第86章 森を繋ぐ者たち ― 新たなる経済戦線
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
白亜の柱が整然と並ぶ、ラクリア議事堂の一室。
高い天井から落ちる柔らかな光が、磨かれた床を淡く照らしている。
壁一面に掲げられた大地図には、湖の輪郭と森の濃淡、
そこを縫うように伸びる細い獣道が、繊細な線で描かれていた。
臨時に設えられた長卓には、二階堂商会の役員たちに加え、
ラクリア側の測量士、魔術師団の代表、
兵士団の代表が並んで腰掛けている。
開かれた窓から湖風が吹き込み、紙束をめくった。
さらり、と乾いた音。
何枚もの設計図が、互いに触れ合って小さくさざめく。
漣司は卓の先に立ち、地図を見下ろしたまま、
手元のペンを静かに走らせた。
細い線が、森を横切るように一本、引かれる。
「我々の目的は、森を制圧することではない」
ペン先が止まる。
「――森を、道に変えることだ」
短い言葉だった。
だが、その一言で場の空気がぴたりと揃う。
敵を打ち倒すのではなく、人と物が行き交う流れをつくる。
武と経――
二つの論理が噛み合う地点を、最初に明確に打ち込む宣言だった。
誰かが小さく息を整える気配がした。
リュシアが書類の束を整え、一枚を卓上に滑らせる。
視線は冷静そのものだが、数字を操る指先には、
わずかな自信の熱が宿っている。
「予算骨子を提示します」
彼女は淡々と切り出した。
「第一期は、開削・測量・仮橋梁に重点を置きます」
図面の端を指で押さえ、項目を示す。
「資材の三割は現地調達。残り七割は、
バルメリアからの搬入です」
視線が測量士へと向けられる。
「物資列の護衛費は兵団と折半。
支払いは出来高ベースで管理します」
言い切る声音には、曖昧さがない。
計算済みの数字と責任の所在が、はっきりと刻まれている。
測量士は一拍置き、ゆっくりと頷いた。
紙の擦れる音と、湖風の気配だけが、静かに室内を満たしていく。
◇
地図の端を押さえ、測量士が指先で湿地の記号をなぞった。
湖に近い低地。淡い青で塗られた部分が、まだらに点在している。
「地形は緩やかですが……湿地帯が点在しますな。
仮設路盤が必要になります」
紙の上で、指が小さく円を描く。
その言葉を待っていたかのように、リュシアが顔を上げた。
ペン先が止まることなく、即座に返る。
「承知しました。木製パネルと砂利の併用で、
コストを抑えましょう」
迷いのない即答だった。
材料の調達経路、輸送量、設置工数――
すでに頭の中で一度、計算が終わっている声音だ。
その流れに、ミナが椅子をきしませながら身を乗り出した。
「でも、森の中――まだ霧の残り香があるのよ」
指先で空をなぞる。
「自然に出る霧じゃないわ。
術式が継続してる可能性、低くない」
場の空気が、わずかに引き締まる。
ルーチェが軽く顎に指を添え、目を伏せて感覚を探った。
白いまつ毛が、ほんのわずかに揺れる。
「拙者も、同意でござる」
静かな声。
「魔力の波形が一定でなく、周期的な脈を感じ申す。
結界の核が、どこかで鼓動しておるやもしれぬ」
見えないものを言葉に変換する、
その慎重な言い回しに、数名が小さく息を呑む。
その空気を、豪快に破ったのがガロウだった。
「だったら、核をぶっ壊せば早ェ話ダ!」
大斧の柄を、床に軽く打ち鳴らす。
鈍い音が、議事堂の壁に反響した。
「道はドーンと通せばイイ!」
力こそ正義、と言わんばかりの笑み。
だが――
「破壊は、予算外ですわ」
リュシアの声が、即座に飛んだ。
冷静で、寸分の揺らぎもない切り返し。
ガロウの勢いに、まるで刃を差し込むような一言だった。
卓の上に、静かな緊張が走る。
「出た、経理の女神……」
ミナがわざとらしく肩をすくめる。
その言い方が妙に大げさで、
卓の周囲にくすりと小さな笑いが走った。
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけやわらぐ。
その隙を縫うように、ラクリア側の兵士代表が手を挙げた。
革手袋の指先が、地図の森の部分を示す。
「盗賊の出没域は、主に森の中段です。
街まで襲いに来ることは滅多にありませんが――
戻りの輸送列を狙ってきます」
声が少し低くなる。
「弓の腕が立つ連中が混じっています。
油断は禁物です」
「戻りが危ない、か」
漣司は短く応じ、地図の折り目を指でなぞった。
紙のしわに沿って、指先がゆっくりと滑る。
「議会長も、同じことを言っていたな」
笑いの余韻が消え、
会議の空気は自然と次の現実へ戻っていった。
