第83章 湖の街に馴染む者たち ― 静かな街に灯る息吹
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
ラクリアに到着してから、すでに数日が経っていた。
慌ただしい移動と緊張に満ちた初日を越え、
街は少しずつ彼らを拒まない空気へと変えていく。
湖上に築かれたこの都市は、朝と夕でまるで別の顔を見せる。
朝、低い角度の光が水面に射し込むと、湖は巨大な鏡となり、
揺れる反射が白壁の家々を淡い金色に塗り替えていく。
夕刻には、沈みゆく陽が長い影を落とし、同じ白い街並みを、
温度のある黄金へと変貌させる――
その光景は、まるで街そのものが呼吸しているかのようだった。
穏やかな風が水路を抜け、石畳の通りを渡っていく。
帆を下ろしたままの小舟が軋み、湖面には小さな波紋が幾重にも広がる。
耳を澄ませば、遠くで鐘が鳴り、どこかで扉が閉まる音がする。
活気に満ちているとは言い難いが、確かに生きている――
そんな静けさが、街全体を包み込んでいた。
時間の流れさえ、ここでは一段階、緩められているように感じられる。
急ぐ必要のない歩調。
言葉を選びながら交わされる挨拶。
この湖の街は、外から来た者にも、同じ呼吸を強いる。
二階堂商会の面々も、それぞれの形でラクリアに馴染み始めていた。
市場の空気を測る者、路地の動線を覚える者、
街の人々の視線や距離感を静かに観察する者。
目立たぬように、しかし確実に、彼らはこの街の日常へと溶け込んでいく。
まだ歯車は噛み合いきっていない。
だが、止まりかけていた街の中に、微かな熱が灯り始めている。
湖面に揺れる光とともに――
静かなラクリアの一日は、今日もまた、ゆっくりと動き続けていた。
◇
リュシアは毎朝、宿からまっすぐ街の中央区にある大図書館へと足を運んでいた。
湖の都にふさわしく、そこは白大理石の柱とアーチで囲まれた静謐な空間だ。
中に入ると、紙とインクの香りが漂う。
「おや、また来られたのですか、二階堂商会の方」
声をかけたのは、館の司書だった。
年配の女性で、リュシアの几帳面な整理癖と、
知識に対する真摯な姿勢を気に入っているらしい。
「ええ。ラクリアの財政資料や商業記録を閲覧できる場所は、ここだけですから」
「ですが、閲覧許可が下りるのは異例ですよ。
……あなた方が、バルメリアを立て直したからです」
司書の言葉に、リュシアは小さく微笑む。
「光栄ですわ。とはいえ、まだまだ知りたいことが山ほどあります」
その日も彼女は帳簿をめくり、魔力灯の下で淡々と筆を走らせていった。
彼女の姿はいつしか、図書館の常連たちの間でも有名になっていた。
◇
昼下がりの市場。
ロイはいつの間にか、街の子どもたちに囲まれていた。
肩にはパン籠、腕には果物の山。
「ロイおにいちゃん、今日もパン持ってきたのー!?」
「違う!今日はちゃんと買ってる!こら、勝手に取るな!」
笑いながら注意するロイに、子どもたちはけらけらと笑う。
近くの店主が声をかけた。
「まったく、子どもに好かれすぎだなあんた。最初はよそ者扱いだったのに」
「まぁ、話を聞くだけだからな。
働く大人も、遊ぶ子どもも、どっちもこの街の声だ」
ロイはそう言って、少し照れくさそうに笑った。
最近では市場を歩くだけで「ロイ!」と名を呼ばれ、
手を振られるほどの人気者になっていた。
◇
その頃、ミナは通りのカフェで商人たちの噂を聞き出していた。
ただし、その隣には――監視役のリュシアがいる。
「……でね、最近ラクリアの貿易商人が、
北方ルートの再開を狙ってるって話なのよ」
「ふむ、なるほど。裏付けは?」
「えぇっと……これから取るつもりなんだけど?」
「これからでは、報告書に書けませんわ」
リュシアの淡々とした返答に、ミナはむっと頬をふくらませる。
「だから監視って苦手なのよ……リュシアさん真面目すぎ!」
「社長の命令ですから」
だが、実際のところミナは、リュシアの分析力を頼りにしていた。
行動は制限されるが、情報の裏取りは確実に早くなった。
互いに小言を言い合いながらも、二人の息は以前よりも合っているように見えた。
◇
一方、街の訓練場では、乾いた土の匂いと、人いきれが立ちこめていた。
整列したラクリアの兵士たちの列の中央を、ひときわ大柄な影が歩き回る。
ガロウだ。
鎧は簡素。外套も脱ぎ捨て、肩から背中にかけて汗で濃く色を変えている。
その視線は、ひとりひとりの足運び、腰の沈み、剣の軌道を逃さず追っていた。
「そこだァ! 腰が高イ! 地面を踏めェ!!
剣は腕で振るもんじゃねェ、足と腹で叩き込むんダ!!」
兵士の一人が必死に構え直すが、脚が震え、姿勢が崩れる。
「ガ、ガロウ隊長っ……もう足が……!」
息を切らした声が漏れた瞬間、ガロウはその前に踏み込み、
視線を真正面からぶつけた。
「泣き言言うナ!
