第80章 道を行く ― 山森の入り口にて
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
バルメリアを出て、二日目。
風は明らかに性質を変えていた。
街を包んでいた乾いた石と鉄の匂いは遠のき、
代わりに湿り気を帯びた草と土の香りが、肺の奥まで染み込んでくる。
頬を撫でる風はやわらかく、どこか重く――
山が近いことを、身体が先に理解していた。
バルメリアから伸びる新しい街道を、馬車の列が静かに進んでいく。
まだ若いその道は、ところどころに削り跡を残しながらも、
確かな意志をもって山のふもとへと続いていた。
先頭で翻るのは、二階堂商会の旗。
陽光を受けて白と紋章がきらめき、揺れるたびに、
これまで築いてきた街の記憶を振り切るように空を切る。
その姿は、進軍ではなく――旅立ちの象徴だった。
荷台の中では、ゆったりとした振動が一定のリズムを刻んでいる。
木製の床がきしみ、金具が微かに鳴るたび、時間が穏やかに流れていく。
簡易机の上で地図を広げ、指先で街道と山脈をなぞる者。
揺れに身を任せ、酒瓶を傾けながら小さく息をつく者。
幌の隙間から外を覗き、深まっていく緑の濃さに目を細める者。
誰かの何気ない一言に、誰かが吹き出し、
それにつられて、別の笑い声が重なる。
作られた緊張でも、無理に盛り上げた賑やかさでもない。
同じ道を行く者同士だからこそ生まれる、
自然で、肩の力の抜けた空気だった。
馬車は止まらない。山森の入り口は、もう遠くない。
街を治めた者たちは、次に繋ぐべき場所へと向かっている。
その始まりを告げるように、旗は再び風を受け、大きくはためいた。
◇
「ガロウ殿」
馬車の揺れに紛れることのない、澄んだ声だった。
呼ばれて、ガロウは酒瓶を下ろし、のそりと顔を上げる。
向かいの座席で、ルーチェが背筋を正し、
やけに真剣な眼差しを向けていた。
光を映した白金髪が、揺れに合わせてわずかに揺れる。
「そなたは、兵たちからたいへん慕われておったな。
叱咤しても離れず、命令すれば迷わず動く。
どうすれば、あのような信頼を得られるのだ?」
あまりに真面目な問いに、ガロウは一瞬きょとんとする。
そして、ぽりぽりと頬をかき、視線を宙に泳がせた。
「え、えーっとだナ……別に難しいことじゃねェんダ。
こう……ガーッとやって……ドーン、だ。」
沈黙。
馬車の軋む音だけが、やけに大きく聞こえる。
だが――
ルーチェは眉ひとつ動かさず、深く、厳かに頷いた。
「なるほど……ガーとやって、ドーン……」
そのまま、しばし考え込むように顎に指を当てる。
「単純に聞こえるが、きっとその中に深い理があるのだな」
自分で言いながら、感心したように目を輝かせる。
「ふむ……奥深い。これを即座に理解できぬ拙者は、
まだまだ未熟ということか……!」
ガロウが引きつった笑みを浮かべる。
「お、おウ……そうカ?」
その横で、ミナがついに限界を迎えた。
「ぷっ……! ちょ、ちょっと……!く、くははははっ!!
奥が深いって何よそれ!!」
腹を抱えて机に突っ伏し、肩を震わせる。
「ガロウの戦術、擬音しかないじゃないの!」
ロイが苦笑しながらフォローする。
「まあ……理屈はともかく、結果は出てるから否定はできないけどな。」
「そうダロ!? 結局よォ、勢いと気合がありゃ、
人はついてくるモンなんダ!」
胸を張るガロウに、ミナが呆れたように溜息をつく。
「それを理論に昇華しちゃうのが、あんたとルーチェだけだと思うわ……」
その間にも、ルーチェは真剣そのものだった。
どこからともなく小さなメモ帳を取り出し、羽ペンを走らせる。
「……よし。『指導法概論・第一項――ガーとやって、ドーン』……」
「書くな書くな!」
ロイが慌てて身を乗り出す。
「それ、後で学術論文とかに載せるなよ!? 魔導学院が混乱する!」
「な、なんと……それほど危険な知見であったか……!」
真顔で驚くルーチェに、ミナは涙を拭いながら笑い続け、
ガロウは「オイオイ……」と頭を抱えた。
馬車の中は、しばらく笑い声に包まれていた。
揺れる車輪とともに、彼らの旅は――賑やかに、続いていく。
◇
やがて馬車の揺れが目に見えて荒くなり、
車輪が小石を弾く乾いた音が連なって響き始めた。
板張りの床越しに伝わる振動が重くなり、同時に外気がひやりと肌を撫でる。
「……空気、変わったな」
誰ともなく呟いた直後、ロイが腰を上げ、窓の留め具を外した。
きしりと音を立てて開いた窓から、湿り気を帯びた冷風が一気に流れ込む。
「……見ろよ」
その声に、全員が自然と視線を寄せた。
視界の先――
巨大な山と、うねるように広がる深い森が重なり合い、
まるで世界を隔てる一枚の壁のように聳え立っていた。
