第70章 白い皿の裏 ― 晩餐会潜入
城壁都市バルメリア。
カストリアの北西にあるオランティア地方の有力都市。人口はカストリアの約五倍と言われる。周辺の肥沃な土地を背景に、豊かな市場と厚い城壁を持ち、城壁都市として名を馳せていた。
二階堂商会達は市議会本部に忍び込みバルメリアの不正を暴くべく、「白い皿の裏」作戦を決行した。
月が雲の切れ間から姿を現し、銀の光が街路と屋根瓦を静かに洗っていた。
その光を真正面から受け止めるように――
〈市議会本部〉は、夜の中で異様な存在感を放っている。
白大理石の壁面は磨き抜かれ、たいまつの火を映して淡く輝き、
その中央には金の紋章が誇示するように掲げられていた。
今宵ここで開かれるのは、バルメリア最大規模の晩餐会。
名目は「都市の繁栄を祝う集い」
だがその実態は、商人ギルド、市議、要職者――
そして腐敗の核が一堂に会する、豪奢な密室だった。
裏口。
建物の威容から切り離されたような、光の届かぬ暗がりに、
ミナは息を潜めていた。
白衣姿。袖口には小さく縫い込まれた納入業者の紋章。
肩には酒樽を担ぎ、足取りはあくまで雑務のそれ。
だが、彼女の視線は鋭く、周囲の動き、警備の癖、影の揺れを一瞬たりとも逃さない。
(……来た)
巡回兵の腰に下げられた鈴が鳴る。
一度。
二度。
それは偶然の音ではない。
ガロウが別動で行っている誕生日訓練――
兵舎側での大騒ぎが、予定通り始まった合図だった。
「よし、今だ」
囁きは夜に溶ける。
影が壁から剥がれるように動いた。
ミナは軽く地面を蹴り、酒樽の重さを感じさせない滑らかな動きで搬入口へ。
扉が開閉する一瞬、その隙間に身体を滑り込ませる。
――空気が変わった。
油と香辛料の濃い匂い。煮え立つ鍋の湯気。
鉄鍋がぶつかる音、怒号に近い料理人の声。
厨房は、祝宴の裏側で稼働する別の戦場だった。
汗と火気に満ちた熱気の中、誰も彼女を疑わない。
白衣はそのための仮面であり、樽は通行証。
華やかな晩餐を支える無数の手の一つとして、ミナは自然に紛れ込んでいた。
(――さて。白い皿の裏、見せてもらうわよ)
市議会の不正。帳簿に残らぬ取引。
酒と料理に隠された、金と権力の腐臭。
そのすべてを暴くために――
二階堂商会は、すでにこの夜の中へと足を踏み入れていた。
◇
「遅いぞ! 検品はもう終わったはずだ!」
怒号とともに料理長が振り向いた。
白衣の裾を翻し、額に汗を滲ませた男の眼差しが、鋭くミナを射抜く。
ミナは一瞬だけ肩をすくめ、すぐに申し訳なさそうな表情を作った。動作は完璧だった。
焦りを演じ、呼吸を少し乱し、場の空気に溶け込む。
「すみません、火酒の樽が一つ足りなくて。帳簿と現物が合わないもので……
すぐ確認を」
声色は低く、忙殺された厨房の雑音に自然と紛れる。
鍋が鳴り、包丁がまな板を叩き、香辛料の匂いがむせ返る中――
彼女の言葉だけが、違和感なくそこにあった。
腰の袋から書類を取り出し、差し出す。
――リュシアが仕上げた偽造伝票。
紙質、書式、そして押された印影に至るまで、本物と寸分違わない。
むしろ長年使い込まれたような“癖”すら再現されていた。
「……ふむ」
料理長は眉をひそめ、目を走らせる。
一拍。二拍。
ミナはその沈黙の重さを、呼吸一つで受け止めた。
「確認印は……あったな。チッ、忙しい日に限ってこうだ。倉庫は奥だ、急げ」
「はい、失礼します!」
軽く頭を下げ、踵を返す。
背中に向けられた視線が外れたのを、気配で感じ取った瞬間――
ミナの表情から、演技の色がすっと消えた。
厨房を抜ける。
喧騒は背後に遠ざかり、空気が一段、冷たくなる。
辿り着いたのは酒蔵。
石壁に沿ってずらりと並ぶ樽の列が、月光を受けて沈黙している。
その奥、影の溜まる場所に、ひときわ無骨な鉄製の扉があった。
立ち止まる。
錠前は二重。
ひとつは歯車の噛み合う物理錠。
もうひとつは、微かに脈打つ魔導錠――
通常なら、触れた瞬間に警告が走る代物だ。
だが今夜は違う。
空気の中に、ほのかな光の膜が張り付いている。
ルーチェが遠隔で展開した薄明。魔力の流れを鈍らせ、警戒を眠らせるための、繊細な結界だった。
ミナは小さく息を吸う。
音を殺し、針金を取り出す。
指先の感覚だけで、内部の構造をなぞる。
――一呼吸。
――二呼吸。
外では晩餐会の音楽が、かすかに響いている。
祝宴と腐敗が、同じ屋根の下で踊る夜。
カチリ。
乾いた金属音が、静寂に落ちた。
それはまるで、月光が刃となって闇を裂くような、短く、しかし決定的な音だった。
ミナは口角をわずかに上げる。
扉の向こうにあるのは、酒ではない。
――この都市の「裏側」だ。
◇
扉の中は静かで冷たい。
木箱の山、封印された文書棚。
ひとつ、蓋を開けると中に束ねられた台帳。
特別会計 上申先:市議会財務局直轄――
あった。
「……やっぱり、ここね」
ミナは小さく呟き、帳簿を一枚だけ抜き取った。
だが、その時。
「誰だ――!」
背後から声。巡回の警備兵が予定より早く戻ってきたのだ。