その足で立つ場所は、テメェ一人の地面じゃねェ。
家族の家だ。仲間の背中だ。――街そのものダロ!!」
兵士の瞳が揺れ、歯を食いしばる。
再び腰を落とし、剣を構え直す姿に、周囲の兵士たちの表情も引き締まっていく。
誰かが一歩踏み込めば、隣も続く。
苦笑混じりだった空気は、いつの間にか熱を帯び、呼吸の荒ささえ揃っていった。
やがて訓練が一区切りつくと、兵士たちは地面に腰を下ろし、水筒を回し合う。
額の汗を拭いながら、誰かがぽつりと呟いた。
「隊長……あんたが来てから、街の空気が違う」
ガロウは腕を組んだまま、鼻を鳴らす。
「オレは隊長じゃねェ。ただの通りすがりの商人ダ」
それでも、兵士の一人がまっすぐに言葉を重ねた。
「……それでも、俺たちは、あんたを信じてる」
一瞬、ガロウの目が泳ぐ。
視線を逸らし、照れ隠しのように頭を掻いた。
「フン……勝手に信じロ」
ぶっきらぼうな言葉とは裏腹に、口元はわずかに緩んでいる。
汗と土にまみれた顔で、誰よりも嬉しそうに笑っていたのは、
他ならぬガロウ自身だった。
◇
湖畔の石畳、その端に腰を下ろし、ルーチェは几帳面に地図を広げていた。
魔力測定具は陽光を受けて淡く輝き、刻まれた指標が微細に震えている。
風に揺れる湖面と、紙の端を押さえる白い指。
その光景だけで、彼女が観測という行為にどれほど真剣かが伝わってきた。
そこへ、控えめな足音が重なる。
振り返ると、同じ魔法理論を研究する学者や学生たちが、
遠慮がちに距離を詰めてきていた。
視線は地図と測定具、そして何よりルーチェ自身に吸い寄せられている。
「あなたが例の光の道を開いた方ですか?」
問いかけに、ルーチェは肩を小さくすくめる。
「む、拙者はただの一介の旅人にござるよ」
だが、言い終わる前に、熱のこもった声が被さった。
「いえ! あの術式、記録を基に解析しましたが、
どうしても再現できなかったんです!」
「魔力波の重なり方が理論値を超えていて……ぜひ、ご教示を!」
「そ、そなたら、拙者を過大評価しておるでござる……!」
慌てて手を振るが、時すでに遅し。
半円を描くように人が集まり、気づけば湖畔は即席の講義場と化していた。
ルーチェは観念したように測定具を持ち上げ、言葉を選びながら説明を始める。
光の屈折角、魔力波の干渉、媒介となる空間密度――
どれも専門的で難解な内容だが、彼女の口調は不思議と柔らかい。
だが一通り話し終えたあと、本人は首を傾げた。
「……うむ。理屈は頭の中ではわかっておるのでござるが……
これで説明になっておるのか、自信がないでござるな……」
学者の一人が、半ば感嘆、半ば呆然とした様子で息をつく。
「……ここまで理論を即座に組み立てられる人は、そういませんよ」
続いて、学生が目を輝かせて声を上げた。
「ルーチェさん、それはつまり――理屈より先に感覚で掴んでしまう、
天才肌ということですね!」
一瞬、時間が止まった。
次の瞬間、ルーチェの耳が、頬が、首元まで一気に赤く染まる。
「ち、違うでござるぅ!」
言葉がしどろもどろになり、視線が定まらない。
測定具を盾のように抱え込み、じりじりと後ずさる。
「そ、そなたら、期待の眼差しで見るのはやめるでござる……!
拙者は、そんな大それた者では――!」
限界だった。
くるりと踵を返し、ローブの裾を翻して駆け出す。
「……これ以上褒めると、逃げるでござるからなぁーっ!」
照れながら逃げ出すルーチェの背を、
あたたかな笑い声が、いつまでも追いかけていた。
◇
夕刻。
湖面を橙色に染める夕陽の下、二階堂商会の面々は、
それぞれの足取りで宿へと戻り始めていた。
昼間に比べ、湖上の街は静かだ。
だが、その静けさはもはや張り詰めたものではなく、どこか柔らかい。
市場の片隅では、顔見知りになった商人が手を振り、
路地では、子どもたちが「また明日!」と声を上げる。
短いやり取り、ささやかな笑顔――それらが確かに積み重なっていた。
彼らはこの街で何かを奪ったわけではない。
売り、買い、助け、話し、笑っただけだ。
それだけのことが、ラクリアという街に、少しずつ温度を与えていく。
宿の窓際に立ち、漣司はその光景を静かに見下ろしていた。
湖に映る街並みは揺らぎながらも崩れず、白壁の建物が夕焼けに溶け込んでいく。
――支配ではなく、共存。
力で押さえつけるのではなく、利益で縛るのでもなく、
この街自身が「共に回る」ことを選ぶまで、待つ。
ラクリアが本当に商会の手で回るようになったとき。
それは、彼らが街を変えた瞬間ではなく、街が彼らを必要とした瞬間なのだ。
夜風がそっとカーテンを揺らす。
湖の彼方で、灯りがひとつ、またひとつと点っていく。
かつては早々に消えていたはずの明かりが、今夜は少しだけ長く残っていた。
その小さな変化を、漣司は見逃さなかった。
ラクリアはまだ静かで、まだ慎重だ。
だが確かに――彼らを拒む街では、もうなかった。
湖面に揺れる灯りが、ゆっくりと増えていく。
それは、街が取り戻し始めた呼吸の証のようだった。
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