第79章 出立の日 ― それぞれの見送り
都市バルメリアを再生させた二階堂商会は、次なる都市の可能性として、湖と水の魔力に抱かれたラクリアへと目を向ける。
水と聖性に閉ざされた湖上都市ラクリア。
静謐と停滞が同居するその街に、新たな流れは祝福となるのか、それとも破壊となるのか。
朝の陽光が差し込むと同時に、バルメリアの石畳はゆっくりと色を変え、
金色の海のように輝き始めた。
昨夜までの静けさが嘘のように、広場には人の波が広がっている。
二階堂商会の旗が高く掲げられ、その紋章が風を受けてはためくたび、
集まった市民たちの視線が自然とそこへ吸い寄せられた。
老商人は帽子を胸に当て、
子どもたちは背伸びをして前へ前へと押し出される。
誰かが笑い、誰かが目頭を押さえ、また誰かが声を張り上げて名を呼ぶ。
歓声と泣き声が入り混じったそのざわめきは、混乱ではなく――
確かな誇りと、名残を惜しむ温度を帯びていた。
この街は、もう止まらない。
荒れ、停滞していた日々を越え、今や自らの足で歩き始めている。
その始まりに立ち会い、道筋を整え、背中を押したのが――
武装法人二階堂商会だった。
そして今日。
彼らはこの街に「完成」を残し、次の可能性へと向かう。
市民たちの視線の先で、旅装を整えた一行が並び立つ。
別れは寂しい。だが、それ以上に胸を満たすのは期待だった。
彼らが去るのは、見捨てるためではない。
――次の地でも、同じように未来を動かすためだ。
風が吹き、旗が大きく翻る。
バルメリアは見送る側として、誇らしげに胸を張っていた。
物語は、ここで終わらない。
この旅立ちは、新たな都市、新たな流れ、新たな挑戦の序章にすぎない。
次なる舞台――湖と魔力に抱かれた都市へ。
◇
リュシアは、朝の光が差し込む庁舎の広間で、
整然と並ぶ市の役人たちの前に立っていた。
かつて市議会の中枢として権力を握り、街を停滞させていた者たち――
今はその面影を消し、新たな行政組織の幹部として背筋を伸ばしている。
視線が交錯するたび、空気がわずかに引き締まる。
それは畏怖であり、同時に信頼でもあった。
「リュシア副社長。あなたの監査と助言がなければ、
我々は再建など成し得ませんでした」
「あなたから学んだこと……決して忘れません」
感謝の言葉が重なっても、彼女の表情は崩れない。
ただ、わずかに唇の端を緩め、氷のように澄んだ微笑を浮かべる。
「数字は正直ですわ。
人がどれほど巧妙に嘘をつこうとも、帳簿は必ず過去を覚えています」
静かな声が、広間に凛と響く。
「どうか、この街が誠実な数字で生き続けますように。
利益も、支出も、責任も――すべてを明るみに置いたまま」
そこで一拍、間を置く。
役人たちの喉が、無意識に鳴った。
「……もっとも」
リュシアは書類を胸に抱き、淡々と告げる。
「私たちは、いずれ戻ってきます。
その時は、再建直後と同じ基準――
いえ、それ以上に厳密に、全てを確認させていただきますわ」
それは脅しではない。
約束であり、街を守るための宣告だった。
「不正も、怠慢も、例外なく数字に現れます。
どうか――その覚悟を、忘れずに」
そう言い切り、彼女は一礼する。
完璧な角度、無駄のない所作。
そして背を向け、静かに歩き出した。
その後ろ姿は、冷たく、鋭く、しかし確かに街を守るための刃――
氷の副社長の名にふさわしい威厳を纏っていた。
◇
商人街の入口は、昼下がりの喧騒に満ちていた。
露店の呼び声、金属貨の触れ合う音、香辛料と焼き菓子の匂い――
その中心に、自然と視線を集める人物がいる。
ミナだ。
人波に囲まれながらも、彼女は窮屈そうな素振りひとつ見せず、
