第5章 峡谷橋梁 ― 公共事業入札と資源封鎖の序曲
カストリア南門の外、大地は深く裂け、巨大な峡谷が口を開けている。
その裂け目をまたぐ石橋は、都市と農村を結ぶ唯一の物流路だった。
穀物も、家畜も、建材も、人の往来も――すべてがこの橋を通る。
だが石材は年を経て疲労し、支柱には細かな亀裂が走っている。
近年は崩落の危険がたびたび報告され、
市議会はついに修繕工事の入札を決定した。
――もっとも、それは表向きの話だ。
実態は、地元大商会が高値で落札し、役人に袖の下を渡す出来レース。
競争とは名ばかりの、慣例に守られた分配儀式だった。
そこへ、「二階堂商会が参加する」という報せが投げ込まれた瞬間――
会議室に、ざわりと小さな波紋が走る。
「……聞いたか? あの新興商会だと」
「冗談だろう。橋の修繕だぞ? 露店感覚で手を出されちゃ困る」
革張りの椅子が軋み、書類を叩く音が混じる。
半笑いの視線が、部屋の一角へと集まった。
「新参が出しゃばるとはな……」
「資金繰りの計算もろくに出来んだろう。
赤字覚悟で名を売りたいのか?」
嘲る声が、遠慮なく飛ぶ。
だが――
漣司は悠然と椅子に腰掛けたまま、眉一つ動かさない。
指先を組み、静かに相手を見るその眼差しは、
感情よりも計算に近かった。
「……噂ほどの大物なら、もう少し緊張してくれてもいいんだがな」
誰かが苦笑混じりに呟く。
その横で、リュシアが淡々と口を開いた。
「ご心配なく。こちらは赤字で仕事をするつもりはありません」
「ほう? ずいぶん自信がおありで」
役人の一人が眉を上げる。
漣司はそこで、ようやく小さく口を開いた。
「橋は、博打で直すものじゃない」
短い一言。
だが、不思議とその場の雑音が一瞬だけ静まった。
漣司は視線をリュシアに向け、軽く頷く。
次の瞬間、二人は準備してきた書類を机の上へと広げた。
図面、試算、工程表。整然と並ぶ紙束が、
まるで戦場に展開される布陣のように机を埋めていく。
「では――条件の確認から始めましょう」
リュシアの声は冷静で、揺れがない。
会議室の視線が、一斉に書類へと吸い寄せられた。
――出来レースだったはずの入札は、
この瞬間から静かに形を変え始める。
◇
入札会は市庁舎の大広間で行われた。
各商会の代表が順に見積書を提出していく。
数字はどれもほぼ横並び――
談合が透けて見える。最後に漣司が立ち上がった。
「二階堂商会の見積を提示する」
広げられた書類には、緻密な表が並んでいた。
石材、木材、職人賃金、輸送費、保険料……
項目ごとに数字が分解され、合計は他商会の半値近くに収まっている。
「ば、馬鹿な! そんな額でできるはずが――!」
「粉飾だ! あり得ん!」
動揺する商人たちに向けて、リュシアがすっと一歩前へ出た。
「これは、推測ではありません」
机上の書類に指先を置く。
紙がわずかに擦れ、会議室の空気が静まった。
「実際に、我が商会で調査した原価に基づいています」
数枚の資料がめくられる。
走り書きの数字、細かな注釈、びっしりと並ぶ計算式。
「職人組合の平均賃金」
指が一列をなぞる。
「石材市場の価格推移」
次のページが示される。
「運送路の距離と、積載効率」
商人たちの視線が、思わず書類へ吸い寄せられた。
「さらに――工期を短縮することで発生する、
人件費の削減も織り込み済みです」
静かな断定。
その声には迷いがなく、数字の裏付けが、刃のような説得力を帯びていた。
「談合による高止まりは、都市財政の赤字を招くのみ。
市議会が健全経営を望むなら、我々の提案が唯一合理的です」
沈黙。官吏たちの表情がこわばり、やがて囁き合いが始まる。
談合の温床が白日の下にさらされた瞬間だった。
◇
数日後。入札結果の掲示板の前に、人だかりができていた。
「落札者――二階堂商会」
その瞬間、ざわめきが爆ぜた。
長年この街を食い物にしていた談合組が、
たった一度の新参入札で崩れた。
誰もが信じられないという顔をしている。
「……あそこ、本当にやりやがったぞ」
「大商会相手に、どうやって……?」
「商会長、あの異国の男だろ。何かやりやがったな」
噂が噂を呼び、二階堂商会の名は一気に広まった。
新参商会が、談合を崩して公共事業を勝ち取ったのだ。
工事初日。橋の上で、漣司は堂々と腕を組んで職人たちを見渡した。
陽光を背に、まるで戦場の総大将のごとく。
「聞け! この工事は街の骨を作る仕事だ。手抜きは一切許さん!」
鋭い声が、川面に反響して跳ね返る。
「品質は基準どおり。だが――工期は短縮する!
