第81章 霧の森 ― 光の道を拓け
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
山のふもと一帯を覆う濃霧は、ただ立ちこめているだけではなかった。
ゆっくりとうねり、脈打ち、
まるで巨大な生き物が眠りながら呼吸しているかのように――
静かに、生々しく蠢いている。
霧の中へ一歩踏み込んだ瞬間、世界の音が薄れていった。
鳥のさえずりは途中で断ち切られ、風が枝を揺らす音も、
遠くで溶けるように消える。
馬車の軋む音さえ、数歩先で霧に呑み込まれていく。
視界は白一色。
距離感も方向感覚も曖昧になり、足元だけが頼りだった。
ルーチェが立ち止まり、霧を仰ぎ見る。
白光を宿す瞳が、揺らぐ霧の流れをじっと追った。
「……これは、自然の霧ではありませぬな」
その声は低く、確信を帯びていた。
隣でリュシアが携行用の測定具を操作する。
結晶板に刻まれた魔力波形が、乱れた脈動を描いていた。
「反応が安定しません。自然現象なら、ここまで不規則にはならないはず……」
一拍置き、彼女は結論を口にする。
「誰かが意図して張った術式です。幻霧結界と見て間違いありませんわ」
霧が、意志を持つかのように濃淡を変えた。進行方向の輪郭が、ふっと歪む。
漣司はその様子を一瞥し、短く息を吐いた。
逡巡はない。声は静かだが、揺るぎがなかった。
「見えぬなら、進むまでだ」
一歩、霧の奥へ踏み出す。
「止まれば――霧に飲まれる」
白の帳が、彼らを包み込むように揺れ動く。
だが、その中で二階堂商会の足取りだけは、確かに前へと進んでいた。
◇
進めど、進めど、景色は変わらなかった。
倒木の位置、苔むした岩の形、枝の折れ方――
どれもが既視感を伴って迫ってくる。
まるで森そのものが、侵入者の歩みを量り、嘲笑っているかのようだった。
「……おかしいな。どう見ても、さっき通った場所だ」
ロイが足を止め、眉をひそめる。
同時にミナが肩をすくめ、軽く息を吐いた。
「完全にループしてるわね。噂に聞く迷いの森ってやつか」
霧が、二人の言葉に応じるようにざわりと揺れた。
ルーチェは一歩前に出て、静かに周囲を見渡す。
風にそよぐはずの霧は、どこか不自然な流れを描いていた。
「……風向きと、霧の動きが逆でござる」
指先で空をなぞりながら、彼女は続ける。
「魔力が渦を巻いておるな。中心を突けば、結界は抜けられるはずでござる」
「なら行くゼ!」
即座にガロウが反応し、大斧を担ぎ直す。
その一歩を、しかし漣司の手が制した。
「力で押すな。霧は道そのものを拒んでいる」
視線をルーチェへ向け、短く命じる。
「――光で導け」
「承知仕った!」
ルーチェが軽く頷き、前へ進み出る。小さな掌に、淡い光が灯った。
「――《光路》!」
詠唱と同時に、霧の奥が裂ける。
白銀の光が一本の筋となり、揺らめきながら森の奥へと伸びていった。
闇を拒むように、光の道がゆるやかに脈打つ。
「……スゲェな」
ガロウが思わず息を呑む。
次の瞬間――彼は躊躇なく、その光の中へ踏み込んだ。
「よっしゃァ! 道が見えりゃ、突っ走るだけダ!」
大地を踏み鳴らし、光路に沿って前進する。
霧が巻きつこうとするたび、彼の一歩がそれを押しのけた。
枝をへし折り、足場の悪さも意に介さず、
まさに突破と呼ぶにふさわしい勢いだった。
「ガ、ガロウ殿!? そんな速度で進まれては、拙者の光が――!」
「問題ねェ!」
振り返りもせず、豪快に叫ぶ。
「見えてる間に、ガンガン行くゾ!」
その背中を見て、ミナが吹き出す。
「なにそれ……作戦もへったくれもないわね」
ロイも苦笑しながら肩をすくめた。
「でも、あれで迷わないんだから大したもんだよ」
白銀の光と、獣のように突き進む男。
その組み合わせに押されるように、霧の森はついに後退を始めた。
光路の先――未知の領域は、確かに近づいていた。
◇
霧が、ひときわ濃く脈打った。
その瞬間――ルーチェの放つ光路が、ぴしりと軋むように揺らぐ。
「――っ!」
わずかな乱れ。
だが、それを待っていたかのように、森の奥から低く湿った唸り声が転がり出た。
ごぉ……ぉぉ……。
音が、四方八方から迫る。次の瞬間、霧の中に光が灯った。
――否。眼だ。
無数の黄金色の眼が、濃霧の奥で一斉に開く。
視線だけが浮かび上がり、輪郭を持たぬ影が蠢いた。
霧を裂いて、巨大な影が跳躍する。
幻霧の主――霧狼
獣の形をしていながら、その全身は濃霧そのもの。
一歩踏み出すたびに身体が分裂し、左右、背後、頭上へと狼が増えていく。
牙だけが鋭く白く、霧の中で異様な存在感を放っていた。
「くそ……数が多すぎる!」
ロイが即座に前へ出る。
盾を構え、衝撃に備えながら視線を走らせる。
「どれが本体かわからない!」
霧狼たちが一斉に動いた。跳躍、回り込み、同時攻撃。
