第56章 労働者の嘆き ― ロイ編
城壁都市バルメリア。
カストリアの北西にあるオランティア地方の有力都市。人口はカストリアの約五倍と言われる。周辺の肥沃な土地を背景に、豊かな市場と厚い城壁を持ち、城壁都市として名を馳せていた。
バルメリアの街路は煌びやかな提灯と魔導灯で彩られ、夜になっても途切れることのない客足が豪奢な商店を照らし出していた。
しかし、ひとたび大通りから離れれば、喧噪はすぐに途切れる。
薄暗い路地に足を踏み入れれば、途端に空気が変わった。
鉄を焼く匂い、油の湿気を帯びた熱、何度も修理された木造家屋の軋む音――
そのすべてが、労働者街の現実を物語っている。
漣司から託された任務は、豪奢な建物でも役所でもなく、この街の底へ潜り込むこと。表向きの繁栄の裏に、どんな不協和音があるのか。ロイは肌でそれを感じ取れ、そう言われた。
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俺はロイ=フェンネル。元労働者だ。
今は武装法人二階堂商会の役員として働かせてもらっている。
――ここが、この都市の心臓部か。
豪奢な門や浮かれた市場とは、まるで別世界だ。ここでは余裕も笑顔も飾り付けもない。
ただ、今日を生きるために腕を振るい続ける者たちがいる。
俺は革手袋を外し、近くの工房へ近づいた。
ひび割れた扉の向こうには、汗に濡れた職人たちが十人ほど。鉄槌が受け皿を叩きつける重い音が、腹の底まで響く。俺が一歩踏み入れた瞬間、鋭い視線が一斉に向けられた。
「なんだ、よそ者か」
「また出稼ぎの流れモンかよ」
冷ややかな声。あからさまな警戒。
俺は口を開く代わりに、静かに頭を下げ、そっと工具棚へ目をやった。
古びたハンマー、刃こぼれしたノミ。どれも酷使されている。俺は静かに頭を下げ、工具を取った。
「……手を貸していいですか?」
沈黙。空気が張りつめる。だが、ひげ面の大工がチラと俺を見て、鼻を鳴らした。
「勝手にしな」
挑発とも、あきらめとも取れる声。
それでも俺は応えず、黙って材木の束を肩に担いだ。重い。だが笑みは崩さない。
次に鉄材を磨く。火花が腕を掠める。額から滴り落ちた汗が、熱で歪む床にぽたりと落ちた。
ひたすら動き続ける。余計な話はしない。ただ、黙々と力を尽くす。
それからしばらく、俺はひたすら黙って材木を運び、鉄材を磨いた。
額から汗が滴り、腕は痺れる。だが、それでも笑顔を絶やさなかった。
次第に、職人たちの視線が変わっていく。
◇
「……あんた、本当に働くんだな」
「最初は冷やかしに来たのかと思ってたが……その目は、俺たちの仕事を見下してる連中の目じゃねぇ」
作業の手がひと段落した頃、年配の職人がぽつりと漏らした。
俺は工具を置き、ただ静かに頷く。胸に息が詰まったまま、彼らの言葉を待った。
「正直な話よ。この街は表の顔だけ見りゃ繁盛してるように見える。だが実際は赤字続きだ」
「賃金なんざ三ヶ月も滞ってる。税は上がるばっかで、借金しなきゃ家族も食わせられねぇ。……あんたが歩いてきた華やかな大通りは、全部見せかけだ」
淡々と語られる声は、怒りでも泣き言でもない。ただ、削り過ぎた刃物のように乾いていた。
その現実が、胸の奥で鈍く響く。働いても、報われない。努力しても、未来が閉ざされている。
……これがバルメリアの、誰にも見せない本当の姿なのか。
思わず拳を握る。俺は誠実であることだけは捨てたくなかった。
誰かの痛みから目をそらすような――そんな大人にはなりたくなかった。
けれど、知らなかった。この街が、これほどまでに静かに血を流していたなんて。
その事実が、まるで胸の内側に突き立つ刃のように、俺に深い衝撃を与えた。
◇
休憩の時間、俺は粗末なパンを分けてもらった。
それを噛み締めながら、隣に座った若い労働者が言った。
「なあ兄ちゃん、あんた……どこから来たんだ?」
「カストリアだよ」
俺は正直に答えた。
「俺は、あそこで二階堂商会の一員として働いている。あの街を変えた組織ですよ」
男は目を見開いた。
「カストリア……田舎都市だろ? だが噂は聞いた。治安が良くなり、仕事が増えたって……」
「そうだ」
俺は強く頷いた。
「俺たちは、ただ上に立つんじゃない。民の暮らしを豊かにするために戦ってる。あんたたちだって、もっと誇っていいはずだ」
労働者たちは黙り込んだ。だが、その表情はほんの少し和らいでいた。
◇
夕暮れ。工房を後にするとき、あの大工の老人が声をかけてきた。
「……あんた、本当に民の側に立つなら、頼む。この街を……俺たちを救ってくれ」
俺は振り返り、拳を固く握った。
「必ず。約束します」
その言葉は、自分自身への誓いでもあった。
◇
夜。宿へ戻ったロイの目には疲労と共に、確固たる意志が宿っていた。
庶民の嘆きは、紛れもない現実だった。
――この都市は、繁栄を装いながら、底辺を切り捨てている。
漣司が直感した違和感は、確かな形を取り始めていた。
夜風が冷たいはずなのに、汗の残る肌はむしろ熱を帯びている。
今日見た光景が、胸の奥に焼き付いて離れない。
――賑わう大通りのすぐ裏で、声も上げられず沈んでいく人々がいる。
――働いても報われず、搾られるだけの生活がある。
――それを覆い隠すように、都市は光を飾り立てている。
知ってしまった以上、目を背けることなどできなかった。
老人の手は震えていた。
あの言葉は懇願ではない、限界に追い詰められた者がすがりつく最後の希望だった。
ロイの胸が、じくじくと痛む。
「……救う。必ずだ」
その呟きは、まるで刃のように静かで鋭い。
もしこの都市の繁栄が嘘で塗り固められたものなら、暴かねばならない。もし誰かが民の未来を奪っているのなら、立ち向かわねばならない。
今日、ロイがこの目で見た。感じた。それは揺るぎない証拠として、重く彼の心に沈んでいる。
窓の外で街灯が揺れ、煌びやかな光の帯が遠くに続いていた。
その輝きの下にある闇を思うと、胸の奥がざわつく。
ロイは立ち上がる。疲労の影を抱えながらも、その瞳には強い光が宿っていた。
――この都市の真実を暴く。
――そして、必ず救う。
それは誰に向けたものでもない、静かな、しかし確固たる誓いだった。
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