第64章 影を駆ける情報屋 ― ミナ編Ⅱ
城壁都市バルメリア。
カストリアの北西にあるオランティア地方の有力都市。人口はカストリアの約五倍と言われる。周辺の肥沃な土地を背景に、豊かな市場と厚い城壁を持ち、城壁都市として名を馳せていた。
夜のバルメリアは、表向きだけを見れば繁栄の都だった。
通りには灯火が連なり、酒場の扉からは笑い声がこぼれ、商人街は深夜まで人で賑わう。
――しかし、光が強いほど、その裏側に沈む影は濃い。
ミナはその影を、軽やかに、まるで自分の庭のように駆け抜けていく。
黒いコートの裾が夜風にひらめき、屋根瓦が微かな音を立て、黒猫のような軽さで走っていた。
今は二階堂商会の営業兼情報屋として動く彼女だが、夜の帳の中では昔の癖が戻る。
「……ふふっ。やっぱり、こっちの方が性に合ってるわね」
二階堂商会の敏腕営業として昼は穏やかに笑う彼女も、夜の帳が落ちれば、昔の血が脈打つ。
足音を残さず、屋根から屋根へ滑るように移動する感覚――
それは、忘れられるはずもない、かつての〈影走り〉としての本性だった。
脳裏に蘇るのは、あの頃の仕事の匂い。
嘘と真実の境目を歩き、時に盗み、時に聞き出し、時に消す。
都市の裏社会を知り尽くした者だけが持つ空気の重さが、夜のバルメリアには確かに漂っている。
彼女は屋根の縁にしゃがみ込み、下界を一瞥した。
灯が揺れ、笑いがこだまする賑わいの通り――
けれどその奥、薄闇の中には、荒んだ路地と貧民街の影が静かに横たわっていた。
「好景気ねぇ……言葉の化粧が濃すぎるわよ、バルメリア」
ミナの唇が、夜の風の中で冷たく笑む。
ここは、誰より彼女が得意とする場所。
真実が隠され、嘘が歩き回り、闇が情報を抱え込んでいる。
そして――ミナは、その闇にこそ強い。
細い路地を走る影の気配を感じ、彼女は立ち上がった。
「さて……市議会の尻尾、掴ませてもらうわよ」
黒猫のような身のこなしで、瓦の上を一筋の影が駆けていく。
光と影の境界線を滑るように、音もなく。
ミナの夜が、始まった。
◇
最初の標的は、富裕商人の屋敷だった。
ミナは瓦屋根からすべり落ちるように壁を伝い、そのまま影の隙間に溶け込む。
指先で窓枠の古い錠前をつまむと、くぐもったコツっという音がして、蝶番がゆっくりと開いた。
気配を殺し、猫よりもしなやかな動きで室内へ――
寝室では、主らしい男が酒の残り香をまとって寝息を立てている。
ミナはその横を、風のように通り抜けた。
到達したのは、書斎。重厚な机、その上に無造作に置かれた金貨袋と、背表紙の擦り切れた分厚い帳面。
「……はいはい、金の匂いがぷんぷんするわね」
ミナは手袋越しに帳面を開く。ぱらぱらとめくる指先は軽やかだが、眼は獲物を見据える獣のように鋭い。
――『寄付金台帳』
そこには、やたらと整った筆跡で、市議会協賛金・都市再生支援金と書かれていた。
名目ばかり立派で、用途が一切書かれていない、いかにも怪しい金の流れ。
「ふん、立派な言葉ほど、汚れ仕事の隠れ蓑になりやすいのよねぇ」
さらにページを追う。日付が違うのに、支払い額がほぼ同額。
額面のリズムが同じ――自然な帳簿ではありえない、不気味な規則性。
「これが……リュシアさんの言ってた周期の一致ってやつ?」
ミナは薄く笑った。
数字が読めるわけではない。だが、金の匂いは熟知している。
盗賊時代――袋を漁る前に、どれが生きた金で、どれが死んだ金かを嗅ぎ分けるのは、彼女の生存術だった。
ページの裏側に染み付いた指の跡。夜中に慌てて書いたような乱れ。不自然な修正跡。
「へぇ、帳簿って、こうやって匂うもんなんだ」
ひとつの帳面を閉じると、ミナは部屋の中を一望した。
この屋敷にある金は、すべて死んだ金だ。
