていた。
ラクリア兵は慌てたが、二階堂商会の部隊が冷静に列を整える。
誰一人として叫ばず、走らず、
決められた位置へ滑るように移動する。
盾兵が前へ、後衛が一歩引き、間隔が一瞬で整う。
一方、ラクリア兵は息を呑み、目を見開いていた。
動こうとするが、何をすべきか迷いが生じる。
その隙を、商会の兵が無言で埋めていく。
――経験の差。
それは、恐ろしいほどはっきりと現れていた。
その中心に、漣司が立っていた。
矢雨の中にあってなお、足は一切揺れない。
「前衛は防御。後衛、退避」
淡々と、しかし切断力のある声。
「光展開――戦闘開始だ」
その言葉を待っていたかのように、ルーチェが一歩前へ出る。
迷いのない動きで杖を掲げ、澄んだ声を森へ放った。
「《光盾》!」
次の瞬間、淡い光が広がり、
矢雨を受け止める防壁が、戦場に確かに形を成した。
◇
柔らかな光が展開し、降り注ぐ矢のいくつかを正面から弾き返した。
だが――それで終わりではない。
矢は霧を滑るようにすり抜け、空中で不自然に角度を変える。
直進ではない。反射でもない。
まるで誘導されているかのように、
側面から、死角から襲いかかった。
「幻影……! 矢の軌道が読めませぬ!」
ルーチェの声が、わずかに揺れる。
「なんだトッ!?」
ガロウが咆哮し、考えるより先に動いた。
斧を片手で振り抜き、霧の濃い方向へ投げつける。
――轟音。
斧は狙い違わず、木ごと叩き砕いた。
枝葉が吹き飛び、霧の奥から何かが崩れ落ちる。
だが、地面に転がったのは肉体ではない。
輪郭だけを残した影が、
煙のように揺らぎ――消えた。
「……幻影か」
ガロウが舌打ちする。
「……森が、敵そのものだな」
漣司の声は低く、冷え切っていた。
驚きも、焦りもない。ただ状況を正確に切り取っている。
「焦るな。敵は我々を試している。
混乱すれば、その瞬間に詰みだ」
その言葉通り、矢雨は唐突に止んだ。
まるで最初から、長く続けるつもりなどなかったかのように。
森は再び沈黙を取り戻す。
霧が漂い、風が葉を揺らすだけの光景。
負傷した兵士は少ない。致命傷も、即死者も出ていない。
――だが、それがかえって異様だった。
ミナが膝をつき、地面に突き立っていた矢を一本引き抜く。
指先で転がし、じっと観察する。
「……これ、全部同じ作り」
もう一本、さらにもう一本。拾い集め、並べる。
「重心、削り、羽根の角度……全部、寸分違わない」
ルーチェが目を細める。
「つまり、矢職人が一人……
あるいは、完全に統制された戦術単位がひとつ」
「統制が取れすぎてる」
リュシアが低く呟いた。
そこには、明確な違和感があった。
「盗賊にしては、整いすぎですわ」
ロイが静かにうなずく。
「これは……軍の動きだ補給、配置、撤退――
全部、計算されている」
漣司はゆっくりと視線を巡らせ、森の奥を見据えた。
敵の姿は見えない。気配も、すでに薄れている。
「敵の本拠地はまだ見えない
……だが、この森一帯、完全に地の利を取られているな」
その一言が、重く落ちた。
これは単なる盗賊討伐ではない。
森を戦場に変えることを知り尽くした――
何者かとの、本格的な戦の始まりだった。
◇
森の中腹。
人の視線が届かぬ高さ――
絡み合う枝の上に、ひとつの影が腰を下ろしていた。
ボロ切れ同然のマントを羽織った男。
風に揺れる布の隙間からのぞく体躯は引き締まり、無駄がない。
長弓を片手に、まるで獣が獲物を見下ろすような目で、
戦場を俯瞰していた。
盗賊団長、ザハード。
彼は弓弦を指先で軽く弾く。
張り詰めた音が、霧に吸い込まれて消えた。
「悪くねぇな」
低く、乾いた声。
「反応も速ぇ。……だが、まだ森の本気じゃねぇ」
その背後、同じく枝に身を預けたチカが、眉をひそめた。
「軽く小突いただけなのに、全部嗅ぎ取られたよ」
ゴローも同意する。
「こっちが仕掛けたの、一瞬で見抜いた」
ザハードは答えない。
代わりに、矢を一本取り出し、静かに弦へと番えた。
矢尻が向けられた先――
霧の向こう、陣形を立て直す二階堂商会の中央。
そこに立つ、漣司の位置を、迷いなく捉えている。
「だからこそ、だ」
声は低く、確信に満ちていた。
「次は狩場に引きずり込む。
道も、風も、視界も――全部、俺たちの土俵だ」
矢を引き絞りながら、獣のように笑う。
「森を知る者が、森で負けるわけがねぇ。
……そうだろ?」
その瞬間、足元の焚火が、ふっと消えた。
合図のように、霧が濃くなり、森の輪郭が曖昧になる。
音は消え、気配も溶ける。
ザハードの姿も、チカの姿も、枝の上から完全に消失した。
残ったのは、再び牙を隠した森と――
次の一手を待つ、狩人の沈黙だけだった。
◇
夕暮れ。
矢を抜かれた木々の隙間を、
冷えた風が細く縫うように通り抜けていく。
切り裂かれた樹皮の匂いが、
鉄と土の気配を孕んで漂っていた。
ミナは回収した矢を一本、強く握りしめる。
指先に伝わる重さは、ただの武器のそれではない。
「……いやな感覚ね」
低く、確信を含んだ声。
「これは様子見でもない。
――始まりよ。完全に、私たちを狩りに来てる」
漣司は答えず、ゆっくりと空を仰いだ。
濃い霧の上、わずかに差し込む夕光が、
湖面のように揺らめいている。
その光は美しく、同時に、どこか冷たい。
「森に地の利を握られたままでは、いずれ消耗する」
静かな声だった。だが、迷いはない。
「……次は、こちらが盤を動かす番だ。
森を戦場から、管理下に置く」
その言葉に呼応するかのように、
霧がざわりと波打ち、木々が一斉に軋んだ。
まるで森そのものが、人の意思を測るように――
息を潜めたかのようだった。
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