第60章 接待作戦・前半 ― カストリア別邸再び
城壁都市バルメリア。
カストリアの北西にあるオランティア地方の有力都市。人口はカストリアの約五倍と言われる。周辺の肥沃な土地を背景に、豊かな市場と厚い城壁を持ち、城壁都市として名を馳せていた。
バルメリア中心街――
そこは昼夜問わず人が行き交う、商人たちの喉元ともいえる大動脈だった。
その一角に、つい昨日まで埃と湿気にまみれ、客足も絶えていた古びた酒場があった。
だが今、その店は生まれ変わっている。
漣司の指揮のもと、二階堂商会が秘密裏に買い取り、わずか数日で改装を施したのだ。木壁は磨かれ、看板は新調され、魔導灯が柔らかな金色の光を落としている。
その名は――
《夜会亭カストリア別邸》
表向きは落ちぶれた酒場の再興にすぎない。だが実情は、二階堂商会が次の一手を放つための舞台。
ここで酒を酌み交わす者の口は緩む。
ここで笑顔を見せるのは、商人、議員、兵士、そして裏社会。
都市の裏側へと続く扉は、そんな小さな酒場の片隅から開くのだ。
開店直前、ひっそりと集まった役員たちの前に、漣司が歩み出た。
整えられた内装を一瞥し、満足げに頷く。
「――よし。ここを都市の喉元にする。そして、口を開けた魚には、自然と餌が流れ込んでくるというものだ」
その目は静かに笑っていたが、底には獲物を見据える光が宿っていた。
「二階堂商会、接待作戦、開始だ」
漣司の声に、役員一同が頷いた。夜会亭の扉が、ゆっくりと開かれる。
バルメリア最大の夜が、今まさに幕を開けようとしていた。
◇
「社長、準備は万全だよ!」
カストリア別邸に改装された酒場――いや、戦場に、ミナの明るい声が弾んだ。
トレーを片手にくるりと回るその動作は、妙に板についている。
前回の接待で身につけたスキルなのか、その所作は軽やかで、まるでこの店の生まれつきの看板娘のようだった。
「……なんでそんなに楽しそうなんだよ」
ロイは新調したソファを肩に担ぎながら、苦笑混じりにぼやく。
彼の額には汗がにじんでいるが、その目には奇妙な諦観と覚悟が入り混じっていた。
「慣れたもんだな、俺たち……うち、どんな法人なんだよ、ほんと」
すると、その横で――。
「よォし運び終わったゾォおおお!」
ガロウが樽を片手でがっしり抱え、広間へ闊歩してきた。
床板が震えるほどの豪快な足取りだ。
「ハハッ! オレはこの瞬間のために生きてる気がすル!酒は戦の道具! ならば注ぐのも戦だァーッ!」
「お前は注ぐ前に飲むなって言ってるだろ!」
ロイが思わず叫ぶが――
「もう遅いです♪」
ミナがにこやかに爆弾発言。
ガロウの背中越しに、空になった樽のひとつが転がっていくのが見える。
「……先が思いやられる」
ロイの肩ががっくり落ちる。
◇
リュシアはホール中央に立ち、集まった女性スタッフに鋭くも気品ある視線を向けていた。
黒のドレスに身を包んだ彼女は、まるで夜会そのものを統べる女王だ。
手にした銀のグラスは、持ち主の厳格さを映して冷たく光る。
「――まず心得よ。接待とは、媚びではなく観察です」
静かな声がホールに響く。
「相手の目を見て、どんな悩みを抱えているかを読むこと。それが最初の仕事となります。酒を注ぐ手より、心に触れる目線を磨きなさい」
女性スタッフたちは、まるで高位術式を聞く魔導士のように真剣にメモを取っている。
その中に――ルーチェもいた。
だが、その眉間には深いしわ。唇は「むぅ……」の形。
背筋は伸びているのに、完全に混乱している顔だった。
「リュシア殿、つまり……その、殿方を楽しませるということであろうか?」
「そう、話を引き出して、笑わせて楽しませることです」
「な、なるほど……つまり、道化であれと……!」
「いや、そういう意味では――」
だがルーチェは妙な方向に理解してしまったらしく、目にぎらりと決意の光を宿した。
「拙者、心得た!殿方の心、笑いで掴んでみせようぞ!さぁ、どこから転がればよいのだ!?」
ルーチェはあわあわしながらも、勘違いしたやる気で拳を握りしめる。
「拙者、今日から光の道化として――」
「だから違うって言ってるでしょうが!!」
その騒ぎを見ていたミナは、こっそりロイの袖をつまんで小声でささやく。
「……嫌な予感しかしないわね」
「だな……」
とロイも額を押さえた。
◇
リュシアは接客マナーの実演を続けていた。
その所作は優雅で、手の角度ひとつ、歩幅ひとつすら計算されている。
銀のグラスを傾ける姿は、もはや氷の副社長というより社交界の魔術師だった。
「注ぐ角度は四十五度。音を立てないように――そう、液面を見て。声量は控えめに。質問は、はい・いいえで終わらせてはなりません。会話の流れを止めずに、常に相手の鼓舞を意識して」
新たに雇われたバルメリアのスタッフたちが一斉にペンを走らせる。