街には回らず、市議会へ流れて景気の演出に使われるだけの。
ミナの唇が、楽しげに吊り上がる。
「いいわね。次――もっと深いとこまで潜ってあげる」
そのとき、外の風が一陣吹き込み、帳面がぱらりとめくれた。最後のページに刻まれた、ひとつの印。
――市議会特別顧問・セレスティン家
「おやおや……これはまた、大きな魚が釣れそうね」
ミナは帳面をそっと閉じ、闇に溶けるように窓から身を翻した。
◇
次の屋敷では、悪臭が最初から鼻を刺した。金の匂い――それも上へ流れる金の匂いだ。
壁に飾られた豪奢な絵画。
その裏に空洞があることなど、ミナには一息でわかった。
「はい、ありましたっと」
絵画をずらすと、封書が束ねて隠されていた。封蝋は市議会の紋章。だが文面は――
『感謝の印として、市議会へ』
『例の議題、よろしく頼む』
読むたびに、ミナの笑みが引き攣る。
「……賄賂と根回し、ほぼ確定ね。わかりやすいにも程があるわよ」
金が上下するだけならまだいい。だがこれは金で政治を動かす明確な証拠だ。
ミナは封書を丁寧に戻し、痕跡を消しながら息を吐く。
――この街は、もう表側だけの繁栄じゃ隠しきれないところまできている。
リュシアが数字の嘘を突き崩すのなら、ミナは匂いの嘘を嗅ぎ分ける。
その夜、三軒。どの屋敷にも、同じ腐敗の構図が転写されたように貼り付いていた。
商人から議員へ。
議員からさらに上の何者かへ。
街に灯る華やかな光は、富裕層が見栄のために焚き続ける焚き火にすぎない。
庶民はその火の粉で焦げながら、笑うしかない状況だ。
◇
そして――最後に辿り着いたのは、市議会の関連団体を名乗る事務所だった。
昼は役人や商人で混み合い、夜になっても魔導灯が明るく灯る。
警備も二重、三重。それでもミナにとっては、猫の通り道に等しい。
入口の鍵を、触れもせずに開ける。忍び歩きで書棚へ近づき、最下段を探る。
埃と魔力封印の気配――隠し場所としては古典的だ。
そして――あった。
一冊の分厚い台帳。重い革表紙に刻まれた金文字。
『特別会計報告』
「これは……」
開いた瞬間、ページに吸い込まれた。
『上申先:市議会本部、財務局直轄』
ミナの瞳が細くなる。
「やっぱり……全部が、ここに繋がってる」
商人たちの帳簿も、屋敷に隠された封書も。ぜんぶが、この特別会計に集約されていた。
つまり――腐敗の根は、市議会の中枢そのもの。
だがそこは、街の中心部にそびえる重厚な石造りの要塞。昼夜問わず兵士が巡回し、魔導結界まで張られている。
「正面突破は無理。裏口も、警備が二重……うん、準備が要るな」
窓枠に手をかけ、夜の外気に飛び出す。屋根の上へ戻ると、風がひやりと頬を撫でた。
遠く、バルメリア中央塔に灯る青白い魔導灯が揺れている。
あれが、市議会の象徴であり、腐敗の心臓部。ミナは屋根の上で立ち止まり、薄く笑った。
「――なら、次はそこを暴く番ね」
◇
カストリア別邸の執務室に戻ると、ミナは机いっぱいに広げたメモを指先で弾いた。
夜の間に書き込んだ走り書きは、まるで蜘蛛の巣のように赤線を張り巡らせ、富裕層の屋敷から商人ギルド、市議会の外郭団体へ――そして最終的には、市議会本部の一点へと吸い寄せられている。
「数字がどうとかはわかんないけど……金の流れは一つ。街の血管は、全部あそこに通ってる」
ミナは椅子を蹴って立ち上がり、黒い手袋を嵌めた。
その瞳は、次の夜を見ている。
「――夜の街は、私の得意分野よ」
風が窓を揺らし、カーテンがふわりと舞う。
その光と影の狭間で、ミナの唇がわずかに吊り上がった。
獲物の気配を察した黒猫の笑み。二階堂商会の影が、静かに、確実に動き始めた。
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