第63章 数字の刃 ― リュシア編Ⅱ
城壁都市バルメリア。
カストリアの北西にあるオランティア地方の有力都市。人口はカストリアの約五倍と言われる。周辺の肥沃な土地を背景に、豊かな市場と厚い城壁を持ち、城壁都市として名を馳せていた。
陽が頂へと向かいはじめたころ、柔らかな光が〈カストリア別邸〉の会議室に射し込んでいた。
その静寂を破るのは、紙の上を滑るペン先の細い音だけ。
リュシアは、硬質の瞳で帳簿を見下ろしていた。
机の上に広げられているのは、バルメリア市が誇るはずの「財務報告書」と「歳入歳出帳簿」
整然とした数字の列が美しく並び、まるで見本のような清潔さを放っている。
――だが。
「……ずいぶん、綺麗すぎる数字ですわね」
その声は氷片のように冷たく、かすかに震えていた。震えていたのは怒りか、それとも確信か。
氷の副社長――
その呼び名の由来は、美貌でも、沈着な態度でもない。
数字のわずかな乱れすら逃さぬ、鋼の眼と、失われた利益を容赦なく切り捨てる判断力。
かつて彼女がその世界で会計士として腕を鳴らしたころ、粉飾決算は経済の自殺行為であり、裏切りであり、そして何より――戦争行為だった。
敵対企業は数字で刺し、味方であろうと不正を働けば斬り捨てる。
数字とは刃であり、帳簿とは戦場。
彼女はその感覚を、絶対的に信仰していた。
◇
まず目についたのは、支出の並びだ。
「都市祭り関連費」「公共整備費」「魔導学院補助金」
――どれも巨額で、まるでこの街が黄金でも湧き出したかのような勢いで記されている。
だが、数字の裏付けとなるべき証憑が――ない。
ページをめくる指が、知らぬうちに冷たく研ぎ澄まされていく。
(……架空取引。あるいは循環仕訳。数字を存在したように見せかけているだけ)
リュシアは赤ペンを取り、迷いなく印をつけていく。
書き込むたび、帳簿の紙面に赤い傷跡が増える。
だが、傷ついているのは紙ではない。この都市の虚飾だ。
「ここ……支出が四半期ごとにぴたりと同額」
季節要因も、市場変動も、魔導素材の価格高騰すらも無視した、不自然な均整。
まるで美しさを優先して数字を作ったようだ。
(本来なら、こう整うはずがない。数字は嘘をつかない……ただ、嘘をつく人間には従う)
細い溜息が漏れる。帳簿を追うほどに、この都市の肌理が剥がれていく。
数字はまだ整って見える。――だが、その整い方こそが「歪みの証拠」
(あなたたち……数字を飾りすぎですわ)
筆先を走らせるたび、仮面が一枚ずつ落ちていく感覚。
リュシアの眼が光る。仕訳を追うたび、帳簿の表層が剥がれていく。
副社長は淡々と、しかし確実に数字の矛盾を突き刺していった。
◇
やがて、あるページで指先が止まった。
「……都市再生特別会計?」
その文字を見た瞬間、胸の奥で冷たい警報が鳴る。
金額の桁が――他の項目をあざ笑うように跳ね上がっていた。
しかも支出先は、すべて「市議会関連団体」不自然なほどそこだけが太っている。
「なるほど。粉飾の温床はここですわね」
リュシアはゆっくりと笑んだ。
柔らかいはずのその笑みは、氷刃がきらめく瞬間と同じ鋭さを帯びていた。
――その時。
書庫の扉が、遠慮がちなノックと共にぎぃ、と開いた。
「す、すみません……その帳簿は、本来閲覧制限が……」
若い書記が青い顔で立っていた。声は震え、視線は帳簿とリュシアの間をさまよう。
「閲覧制限……つまり、見られては困る理由がある、ということですわね?」
「い、いえ、そういう……っ!」
彼女は一切視線を外さないまま、凪いだ声で問いを重ねる。
「あなたの上司は、市議会の会計監査室に所属している……違いませんわよね?」
「……っ!」
書記の肩がびくりと揺れた。その反応だけで十分だった。
リュシアは息を小さく吐き、静かにペンを置く。叱責も怒声もない。ただ、凍てつく湖面のような静謐。
「命令されているのでしょう。特別会計に触れるな、他者に見せるなと」
図星。
書記は蒼白になり、唇を噛んだ。
しかし、逃げ道を塞ぐような追及はしない。彼女はふっと表情を和らげた。
「大丈夫ですわ。私はあなたを責めに来たのではありません。――ただ、真実だけを知りたいだけですの」
沈黙が数秒。書記の喉が、ごくりと鳴った。
「……す……すべては……市議長が……」
その名を聞いた瞬間、リュシアの手が止まった。
だが、彼女は冷静さを失わない。
「証拠は?」
「書庫の……最下段です。鍵の壊れた棚に……予備帳簿が隠してあります。でも、僕は……ぼ、僕は何も見ていませんから……!」
「ええ、もちろん。――あなたは、ただ案内してくれただけです」
リュシアは静かに微笑んだ。それは、氷が音もなく砕けるような笑み。
「助かりました。これで――数字の迷宮が、ようやく開きますわ」
◇
夜。
〈カストリア別邸〉の一室には、月光だけが淡く差し込み、沈黙が支配していた。
リュシアは机に積み上げた資料へ最後の視線を通し、静かにペンを置く。
数十枚の帳票、精査した裏付け、赤ペンで刻まれた無数の印。
その全てが――
一本の黒い流れへと集束していた。
「都市再生特別会計の名を借り、税収は市議会の裏金口座に吸い上げられている……」
彼女は綺麗に束ねた資料を手元へ寄せ、ゆっくりと息を吐く。
「その裏金は補助金として再分配され、市政が好景気であるかのように粉飾される。……帳簿は繁栄を描き、人々は安心し、しかし実体は空洞――」
淡々と語りながらも、リュシアの声音には鋭い熱が宿っていた。
「――バルメリアは、作られた活気で動いていたのですわ。数字は嘘をつきません。嘘をつくのはいつだって……人間のほうです」
指先が、机の木目を軽く叩いた。かすかな音が、判決の槌のように静寂へ落ちる。
これで確定した。疑惑でも憶測でもない。第三者が覆せない形にした証拠だ。
彼女は資料を一束にまとめ、二階堂商会の共有机へとそっと積み上げた。
影が伸び、紙束の上に冷たい月光が落ちる。
――目標は定まった。
都市最大の聖域とされる行政機関。権力と既得権が入り乱れ、人々が最も触れたくない領域。
その中心部にこそ、巨悪が潜んでいる。
リュシアは椅子から腰を上げた。その横顔は、剣を抜く前の騎士のように研ぎ澄まされている。
「次に切り込むべきは――市議会そのもの。数字が導いた答えを、現実に突きつける時が来ましたわね」
闇夜が静かに濃くなる。二階堂商会の頭脳は、ついに都市の心臓へ刃を向けたのだった。
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