第85章 湖上の契約 ― ラクリア買収
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
ラクリア議会庁舎。
磨き上げられた白壁に、外光がやわらかく反射し、
波に揺れる湖面の輝きが天井へと淡く映り込む。
水と光が静かに呼吸するような空間――そこに、重厚な沈黙が満ちていた。
その静謐な空間で、漣司とリシュアは円卓を挟んで座っている。
向かいの席には、ラクリア議会長を筆頭とする市の代表者たち。
誰もが緊張の面持ちで沈黙していた。
漣司が、丁寧な所作で一通の文書を差し出す。
「――こちらが、我々二階堂商会の提示する条件です」
抑揚のない声。
しかし、それは冷淡さではなく、感情を削ぎ落とした誠実さだった。
言葉は水面に落ちる一滴の雫のように、広間へと静かに波紋を広げる。
議会長が慎重に書面を開き、目を通していく。
「……なるほど。自治の尊重、交易路の開放、財政監査の透明化」
読み上げられる文言に、他の議員たちが小さく息をのむ。
それは奪うための条項ではなく、秩序を整えるための言葉だった。
「我らは支配ではなく、協調を望みます」
漣司は一切の威圧を排し、穏やかな口調で続けた。
「商会の資本をもって交易路を整備し、ラクリアの産業と学問を支援する。
湖上都市が持つ知と技術が、より広い世界へ届くようにするためです」
言葉に合わせるように、天井の光がわずかに揺らめいた。
湖面の反射が、議会長の手元の書面を淡く照らす。
「その代わりに、市の管理権の一部を法人の共同管理下に置く。
独立は守る。だが孤立はさせない――それが、我々の条件です」
議員たちの表情には、警戒と同時に、抑えきれない現実的な期待が滲んでいた。
湖上都市ラクリアは、平和であるがゆえに、変革を避けてきた街でもある。
その停滞を破る提案が、今、光の下に差し出されていた。
円卓の上で、書状が静かに重みを放つ。
それは契約書であり、未来への橋でもあった。
◇
議会長は、すぐには答えなかった。
白い円卓に肘を置き、指を組んだまま、湖面の反射が揺れる天井を一度だけ仰ぐ。
その沈黙は長く、しかし無意味ではない――
都市の未来を量る、重さのある間だった。
やがて、深く息を吐き、ゆっくりと頷く。
「……悪くない提案ですな」
低く、しかしはっきりとした声。
「この街は、長らく湖の上で閉じてきました。
平和と引き換えに、外と繋がる術を失っていたのです。
交易路の再興――それは、我々議会にとっても悲願でした」
言葉が落ちた瞬間、議員たちの間に小さなざわめきが走る。
反対の声はない。あるのは、覚悟を決めた者たちの沈黙だけ。
「――確認します」
湖上都市ラクリアの議会長が、息を呑む。
「ラクリア市議会は、自らの都市管理権の一部を保持したまま、
財務・交易・流通管理を――
武装法人二階堂商会との共同管理下に置く」
その言葉は、命令ではない。
契約の最終確認だった。
「自治は尊重される。意思決定は議会に残る。
我々が担うのは、流れを止めぬための循環だ」
議会長は、視線を伏せ――
そして、はっきりと顔を上げた。
「……理解しました」
その空気を受け取り、漣司の口元が、わずかに緩んだ。
勝ち誇る笑みではない。
条件が噛み合ったことを確信した者の、静かな微笑だった。
「――承認いただける、ということでよろしいですね?」
念押しの一言。
議会長は、今度は迷わず頷く。
「ええ。ラクリア議会として、この協定を正式に受諾いたします」
その一言が、鍵だった。
金色の光が――
水面に石を投じたかのように、静かに、しかし確実に広がった。
光は波紋となり、床を伝い、
円卓、議事録、壁に刻まれた都市紋章へと連なっていく。
『――条件確認完了――』
『対象:湖上都市ラクリア』
『承認:ラクリア市議会 代表議会長』
『契約形態:共同管理協定』
スキル《企業買収(M&A)》――発動。
議場全体が、微細な振動に包まれる。
風は吹いていない。だが、光が揺れ、音にならない圧が床から立ち上った。
漣司が、ゆっくりと席を立つ。その動きに合わせ、視線が一斉に集まった。
彼は懐へ手を伸ばし、一冊の帳簿を取り出す。
革表紙に刻まれた、二階堂商会の紋章。指先で、ことりと表紙を叩く。
「――《買う》」
淡い金色の光が、帳簿から溢れ出す。
光は奔流にならず、静かに、しかし確実に議場を満たしていく。
白壁に刻まれた都市紋章が、ゆらりと揺れた。
石に彫られたはずの古い印章が、まるで生き物のように脈打ち、
低い共鳴音を立てる。
床下深く、議会庁舎の礎に封じられていた都市登録印が反応した。
湖上都市ラクリアが、都市として成立した瞬間から眠り続けていた、
契約の核。
金光がそれを包み込み、次の瞬間――
二階堂商会の紋が、重なる。
ラクリアは、正式に二階堂商会の統治下へと組み込まれた。
支配ではない。
奪取でもない。
――合意による買収。
湖上都市ラクリアは、光の下で、新たな契約を結んだのだった。
拒絶はない。軋みも、抵抗もない。
まるで、長く待ち続けていたかのように。
古い契約が、新たな管理者を認めたかのように。
光は、静かに収束する。議場には再び、穏やかな湖光だけが残った。
◇
会談が終わり、漣司は静かに書類を閉じた。
