第82章 ラクリア到着 ― 湖上の街に灯る休息
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
霧の森を抜けた、その瞬間だった。
一行の視界がひらけ、思わず足が止まる。
眼前に広がっていたのは――現実離れした、まるで一枚の絵画のような光景。
透き通る湖。その水面の上に、白亜の建物群が浮かぶように並んでいる。
柱と回廊を備えた街並みは、湖に映るもう一つの都市と重なり、
上下二層の世界を形づくっていた。
ゆるやかな風が湖面を撫で、さざ波が光を砕く。
陽光は反射して街全体を包み込み、屋根瓦や白い壁面までもが淡く、
柔らかく輝いている。
――それが、湖上都市ラクリア。
そこには、確かに息づくような律動があった。
だが同時に、時間がゆっくりと澱んでいるような、不思議な静けさも漂っている。
馬車の列が自然と止まり、誰からともなく息をついた。
驚嘆と戸惑いが、同時に胸を満たす。
「……まるで、光そのものが街を形づくっておるようでござる」
ルーチェが目を細め、そっと掌を翳す。
指の間をすり抜ける光は澄み切り、どこか神聖な気配すら帯びていた。
魔力の流れが、穏やかに、しかし確かに循環しているのが感じ取れる。
「……きれいすぎて、逆に落ち着かないわね」
ミナが肩をすくめる。
その視線は、建物の合間に走る水路や桟橋へと向けられていた。
「確かに」
ロイが頷く。人影は、少ない。
市場らしき場所も、静まり返ったままだ。
「規模はカストリアと同じくらいだ。でも……ずっと静かだ」
商人の呼び声も、荷車の軋む音もない。
流通が脈打つ都市特有のざわめきが、ここには存在しなかった。
「バルメリアとは違うな」
漣司が、静かに言葉を落とす。
「喧騒の中で拡張する街じゃない。これは……静けさで自分を守る街だ」
守るがゆえに、閉じ。閉じたがゆえに、流れを失っている。
美しく、整いすぎた街並みは、
どこか人を迎え入れる準備を忘れてしまったかのようだった。
湖面から吹く風が頬を撫でる。
霧の森を越えた疲労を、やさしく洗い流すような涼しさ。
だが同時に、その風は告げていた。
この都市が抱える、静かな停滞と――
そして、変化を待ち続ける沈黙を。
一行はまだ知らない。
この美しい湖上都市が、どれほど流れを渇望しているのかを。
◇
宿を取り、荷を下ろした頃には、夕陽がすでに湖面を深い朱へと染め上げていた。
水鏡のような湖は、沈みゆく太陽をそのまま抱き込み、
揺れる光を天井や壁にまで映し出している。
長旅の緊張がほどけ、ようやく疲労が現実の重みとなって身体にのしかかる。
肩が落ち、足取りが鈍くなり、
それでも誰ひとり弱音を吐かなかった一行の前に――
漣司はいつも通り、背筋を伸ばして立った。
「よくやった。霧の森を抜けるのは、誰にとっても容易じゃなかったはずだ」
一瞬の間を置き、穏やかだが確かな声で告げる。
「――数日は、情報収集を兼ねた休息とする。各自、好きに過ごせ」
その瞬間。
堰を切ったように、室内に歓声が弾けた。
「やったぁぁ! やっと文明的な食事ができる!!」
ミナが両手を天高く掲げ、ぐるりと一回転する。
「湖の魚も絶対うまいでしょ! パンも! スープも! もう干し肉は嫌ぁ!」
「風呂ダ! ベッドダ! 肉ダァァァ!!」
ガロウは天井を仰ぎ、拳を突き上げて雄叫びを上げた。
そんな中、ひとりだけ空気の違う声が上がった。
「拙者は……湖畔にて、魔力の流れを少々観察したく存じます」
ルーチェだった。
胸の前で指を揃え、いつになく真面目な顔でそう告げる。
「この都市、魔力循環が非常に澄んでおる。
水と光が交わる要所……学術的にも極めて興味深――」
「構わん」
漣司が即答する。
「ただし、観察に夢中になって湖に落ちるな」
「…………」
短い沈黙ののち、
「……ここ、心得たでござる」
深く頷いたルーチェの背後で、ミナが口元を押さえた。
「今、一瞬落ちる前提で考えてなかった?」
「い、いや!? そ、そんなことは……!」
ルーチェは慌てて両手を振る。
「た、ただ……以前、光の反射を追っておったら――」
「落ちたんだな」
ロイが静かに言った。
「……三度ほど」
「三度!?」
「湖か川かは覚えておらぬが……冷たかったでござる」