ミナは息を呑み、瞬時に行動を切り替える。
帳簿を懐に入れ、近くの酒樽に身を潜めた。
兵士の靴音が近づく。灯りが扉の隙間から差し込む。
「……気のせいか?」
兵士が首を傾げた瞬間、廊下の先で別の声。
「おい、訓練の続きダ! 東棟へ回レ!」
ガロウの豪快な怒号。
兵士は舌打ちし、灯りを消して出て行った。
息を吐く間もなく、ミナは壁際を這い、裏の扉から廊下へ滑り出た。
◇
広間の明かりが遠くで揺れる。
華やかな音楽、笑い声、銀の皿に盛られた贅の極み。
その裏で、彼女は床下の通路を駆ける。
天井の格子から光が差し、通気口の先に控室の扉。
リュシアの声がわずかに響く。
「ええ、記録に不備があったようですので、再確認をお願いします」
――時間稼ぎだ。
ミナはその隙に、控室の裏の壁を調べる。
絵画の裏、額縁の縁――鍵束が吊るされていた。
「やっぱりここ……」
指先でそれを掴んだ瞬間、背後から足音。
「――待て!」
振り返る。警備兵の影。
ミナは鍵を胸元に押し込み、机を蹴って跳び上がった。
天井の通気口。手を伸ばし、指をかけ、身体を滑り込ませる。
兵士の剣が床を裂き、叫び声が響いた。
「侵入者だ!」
ミナは腹ばいのまま通路を進む。
汗が頬を伝う。下では、混乱が広がっていく。
その中で、リュシアが冷静に指示を飛ばしていた。
「落ち着いて。記録の照合が終わるまで、誰も動かさないでください」
◇
天井裏の隙間から夜気が流れ込んだ瞬間、ミナは音もなく身を滑らせた。
外へ――解放と同時に、遠くで澄んだ鐘の音が一つ、闇を揺らす。
――合図だ。
ルーチェが張り巡らせていた結界が、乱れを修正し、再び静寂に溶け込んだ証。
市議会本部の上空には、何事もなかったかのように月が浮かんでいる。
ミナは屋根瓦を蹴り、軽やかに着地した。
石の冷たさが靴底から伝わり、張り詰めていた神経が、ようやく現実に戻る。
「……ふぅ。ほんと、ギリギリだったわね」
息を吐くと、夜風が肺の奥まで染み込んだ。
胸元に手をやる。懐に収めた帳簿と、冷たい金属の鍵束が、確かな重みを主張している。
それは単なる証拠ではない。
この都市の裏側へと続く、確実な入口だった。
「これで……裏口座に、たどり着ける」
呟きは、誰に聞かせるでもなく夜に溶ける。
だがその声には、達成感と同時に、核心へ踏み込んだ者だけが知る緊張が滲んでいた。
月光が彼女の横顔を照らす。
ミナは口角をわずかに上げ、いつもの軽やかな笑みを浮かべる――
だが、その瞳は鋭く冴え渡っている。
もう後戻りはできない。
白い皿の裏に隠された腐臭は、すでに指先に触れた。
次は、暴く番だ。
ミナは音もなく身を翻し、影から影へと跳ぶ。
屋根伝いに、夜の街へ――。
闇は再び彼女を抱き込み、
その背に、静かに確信だけを残していった。
◇
――その頃。
カストリア別邸、地下に設けられた作戦室は、夜の静寂に沈んでいた。
石壁に刻まれた魔導灯が淡く灯り、長机の上には街全域を描いた戦術地図が広げられている。
赤と青の駒、無数のメモ、重ねられた封蝋文書――
すべてが、見えない戦争の只中にあることを物語っていた。
その中心に、漣司は立っていた。
焦りはない。だが、次の一手を待つ獣のような張り詰めた空気が、彼の背に宿っている。
やがて――
机の端に置かれた通信結晶が、かすかに脈打つように光を放った。
雑音混じりの結晶音。その向こうから、聞き慣れた声が届く。
『……任務完了。鍵と証拠、確保。予定より三分遅れ』
淡々とした報告。
だが、その短い言葉の裏に、どれほどの危険と緊張があったかを、漣司は知っている。
「よくやった」
労いはそれだけで十分だった。漣司は一拍置き、声を低く落とす。
「――戻れ。影の足跡を残すな」
『了解』
それきり、通信は断たれた。
結晶の光が消え、作戦室には再び静寂が戻る。
漣司は椅子から立ち上がり、ゆっくりと地図の前へ歩み寄った。
街の中心、ギルド区画、倉庫街、議会棟――
そのすべてを見下ろす位置に視線を落とす。
「……これで、白い皿の裏が見えたな」
呟きは、誰に向けたものでもない。だがその声には、確信があった。
表では清廉を装い、秩序を語る者たち。
その皿の裏にこびりついた汚れ――
金の流れ、偽造された帳簿、扇動の指示書、そして鍵。
それらはすでに、二階堂商会の手中にある。
作戦室の外。
カストリアの夜は、まだ何事もなかったかのように眠っていた。
街灯は穏やかに揺れ、市民は明日の平穏を疑いもしない。
だが、その静寂のさらに奥――
見えぬ場所で、確実に歯車は噛み合い始めていた。
資産での戦いは終わった。人心の揺さぶりも、すでに退けた。
――残るは、真実を突きつける一手のみ。
二階堂商会。次なる行動は、証拠の開示。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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