羊皮紙が重なり合う乾いた音が、議場に区切りを与える。
緊張の糸が解け、円卓を包んでいた空気が、
ようやく人のものへと戻った。
「交易路の整備を進め次第、貴市への物資供給と輸送網を再開します」
淡々とした口調。
だが、その一言が意味するのは、湖上都市の停滞が終わるという宣言だった。
議会長は、肩の力を抜くように息を吐き、安堵の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます……。
交易網が再び動けば、街に人が戻り、若者も未来を描けるでしょう」
議員たちの間に、小さな頷きが連なった。
希望という言葉を、久しく使っていなかった者たちの表情だ。
「こちらこそ感謝を。この街が持つ価値は、数字以上のものです」
そう応じながら、議会長はふと視線を落とした。
微かな躊躇が、顔に影を落とす。
「……ただ、一つだけ忠告を」
声が、わずかに低くなる。
「森を抜ける道は、入るより戻るほうが危ないのです」
漣司の視線が、鋭く細まった。
「魔物のことですか?先日、森で遭遇しましたが、既に討伐済みです」
議会長は、ゆっくりと首を振る。
否定の動きは小さいが、迷いはなかった。
「いえ……本当に危険なのは、魔物ではありません」
その一言が落ちた瞬間、議場の空気が再び張り詰めた。
「――人です」
湖光は変わらず穏やかなのに、背筋を冷たいものが走る。
◇
「森には、盗賊団が根を張っております」
議会長の声は低く、しかし確かな重みを帯びていた。
白壁に反射する湖光が、かえってその言葉の影を濃くする。
「街にこそ滅多に手を出しませんが、交易商人が幾度となく襲われておる」
円卓の上に、見えない血の跡が浮かぶかのようだった。
「それが原因で、バルメリアをはじめ、他都市との商いは途絶え……
この街は、湖の上で孤立したのです」
「なるほど……」
漣司は静かに腕を組んだ。
声は抑えているが、その思考はすでに次の盤面へ進んでいる。
「幸い、街は自給自足できますが、このままでは閉じた都市になる」
議会長は目を伏せた。
「排他のままでは、緩やかな衰退を免れないでしょう」
議会長は目を伏せた。その沈黙は、否定ではなく――覚悟だった。
やがて、深く息を吸い、顔を上げる。
「――ゆえに、お願いがございます」
議場にいる全員の視線が、二人に集まった。
「森を切り開く際、我らの戦士と魔導士を同行させてください。
商会に守られるのではなく、共に戦い、共に道を拓く。
それこそが……真の友好だと、我々は信じております」
覚悟の言葉だった。
ラクリアは、ただ守られる都市であることを選ばなかった。
漣司は、その目を真正面から受け止め――
わずかに、だが確かに、口角を上げた。
「ありがたいお申し出です」
柔らかな声。しかし、その奥には鋼の響きがある。
「商売だけなら、金と契約で足ります。
ですが我らは『武装法人』戦いにも自信があります。
……共に歩きましょう」
議会長は、張り詰めていた肩から力を抜き、安堵の息を漏らした。
その表情には、長い孤立を越えた者だけが浮かべる光が宿っている。
「ええ……。どうか、よろしくお願いいたします。漣司殿」
◇
夕刻。
湖から吹き上げる涼風が、宿の窓をかすかに鳴らしていた。
仮本部として使われている一室――
昼間の会談の余韻を残したまま、二階堂商会の役員会議が開かれている。
漣司は卓の中央に立ち、ゆっくりと一同を見渡した。
その眼差しには、確信と静かな達成感が宿っている。
「ラクリア、正式買収――完了だ」
室内がざわめき、歓声が上がる。
「やったじゃない!」
最初に声を上げたのはミナだった。両手を叩き、子どものように笑う。
「これでまた交易が増えますね」
リュシアは安堵を滲ませた微笑みを浮かべる。
数字と帳簿の先にある街の未来を、彼女は確かに見ていた。
「兵どもも気合いが入ってきタ」
ガロウが腕を組んだまま、力強くうなずく。
すでに彼の頭の中では、訓練と布陣が組み上がっている。
「これで……民の暮らしが、少しは楽になりますね」
ロイは穏やかに笑った。
その言葉は、誰よりも現場を見てきた者の実感だった。
ルーチェもまた、誇らしげに胸を張る。
「この街もまた、光を取り戻したのでござるな」
控えめながらも、心からの喜びが滲む声。
漣司は静かに立ち上がる。
歓声が自然と収まり、全員の視線が彼に集まった。
「次の任務は、明確だ」
低く、よく通る声。
「――森の交易路を開く」
空気が一段、引き締まる。
「我らは商会であり、同時に武装組織だ。
交渉で得た地は守り、流通で支え、民を潤す」
夕陽が窓越しに差し込み、彼の背に長い影を落とす。
「それこそが、統治すれど支配せず――二階堂商会が掲げる、本懐だ」
役員たちの目に、迷いはなかった。
そこにあるのは、同じ方向を見据える覚悟の光。
「承知しました」
「任せロ!」
「りょーかい!」
「分かりました」
「必ずや、成果を」
声が重なり合い、室内に力強く響く。
湖上の都市ラクリア――
二階堂商会の新たな業務が、いま静かに始まった。
森を越え、街と街を繋ぐ――それは単なる交易路の整備ではない。
人と人、思想と未来を結ぶ大動脈を築く戦いだった。
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