だが、一人だけ、深いため息をつきながらトレーに顔を乗せる者がいた。
「うわぁ……なんか試験受けてる気分……」
ミナだ。
「――静粛に」
ピシャリと飛ぶリュシアの声は、まるで氷刃。
新人スタッフたちの背筋が一斉に伸びた。
その完璧な立ち居振る舞いに、バルメリア勢の新人たちは惚れ惚れしていた。
だが、その中でミナが囁く。
「……ちなみに、あの完璧マナー先生ね? ああ見えて酔うと床で寝るんですよ」
「え?」
「いや、なんでもないわ……あ、やば、ルーチェ聞いてる」」
案の定、ルーチェがメモ帳を片手に、真剣そのもので頷いていた。
「ふむ……酔うと床で寝る、これも接待術の一環……つまり、気を許した姿を見せる奥義……」
「ちがーうっ!」
ミナとロイのツッコミが同時に飛んだ。だがルーチェは頬を赤くし、きりりと拳を握る。
「心得た! 拙者もいざとなれば床で寝――」
「絶対やめてッ!!」
新人スタッフ含め、全員が一斉に止めに入る騒ぎとなり、ホールには一瞬だけ、講義の緊張を吹き飛ばす暖かな笑いが広がった。
◇
夕刻。《夜会亭カストリア別邸》の空気が、ゆっくりと夜の装いへと変わり始めた。
カーテン越しに差し込む最後の陽光が黄金に揺れ、室内のランプが一つ、また一つと灯されていく。
樽から漂う穏やかな酒香と、磨き上げられた木床のほのかな香が混ざり、広間は緊張と期待の匂いで満ちていた。
リュシアはホール中央に立ち、細かく整列されたグラスを一本ずつ指先でなぞっていく。
微かな乱れすら許さぬ完璧な所作。
彼女が触れただけで、ただの酒場が宮廷の晩餐会のような気品を帯びる。
そして、その横で――。ルーチェは表情を指導されている。
「姿勢、よし。……次、表情。もっと柔らかく」
「このようにか? ……こう?」
「それは笑顔ではなく、敵を威嚇している顔です」
「ぬぬぬ……これでも、拙者なりの笑みなのだが……!」
リュシアが額を押さえる。そんな二人のやり取りを見て、ミナは吹き出した。
「大丈夫、現場で慣れるって♪ ね、社長?」
「……前回もそれで慣れすぎただろう」
ロイがため息をこぼしながら各テーブルを確認して回る。
すでに各席には軽い前菜、上質な水差し、職人が磨き上げたランプが整えられていた。
「お客様リストは確認済み。議会の補佐官が三名、商人組合が二名、兵站局から一名。全員、都市の中層を支える人間ばかりです」
ロイが簡潔に報告する。
「上層部はまだ呼ばん。中層の本音を掘る」
低く落ち着いた声。漣司が、壁際で地図に目を落としながら告げた。
「強い酒と甘い料理で心をほぐし、油断した一言を引き出す。人間は、杯の縁で真実をこぼすものだ」
その瞳は、獣のように鋭かった。
「今日の目的は一つ。――虚飾で塗り固められたバルメリアの本音を暴く」
その声が全員の胸を震わせた。
ミナはトレーをくるりと回し、ガロウは樽を肩に担ぎ、ロイは帳簿を閉じ、ルーチェは緊張で耳まで赤く染めながらも構える。
まるで戦場に立つ前の、静かな高揚が生じていた。
◇
準備はすでに整っていた。だが、酒場に満ちる空気は、ただの開店前の静けさではない。
卓上に並んだグラスは、磨かれた刃のように光を放ち、ランプのゆらめきは、武装法人の臨戦態勢そのものを照らし出していた。
ガロウが、戦場へ赴く兵士のように樽を抱え、豪快に笑う。
「さァ、開戦だ! 敵は酔い、味方も酔う、最後に立つのはどっちだァ!」
「たぶんあなたよ」
リュシアが冷ややかに言い放つが、その声は苛立ちより諦めの色が強い。
「酒こそは戦士の燃料ッ! 誰にも負けねェ!」
ルーチェは胸に手を当て、きっぱりと宣言した。
「拙者、全力で殿方を楽しませる覚悟である!どれほど過酷な接待とて、このルーチェ=ヴァルノア、退きはせぬ!」
「だから違うんだってば!」
ミナが頭を抱えて叫ぶが、ルーチェは任務への使命感で耳が塞がっている。
――そして。
すべての準備を見届けた漣司が、静かに一つのグラスを取り上げた。
その動作だけで、場の空気がキリリと締まる。
「……さて。武装法人二階堂商会による夜会を始めよう」
低く、だが確かな響きを持つ声。
「狙いは一つ。心をほぐし、舌を緩ませ、真実を掘り起こす。ここはただの酒場ではない。――俺たちの戦場だ」
その瞬間、扉の向こうから、笑い声と足音が近づいてきた。
楽師たちの奏でる弦が低く鳴り、酒の香がふわりと空気を満たす。
《夜会亭カストリア別邸》
煌びやかな外観も、温かな光も、すべては偽りの平和を裂くための幕。
バルメリアの裏側を暴く、静かなる攻勢の舞台。
そして――
接待作戦、開幕。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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