ガロウが腹を抱えて笑い出す。
「ハッハッハ! さすが光の魔導士! 落ち方も神秘的ダ!」
「笑い事ではござらぬ!!」
真っ赤になって抗議するルーチェに、さらに笑い声が重なる。
宿の中に広がるその喧騒は、戦場でも会議室でもない、
ただの仲間の時間だった。
剣も計算も策略もいらない、束の間の安らぎ。
朱に染まる湖の向こうで、ラクリアの白亜の街が静かに夜を迎えようとしている。
嵐の前の、穏やかで――どこか、愛おしいひとときだった。
◇
部屋の隅では、すでに休息という言葉とは無縁の光景が広がっていた。
リュシアが椅子に腰掛け、几帳面に帳簿を開いている。
背筋は真っ直ぐ、指先の動きは正確無比。
夕食前だというのに、そこだけ空気が役所だった。
書類の束を一枚ずつ揃えながら、彼女は静かに口を開く。
「社長。私は休息よりも、業務を継続します。
まだ報告書の整理と、現地物価の再確認が――」
「いい」
即座に、漣司が遮った。
「お前も休め」
「……ですが」
「その代わり」
漣司は少しだけ口角を上げる。
「羽を伸ばしすぎないよう、他の役員を監視しておけ」
「は、はいっ……了解しました!」
――そして。
その直後、空気がピタリと凍りついた。
リュシアのすぐ背後。
ミナとガロウが、驚くほど見事なシンクロで硬直していた。
「……ちょ、ちょっと待って」
ミナが引きつった笑みで声を絞り出す。
「それって、まさか……」
「オ、オレらのことかァ……?」
ガロウの額に、分かりやすく汗が浮かぶ。
その視線の先で、リュシアはにこやかにメモ帳を取り出していた。
さらさら、と気持ちいい音を立ててペンが走る。
「監視対象:ミナ・ガロウっと……」
書いた。
本気で書いた。
二人は同時に青ざめ、ミナが悲鳴を上げた。
「ちょ、ちょっとリュシアさん!? それ、まじで書いた!?」
ミナが半泣きで詰め寄る。
「記録は正確であるべきですので」
「や、やめろォォォ!!」
ガロウの叫びが宿中に響き渡った。
そんな二人をよそに、漣司が小さく笑った。
「……ふっ。任務開始だな」
その一言に、リュシアがぱっと表情を明るくする。
「はい。必ずや、不適切行動は未然に防いでみせます」
氷の副社長は、誇らしげに頷いた。
――こうして。
ラクリア最初の夜は、休息と監視が同時進行する、
少し騒がしくて、どこか平和な時間として幕を開けたのだった。
◇
窓の外では、湖畔へと沈みゆく夕陽が、
白い石造りの街並みを鈍い橙色に染め上げていた。
かつては荷馬車と人波で賑わった大通りも、今は影が長く伸びるばかりで、
動くものはほとんどない。
閉ざされた店の扉、外された看板、干上がりかけた市場――
流通が滞り、街そのものが息を潜めているのが、否応なく伝わってくる。
風が湖面を撫でるように渡り、微かな水音を運んでくる。
その奥から、か細く、けれど確かに鐘の音が響いた。
夕刻を告げる合図。
だが本来あるはずの喧騒も、帰路を急ぐ足音も、
今は霧散したように存在しない。
ルーチェは窓辺に立ち、遠ざかる鐘の余韻に耳を澄ませながら、ぽつりと零す。
「……静かで、少し寂しいほどでござるな」
その声は、街の沈黙に溶け込むように小さかった。
ミナが振り返り、肩をすくめる。
「明日になったらうるさくしてやるわよ」
強がりとも冗談ともつかない笑顔。
ロイも腕を組んだまま、低く続ける。
「街に馴染むには、まず笑い声からだ」
その言葉に、重みがあった。
漣司は三人のやり取りを静かに見つめ、短く息を吐く。
――働き、戦い、笑い、そして休む。
どれか一つ欠ければ、組織も街も、簡単に歪む。
今のラクリアは、その循環が止まりかけている。
夜の帳が湖を包み込み、通り沿いの街灯が、
まるでためらうように一つ、また一つと灯っていく。
淡い光が水面に揺れ、空虚な街並みに仮初めの温度を与える。
人影は少ない。だが、完全な沈黙ではない。
街はまだ、かすかな呼吸を保っている。
穏やかな休息の幕が下りる中――
二階堂商会という異物が、この停滞した街の歯車を再び回し始める予兆が、
確かにそこにあった。
ラクリアの新たな日々は、静かに、しかし確実に動き出していた。
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