霧の牙が空を裂き、風圧が頬を叩く。
「――足跡ッ!!」
鋭い声が戦場を切り裂いた。
ミナだ。
彼女は半身を低く落とし、地面を指さす。
「見て! 本体だけ、地面に痕が残ってる!」
「影だけで滑ってるやつは偽物よ!」
霧の中――
確かに、一体だけが湿った土を踏みしめ、わずかに沈み込んでいた。
「了解だ!」
ロイが進路を切り、仲間を誘導する。
「――任せロォォ!!」
次の瞬間、地響きが起きた。
ガロウが霧の群れへ突進する。
大斧を振りかぶり、霧狼の幻影をまとめてなぎ払う。
斧が通過した軌跡で霧が爆ぜ、偽物が一体、また一体と霧散していく。
「オオオオッ!!」
獣のような咆哮。
視線はすでに、本体ただ一体を捉えていた。
「――ドーンだァァァ!!!」
全身の力を叩き込んだ一撃。
斧が大地に叩きつけられ、衝撃波が円状に走る。
地面が割れ、霧狼の身体が引き裂かれた。
悲鳴とも唸りともつかぬ音が上がり、霧の核が砕け散る。
次の瞬間。
森を覆っていた霧が、一気に引き潮のように消えた。
幻影だった狼たちは溶け、黄金の眼も次々に閉じていく。
空気が澄み、風が通り、森本来の色が戻ってきた。
ルーチェが一歩前へ出る。
両手を胸元で合わせ、残留する魔力を丁寧に束ねていく。
「……霧の核、完全に封じましたでござる」
静かに、しかし確信をもって告げる。
「これでもう、この森が人を惑わすことはありませぬ」
「やったナ、ルーチェ!」
ガロウが満面の笑みで拳を突き上げた。
「皆が力を合わせた結果にござる」
ルーチェは少し照れたように微笑む。
ミナは肩の力を抜き、ロイは安堵の息を吐いた。
その光景を少し離れた場所から見つめながら、
漣司は、何も言わずに小さく微笑んだ。
――この仲間なら、未知の先へも進める。
そう確信するには、十分すぎる戦いだった。
◇
その頃――森の外れ。
切り立った崖の上から、戦いの余韻が残る森を見下ろす一団がいた。
身にまとっているのは、継ぎはぎだらけのマント。
風に煽られてはためくその姿は、どう見ても正規の旅人ではない。
――盗賊団。
その中で、ひときわ見覚えのある男女が顔を見合わせている。
「……チカ。おい、今の……見たか?」
ゴローが引きつった声で囁く。
視線は森の奥――霧が晴れた方向から離れない。
「見りゃわかるでしょ、バカ」
チカは呆れたように即答した。
「あれ、二階堂商会の連中よ。しかも、ガチのやつ。霧狼ぶっ飛ばしてたじゃない」
「しかもさ……あの真ん中にいたの、たぶん社長だよな?」
「たぶんじゃない。確実。あの落ち着き方、間違いないわ」
「……うわぁ」
二人同時に、深いため息。
そこへ、重たい足音とともに盗賊団の頭領が近づいてきた。
筋骨隆々、顔には古傷。
「どうした。獲物でも見つけたか?」
一瞬の沈黙。
チカは即座に表情を切り替え、にこっと笑った。
「旅の商人っすよ。……ちょっと物騒な雰囲気ですけどね」
頭領は森の奥を睨み、鼻を鳴らした。
「ならば追え。森を抜ける者は全員荷台を奪う。ラクリアを出たところで、だ」
「……承知」
チカは軽く頭を下げる。頭領は満足げに頷き、そのまま踵を返した。
足音が遠ざかったのを確認してから――
二人は同時に、がっくりと肩を落とす。
「……どうする、ゴロー」
チカが低く呟く。
「どうするも何も……あの人ら、バカ強いよ」
「……命令は命令だしなぁ」
「ええ。逆らったら、今度は頭領に殺される」
重いため息をつきながらも、二人は立ち上がる。
「ついていくか」
「ついていくしかないわね」
そうして――
チカとゴローは、霧の名残が漂う森の奥へと消えていった。
その背中には、悪党というより、どうにも間の悪い運命に巻き込まれた小物感が、
ありありと滲んでいた。
◇
霧が晴れた。
眼前には、湖とその上に広がる白い都市。
湖面に映る光が眩しく、まるで天上の街のようだった。
「……あれが、ラクリアか」
漣司が呟く。
ミナは一歩遅れて振り返った。
霧の名残がまだ森の奥に揺れている。
そこに、ほんの一瞬――人影のような揺らぎが見えた気がした。
「……なんだか、嫌な風が吹いてるわね」
ロイが眉を寄せる。
「疲れてるんじゃないか?」
「ふふ、そうだといいけど」
ミナは笑ってみせたが、その笑みはどこか硬い。
「風向きは変わるもんダ」
ガロウが低く言い放つ。その声には、妙な確信の響きがあった。
漣司は小さく頷く。風が木々を揺らし、霧の残り香が完全に消えていく。
だがミナはもう一度だけ、森の奥を見た。
こうして二階堂商会は、新たな地へと歩みを進めた。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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