樹海の隙間からは白い霧がゆっくりと立ちのぼり、
風に揺れた枝葉がざわめくたび、森全体が呼吸しているかのように見える。
そして、そのさらに奥。霧の向こう、ほとんど幻のように――
白く細い尖塔の影が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
馬車の前方から、低く落ち着いた声が届く。
「――あれが、ラクリアだ」
その一言で、空気が引き締まった。
一同の視線が、無言のまま同じ方向へと揃えられる。
山の頂を中心に、街を包み込むような淡い光の層が見えた。
結界のようにも、朝靄に反射した陽光の残滓のようにも見える、不思議な輝き。
ミナが腕を組み、わずかに眉を寄せる。
「……この森、厄介そうね。道があるようで、ない。
地図も……ここから先は、ほとんど信用できないわ」
その言葉に、リュシアが資料束をめくりながら頷いた。
紙の擦れる音が、緊張を帯びた沈黙の中に小さく響く。
「交易が発達しなかった理由が、まさにこれですわね。
凶暴な獣、山賊、そして――魔導的な霧の障壁。
進入した商隊が戻らなかった記録も、少なくありません」
「なるほどな……」
ロイは窓枠に手を置いたまま、静かに拳を握る。
「つまり――ここからが、本番ってわけだ」
その隣で、ガロウが楽しげに口角を上げ、豪快に腕をまくった。
「おうヨ!道がねェなラ――作りゃイイだけの話だロ?」
重苦くなりかけた空気を、彼の一言が力強く切り裂く。
ルーチェは、そんなやり取りをよそに、じっと森を見つめていた。
霧の流れ、木々の揺れ、光の歪み――
その一つひとつを確かめるように。
「……この霧、ただの自然ではござらぬな。
魔力の流れを感じる。森そのものが、外の者を拒んでおるようだ」
そう言って、彼女は胸元に手を当て、静かに息を整える。
「拙者の光であれば……完全ではないが、道を示すことはできよう」
やがて馬車は、きぃ、と軋む音を立てながら、
森の入り口でゆっくりと停止した。
霧が、すぐそこまで迫っている。
御者台から、漣司が地面へと降り立つ。
足元の土を踏みしめ、彼は目の前に広がる山森を見上げた。
◇
深く、静かに息を吸い――
そして、低く呟く。この先が、次の舞台であると。
馬車がゆっくりと止まり、漣司が外に降り立つ。
彼は森の入り口を見上げ、低く呟いた。
「ここから先は、未知の領域だ。
――だが、未知こそ、我らの商売だろう?」
漣司の言葉は強くも高くもなかった。
それでも、不思議と胸の奥に沈み、確かな熱となって残る声だった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、誰からともなく小さな笑いが漏れ、やがてそれが連なっていく。
「未知なら、値踏みしがいがありますわ」
リュシアは細く目を眇め、森の奥に潜む気配を量るように視線を走らせた。
そこにあるのは恐れではなく、冷静な算段の光だった。
「違いねぇナ」
ガロウは肩を鳴らし、重たい外套の上から拳を握り込む。
未知の気配に身体は自然と戦う準備へと切り替わっていた。
「面白くなってきたじゃない」
ミナは小さく息を吐き、口元に浮かんだ笑みを隠そうともしない。
胸の奥で、いつもの危うい高揚が静かに灯っていた。
「……魔力の流れ、これまでにない性質でござるな。
慎重に探るがよろしかろう」
ルーチェは帽子の鍔に指を添え、森の奥を静かに見据える。
「ええ。でも、社長が進むと決めた以上、俺たちは全力で支えます」
ロイはまっすぐに頷き、迷いのない声で応えた。
軽口混じりの声とともに、仲間たちは次々とうなずいた。
不安は消えていない。だが、それ以上に――前へ進む覚悟が揃っていた。
そのとき、森を抜ける風が一陣、強く吹き抜ける。
枝葉がざわめき、霧がゆっくりと流れ、光が揺れた。
馬車の側に掲げられた二階堂商会の旗が、
風を受けて静かに揺れる。
白地に刻まれた紋章は、深緑の森を背景に、
ひときわ鮮やかに浮かび上がっていた。
それは、ただの目印ではない。支配でも、征服でもない。
――商いで道を切り拓くという、
彼ら自身の在り方を示す、無言の宣言だった。
森の奥には、まだ道はない。
霧に包まれた山と湖上都市ラクリアが、黙してその行く末を見つめている。
だが、旗は揺れている。仲間は揃っている。そして、歩みは止まらない。
二階堂商会の一行は、今、森へと踏み出した。
その一歩が――新たな取引と、新たな秩序、
そして次なる物語の幕を、確かに押し開けていた。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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