第87章 森を見張る影 ― 虎視眈々
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
森は、あまりにも静かだった。
ラクリア郊外――湖を背に抱く緑の稜線。
その中腹では、斧が木に食い込む鈍い音と、
作業員たちの掛け声が規則正しく響いている。
伐採と整地は順調だった。
倒された木々は道の形を成し、踏み固められた地面が、
森の奥へと確かに伸びていく。
風が抜けるたび、切り株の青い香りと、湿った土の匂いが混ざり合った。
――表向きには、何の問題もない。
「よし、今日も手を止めるな!」
ロイの声が森に通る。
労働者たちは一斉に「はい!」と応じ、再び斧を振り下ろした。
ガロウは斧を肩に担ぎ、森の入口に立っている。
獣のような眼差しで、奥へ奥へと視線を巡らせていた。
ルーチェは地脈測定具を手に、地面へ膝をつく。
霧の残留魔力を一つひとつ丁寧に消し去り、森の呼吸を整えていく。
その中で――
ミナだけが、作業の輪から少し離れ、木陰に立っていた。
視線は、森の奥。
光の届かぬ、葉の重なり合う暗がりへ。
「……静かすぎる」
誰に聞かせるでもない呟き。
だが、その声には、確かな引っ掛かりがあった。
風の向こうに、何かがいる。
木の葉の揺れ方、空気の流れ――
そこに、わずかな異物が混ざっている。
「霧はもう晴れたのに……」
ミナは目を細める。
「森が、息をしてない」
その言葉に、ガロウが低く応じた。
「静けェ時ほど、牙は隠れてンだ。油断スンナ」
斧を握る指に、力がこもる。
ロイも振り返った。
「まさか……また魔物か?」
「……違う」
ミナは迷いなく首を振った。
その仕草だけで、否定の強さが伝わる。
「魔物じゃない。これは――人の気配よ」
だが、それ以上は掴めなかった。
気配は、掴もうとした瞬間に溶けるように消えている。
そのとき、風が一度、強く吹き抜けた。
木々がざわめき、ミナの髪が大きくなびく。
何事もなかったかのように、森は沈黙した。
あまりにも、完璧な静寂。
まるで、何かが待っているかのように。
森は、再び沈黙した。
◇
――その数刻後。
森のさらに上、陽光すら遮る枝葉の層。
幾重にも絡み合った木々の隙間、その安全圏から、
二つの影が地上を見下ろしていた。
見下ろす先――
そこでは、二階堂商会の作業現場が、
信じがたい速度で森を書き換えている。
「……すごいことやってんな、二階堂商会」
枝に器用に腰を引っかけ、チカが弓を構えたまま目を細める。
視線の先では、巨木が斧の一振りで裂け、
地面が整地され、道が形を成しつつあった。
隣でゴローが望遠鏡を覗き込み、思わず声を漏らす。
「うへぇ……あのデカいの、木ごと叩き割ってんぞ。
斧っていうか、もう戦争兵器だろ」
「感心してる場合?」
チカが即座に冷水を浴びせる。
「あの連中、前にカストリアで私たちをやり込めた相手よ」
「忘れてねぇさ」
ゴローは望遠鏡から目を離さず、歯を見せて笑った。
「あの社長の面、目に焼きついてる。今度こそ借りを返す時だ」
その瞬間、枝の間を風が抜けた。
葉擦れの音が、緊張を煽る――はずだった。
だが、そのの中でもどこか間の抜けた空気が流れている。
チカが横目でゴローを睨む。
「……ちょっと」
「ん?」
「矢、逆よ」
「は?」
「逆! 弓の下向きに差してどうすんの!」
「えっ、あ、あれ? おかしいな、さっきまでちゃんと――」
「緊張してると上下も分かんなくなるの!?」
「いや、ほら、俺って繊細だから!」
「このバカ!」
ぺしっ、と軽い音。