肩の力を抜いて立っている。
軽く手を振るだけで、周囲の空気が一段明るくなるのがわかる。
それは計算された愛想ではなく、彼女がそこにいるだけで生まれる、
天性の温度だった。
その輪を割るように、ひとりの青年が飛び出してきた。
両腕いっぱいに抱えた花束は、種類も色も揃っておらず、
明らかに即席で集めたものだとわかる。
指先は強張り、背筋は不自然に伸びきっている。
「ミナさん!」
声が裏返りそうになるのを必死で堪え、青年は一歩前へ出た。
「おれ、あなたのことが……その……!」
言葉は途中で絡まり、続かない。
沈黙が落ち、周囲の視線が一斉に集まる。
ミナは一瞬だけ目を瞬かせ――
次の瞬間、堪えきれないといった様子で笑った。
遠慮も気取りもない、腹の底からの豪快な笑み。
「やめやめっ!」
ぱん、と軽く手を叩く。
「そんな顔して言うことじゃないでしょ。
まずはさ、大金持ちになってから出直しな!」
冗談めかした口調。
だが突き放すようでいて、不思議と冷たさはない。
青年の顔が、首筋まで真っ赤に染まった。
「で、でも! 絶対に金持ちになって、また――!」
必死に食い下がるその姿に、ミナは少しだけ目を細める。
そして、肩越しに振り返りながら言った。
「その時はね――」
一瞬の間。
「ちょっとだけ、考えてあげるわ!」
ウインク一つ。
軽く、気まぐれで、残酷なほど眩しい仕草。
それだけを残して、ミナは足早に人混みへと紛れ込んでいく。
追いかける隙も、引き留める勇気も与えない、鮮やかな退場だった。
背後では「がんばれー!」という野次と、腹を抱える笑い声が飛び交う。
からかい半分、応援半分の空気に包まれ、
青年は花束を抱えたまま立ち尽くした。
商人街は今日も騒がしく、活気に満ちている。
そしてその喧騒の中心には、確かに――
人を惹きつけて離さない、ミナという存在があった。
◇
ロイは、市場の中央で労働者たちに囲まれていた。
彼の手には、工具で荒れた男たちの手がいくつも重なる。
「ロイ、行っちまうのか……」
「お前がいたから、この街が変わったんだ」
ロイは苦笑し、手を放した。
「街を変えたのは、俺じゃない。みんなだ。
俺たちはただ、手伝っただけさ」
少し間を置いてから、彼は静かに続けた。
「けどな……困ったときは呼んでくれ。仕事放り出してでも戻るから」
笑いが起こり、涙ぐむ者もいた。
ロイは背を向け、群衆に手を振る。
その手を見つめる目には、尊敬と友情の光があった。
◇
練兵場の前は、朝靄と熱気が入り混じっていた。
整列したバルメリア兵たちの輪の中心に、ガロウが仁王立ちしている。
鎧の隙間から立ちのぼる汗の匂い、踏みしめられた地面の土埃――
ここが、この街の「盾」の心臓部だった。
「教官ッ!」
一人が声を張り上げ、すぐにそれが連なっていく。
「俺たちも連れて行ってください!」
「次はラクリアなんでしょう! だったら――!」
その声を遮るように、ガロウが怒鳴った。
「バカヤロウ! おまえらがいなくなったら、誰がこの街を守んダ!」
言葉が、拳のように胸を打つ。
一瞬で、場が静まり返った。
だが、それでも兵たちは歯を食いしばり、前に出る。
「でも俺たちは……!」
その必死さに、ガロウは一瞬だけ目を細めた。
次の瞬間、照れ隠しのように舌打ちし――
「チッ……だから、困るんダ」
豪快に腕を伸ばし、近くにいた兵たちの頭をまとめて掴み上げる。
「ここに残って、汗かいて、歯ァ食いしばって――この街を守る盾になったんダ!」
拳で胸を叩く音が、どん、と鳴る。
「泣くヒマがあったら剣を磨け!寂しいなら見張りに立て!