「往路と復路で、時間差の護衛線を引く」
漣司は地図上に指で二本の線を描き、わずかにずらした。
「ここで――ロイの才覚が要る」
名を呼ばれ、ロイは静かに一歩前へ出る。
背筋は崩さず、視線は地図と卓上の資料を素早く行き来した。
考えは、もう整理されている。
「労務隊は班単位で再編成します」
迷いのない声。
「各班に士気維持係を置き、帰路では補給と士気、
この二本で崩れを塞ぎます。疲労は必ず判断力を鈍らせる。
そこを仕組みで支えます」
彼は指先で、森沿いの数点を示した。
「沿道に休憩拠点も置きましょう。
温かいスープと簡易な手当てだけでも、人は踏みとどまれる。
……いえ、戻って来られる」
言い切りのあと、わずかな間が落ちる。
戦場の数字ではなく、
人の足取りを想像して組み上げた案だと、誰の目にもわかった。
「人は戻って来られる、か」
漣司は口角をわずかに上げる。
「いい言葉だ。机上の勝利じゃない。
ちゃんと人が帰ってくる計画だな」
ロイは小さく息を整え、深く一礼した。
その背中には、盾役だけではない
――隊を支える柱の気配が、確かに宿っていた。
「任務の割当を確認する」
漣司は視線で役員を順に射抜いた。
「リュシア――資材・賃金・護衛費の三本柱を統括。
支払いは日々締め、帳簿は誰が見てもわかる現場帳に落とせ」
「承知しました。現場帳は閲覧自由に。数字で信頼を積み上げます」
「ミナ――盗賊動向の監視と交渉の窓口。
必要なら潜る。その場合は必ず帰りの足を二本準備しろ」
「了解。森の中を走り回って、怪しい動きは全部拾ってくる」
「ロイ――労務隊の編成、健康管理、士気維持。
『守る』のではなく『導く』だ」
「畏まりました。働く誇りを保ったまま帰ってこられる列にします」
「ガロウ――伐採隊と護衛の指揮。
乱暴ではなく迅速、威圧ではなく抑止だ」
「任セロ。刃を振るうのは最後ダ。
だが振るう時は、一度で終わらせル」
「ルーチェ――霧の残留魔力の計測と中和、結界核の探索。
光で道を示せ」
「拙者の光、必ずや道標と致しまする」
ラクリア側の魔術師団長が口を開いた。
「我らも魔法結界の補助を担います。
街の学徒も志願しておりますが……危険は?」
ガロウが短く言い切る。
「学徒には最前列を歩かせねェ。頭は守るべき命ダ」」
団長は目を細め、深く礼をした。
「その方針に感謝を」
「物流線の設計は私が詰める」
漣司は新たな紙を広げ、三本のルートを描いた。
「第一線:伐採・測量の作業線。
第二線:補給と休憩の支援線。
第三線:予備・救護の安全線。三本を網にして動かす。
どれかが切れても全体は止まらない。
これは武でも経でも同じだ」
測量士が感嘆の声を漏らす。
「戦場の兵站を、そのまま交易に転用……!」
ミナが小声で囁いた。
「ねぇ社長、もし盗賊に話がわかるやつがいれば、
交渉の余地もあるわ。たぶん全部が悪じゃない」
「その判断は任せる。
ただし線をまたぐ者にはルールを与えろ。
従えば保護、破れば排除だ」
「了解」
会議の終わりに近づき、ルーチェがそっと手を上げた。
「ひとつ提案を。
夜間、湖面の光を反射させ光の道
を森の入口に掲げ申す。
迷いの気を払うと同時に、人心の支えとなりましょう」
リュシアが頷く。
「象徴は費用対効果が高い。迷わぬ列は、遅れない列ですわ」
「いい。――やろう」
漣司は即決した。
最後に、彼はゆっくりと卓から一歩退き、全員を見渡した。
「森は脅威ではない。私たちの経済圏を広げる最初の試練だ。
武は道を切り開き、経は道を太くする。
魔は道を迷わせず、民は道を歩いて強くなる」
息を一つ置き、言葉を結ぶ。
「――やるぞ。武装法人の名に恥じぬ仕事を」
椅子が一斉に鳴り、返事が重なる。
「承知しました」
「任せて!」
「やってみせます」
「オウ!」
「拙者、光を掲げ申す!」
会議が解散すると、廊下の向こうから金具の触れ合う音、
外庭では木材の搬入、鍛冶の鎚音が次々に重なり始めた。
ラクリアの街に、新しい拍動が生まれる。
商会の旗が庁舎の塔に揚がり、湖風をはらんで大きく翻った。
その日、ラクリアの空に初めて道の設計図が描かれた。
森を越え、街と街を繋ぐ――
単なる施工ではなく、時代の流れを再び動かす経済の戦。
二階堂商会は、水と光の都を背に、
静かに、しかし確かに前進を始めた。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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