木の上で頭をはたかれ、ゴローがバランスを崩しかける。
「いってぇ! 落ちたらどうすんだよ!」
「落ちたら落ちたで囮になるでしょ」
「扱い雑すぎだろ!」
騒がしいやり取りとは裏腹に、二人の目だけは冗談抜きで鋭かった。
弓も、望遠鏡も、確かに狙うための位置に戻っている。
チカは息を整え、もう一度地上を見据える。
「……油断はしない。相手は本物よ」
「ああ」
ゴローは笑みを消し、低く応じた。
「獲物は、ちゃんと見極めてからだ」
彼らは、確かに漣司たちを獲物として見据えていた。
◇
森のさらに奥――
人の気配を拒むように口を開けた、古い岩窟。
その内部に、盗賊団の本隊は陣取っていた。
焚火が低く唸り、赤い光が岩壁を舐める。
粗末な地図の上に揺れる影は、獣の牙のように歪んでいた。
頭領は無精髭の男。
片目を斜めに走る傷跡が、焚火の明滅に合わせて生々しく浮かび上がる。
「――奴ら、森の中腹まで進出してきている」
重く、湿った声が洞内に落ちた。
「このままじゃ、俺たちのシマが……道に変わっちまう」
空気がぴり、と張り詰める。
副官が一歩前に出て、静かに問いかけた。
「どう動きます?」
頭領は迷いなく、地図の一点を指で叩いた。
「中腹だ。丁度、奴らが足を踏み入れた所を叩く。あそこが補給線になる」
指先が岩肌を打つ乾いた音が、決定の合図だった。
「弓兵を高所に配置しろ。幻影術師どもは森の魔力を引き出せ。
霧狼の残骸がまだ残ってるはずだ」
「……あの術を?」
「再現できるだろ」
頭領は口の端を吊り上げた。
「霧と幻で森を歪める。道は消え、距離は狂い、上下もわからなくなる」
「――迷いの森、再びってわけだ」
洞内に、低い笑いが広がった。
「迷った獲物は、必ず止まる。止まった瞬間を――上から射抜く」
頭領の独眼が、ぎらりと光る。
「迷う森の中じゃ、誰も自分の位置がわからねぇ。
そこを、俺たちの矢で仕留める。
――森の中央、我らの一番得有利な場所でな」
その言葉に、集まった者たちは無言で頷いた。
チカも、ゴローも、影の中で静かに首を縦に振る。
胸の奥で、燻っていた感情が形を持つ。
焦りではない。恐怖でもない。
――復讐だ。
かつて打ち砕かれた誇り。
踏み潰された縄張り。
そして、忘れられぬ名。
二階堂商会。
焚火が大きく弾け、火の粉が宙を舞った。
それはまるで、これから森に放たれる殺意の予兆のようだった。
復讐の機会がついに来た。
あの「二階堂商会」を、今度こそ屈服させる時が。
◇
再び、森の中腹。
日が傾き、木々の輪郭が溶けるように金色へと染まっていく。
光と影の境界が曖昧になり、森全体が息を潜めたようだった。
ミナは足を止め、ゆっくりと周囲を見渡す。
手帳に走らせたペンが、かすかに震えた。
「……やっぱり、何かいる」
確信に近い感覚。
だが次の瞬間、風が流れ――気配は霧のように散った。
上空を横切るカラスが一羽、低く鳴いて森の奥へ消えていく。
羽ばたきの音だけが、やけに大きく響いた。
その様子を、少し離れた場所から漣司が見つめていた。
表情は変えず、ただ静かに言葉を落とす。
「……動くな。森の影が」
まるで、見えない何かに向けた警告のように。
――その頃、森のさらに奥。
盗賊団の一人が、息を殺して弓を引く。
一本の矢が、夜風に揺れながら弦に掛けられた。
焚火が小さく爆ぜ、火の粉が闇へ散る。
それを合図にしたかのように、森の暗がりが、ひそやかに笑った。
静寂は、もう終わりだ。次に響くのは――矢が風を裂く音になる。
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