文句は言わせない。我が商会の看板が、この橋に刻まれるんだ!」
どよめきが職人たちを駆け抜けた。だが、反発ではない。
胸を熱くする、期待混じりの緊張。
なぜなら――彼らはもう知っている。
二階堂商会では、汗を流した分だけ確実に金が入る。
誤魔化しも、搾取も、適当なごまかしもない。
「……社長の言う通りにやれば、ちゃんと評価される」
「だったら、やるだけだ!」
重機とハンマーの音が、一斉に高まった。
職人たちの士気はかつてなく高い。
まるで枷を外されたかのように、動きが軽やかだ。
新しい制度と新しい未来を手にした彼らは、
街で初めて、喜びを味わっていた。
職人たちの士気は高かった。
彼らもまた、正当に評価される環境を求めていたのだ。
◇
だが、順調に進むはずの工事に、突如として悲鳴が走った。
足場が乾いた音を立てて崩れ、
若い職人が谷底へと吸い込まれるように落ちかけた。
「うわああっ!」
悲鳴。空気が凍りつく。
誰もが間に合わないと悟った。
だが次の瞬間、リュシアが詠唱を走らせた――
詠唱が閃光のように飛び、氷の鎖が疾駆する。
白い鎖は落下する青年の体を確実に捉え、宙でぴたりと固定した。
しかし、鎖だけでは戻しきれない。軋む音が空気を震わせる。
その音に重なるように、漣司が足場を蹴って跳び出した。
「掴んだぞ!」
氷の鎖を両手で握りしめ、全身の力で引き寄せる。
腕が悲鳴を上げても、彼は離さない。
リュシアが鎖を補強し、
二人の動きはまるで事前に打ち合わせたかのように噛み合った。
やがて青年は地面に戻され、震える肩を漣司が軽く叩く。
「安心しろ。二階堂商会の現場で死人は出さない。
――それが契約だ」
張り詰めた空気が、静かに、そして劇的にほどけた。
職人たちは息を呑み、互いに顔を見合わせ――
次の瞬間には、爆発するような歓声が湧き上がる。
「社長だ……!」
「助けた……本当に助けたぞ!」
「二階堂商会は本物だ!」
新参商会を疑う視線は、確信と尊敬へと一気に塗り替えられていった。
◇
完成した橋は予定より早く、かつ低コストで修繕された。
市民たちは喜び、商会の名声は一気に広まった。
だが、その直後。市役所に一通の通告が届いた。
「資材供給を停止する。石材の出荷は一切認めない」
記されていたのは、たったそれだけ。
だが、その一文が持つ意味は致命的だ。
橋の完成が遅れれば、二階堂商会の信用も、
市の公共事業も、すべて瓦解する。
送り主は、商人ギルドの大手商会。
橋の成功を妬み、資源供給を封じ込めに来たのだ。
漣司は通告書を握り潰し、笑みを浮かべた。
「ほう……資材を止めてこちらを屈服させるつもりか。
随分と古典的だな」
その笑みは、恫喝にも怯まず敵の急所を探る、
敵対的買収屋の冷たいそれだった。
「いいだろう。――次の戦場は、資源供給網だ」
横に立つリュシアの唇が、愉悦を含んで歪む。
「社長。数字の戦争から、いよいよ物流戦へ。
面白くなってきましたね」
「面白い。こちらも本気を出すしかないだろう?」
二人の視線が同時に橋へ向けられた。
夕陽に照らされた新造の橋は、完成したばかりだというのに、
まるで次の闘いの門であるかのように赤く輝いている。
その光景を見つめながら、漣司の背中から静かに覇気が立ち上る。
――ここから先は、商売ではない。戦争だ。
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