街を守るってのは――そういうことダ!!」
兵たちの瞳から、迷いが消える。
こぼれかけた涙を乱暴に拭い、背筋を正す。
「……はい!」
「必ず、この街を守ります!」
「俺たちは、バルメリアの盾です!」
一斉の敬礼。
その姿は、もう未熟な兵ではなかった。
ガロウは鼻を鳴らし、ぷいと背を向ける。
「フン……当たり前ダロ」
だが、その背中はどこか誇らしげで。彼が育てた盾は、確かにここに残った。
◇
魔導学院の正門前。
そこは今や、ちょっとした戦場と化していた。
白衣の教授、腕章をつけた助手、そして制服姿の生徒たち――
百人を超える人波が、一斉に一人の少女へと雪崩れ込む。
「ルーチェ様ー! お師匠様ー!!!」
「光の教えを忘れません!」
称号が飛び交い、拍手と歓声が渦を巻く。
その中心で、ルーチェは完全にパニックだった。
「う、うぬぬぬぬぬ!?
ちょ、ちょっと待たれよ!? 拙者、まだ出立の支度すら――」
両手をぶんぶん振って制止を試みるが、誰一人止まらない。
「お師匠様、最後にもう一度だけ実技を!」
「触媒理論の続きもお願いします!」
「だから師匠言うでないーっ!!」
マントの裾を掴まれ、杖を引かれ、いつの間にか宙に浮きかける。
光の魔力が反射的にちらつき、周囲が一瞬きらりと輝いた。
「やめるでござる! 離すでござるー!」
ついに限界。
ルーチェは隙を突き、魔導学院の回廊を全力疾走する。
「撤退! 戦術的撤退でござるーっ!!」
光の残像を引きながら、するりと人波を抜けるその姿は、
もはや高位魔導士というより――逃走する小動物だった。
広場の隅。
植え込みの陰で、ようやく立ち止まり、肩で息をする。
「はぁ……はぁ……」
乱れた前髪を直し、小さく、真顔で呟く。
「……拙者、次までに逃げの術を真剣に磨かねばならぬな……」
◇
バルメリア中央広場。
澄み渡る空の下、その中心にすべての役員が並び立っていた。
商人も、職人も、兵も、子どもたちも――
街を埋め尽くす人々の拍手が、石畳を震わせるように広がっていく。
その一歩前へ、漣司が進み出た。
背後には、彼とともに街を築いた仲間たち。正面には、
未来を託すバルメリアの民。
彼は群衆を見渡し、静かに、しかし確かな声で告げる。
「――統治とは、留まることではない。
抱え込むことでも、縛ることでもない。
繋ぎ、流し、次へと渡していくことだ」
ざわめきは起こらない。
人々はただ、その言葉を胸に刻むように聞き入っていた。
その沈黙を、ミナの軽やかな笑みが和らげる。
リュシアは一歩下がって小さく頷き、ルーチェは胸に手を当て、
誇りを込めて視線を上げた。
「――二階堂商会、出立します!」
号令とともに、荷馬車の車輪がきしりと鳴る。
馬が蹄を打ち、幌が揺れ、隊列がゆっくりと動き始めた。
次の瞬間。
抑えきれなかった歓声が、波のように押し寄せる。
「行ってこい!」
「また戻ってこいよ!」
「二階堂商会万歳!」
ロイは振り返り、静かに手を上げる。
ガロウは無言のまま、拳を天に突き上げた。
それだけで十分だった。
その頭上。
夜へと移ろう空を裂くように、一筋の光が走る。
ルーチェの魔法が、弧を描きながら輝き、旅立つ一行を照らし出した。
祝福の光の中、漣司は振り返らず、低く呟く。
「――さあ、行くぞ。ラクリアへ」
夕陽が背を押し、二階堂商会の旗が強い風を受けて高くはためく。
それは、別れの印ではない。
新しい世界へと踏み出す者たちにだけ許された、
夜明け前の、まばゆい光だった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
少しでも面白いと思ったら☆☆☆☆☆を★★★★★にして頂ければと思います。一つひとつの応援が、次の物語を生み出す力になるんです。これからも、どうぞ気軽に見守っていただけたら嬉しいです。




