第36章 戦場の余波 ― 生き延びる者たち
戦場に漂っていた血の匂いは、冷え始めた風に少しずつ削り取られていった。
燃え尽きた補給地点は、なおも黒煙を吐き、焦げた地面には無数の足跡と倒れた武具が散乱している。〈赤狼の牙〉の残兵は、勝敗を悟ったかのように四散し、荒野の彼方へと溶けていった。
勝った――
それは誰の目にも明らかだったが、同時に、この場に立つ者全員が理解していた。
これは終わりではなく、「生き残った」という事実に過ぎないということを。
「負傷者を集めて!治療班はすぐに展開を!」
リュシアの声が、煙に覆われた戦場を鋭く切り裂く。
その指示に即座に応じ、兵たちが動き出した。倒れた仲間の名を呼び、肩を貸し、即席の担架を組む。砂にまみれた鎧が擦れ合い、うめき声と慌ただしい足音が混じり合う。
それでも――そこに、恐慌はなかった。
庶民兵たちは疲労で膝をつきながらも、互いの無事を確かめ合い、泥と血に塗れた手で肩を叩き合う。誰かが笑えば、釣られるように笑いが広がった。
それは勝鬨でも、歓声でもない。
ただ、「生きている」という実感が、胸の奥から滲み出た結果だった。
「……生き残ったな」
ロイは深く息を吐き、槍を地面に突き立てて体を支えた。震える指先を、彼自身が一番驚いたように見つめる。
「俺たち……本当に、戦えたんだな」
声は掠れていたが、その瞳だけは曇っていない。
泥と血で汚れた顔の奥で、確かな誇りが静かに燃えていた。
風が吹き抜ける。煙を散らし、血の匂いを薄め、戦場に張り詰めていた緊張をゆっくりと解いていく。
死線を越えた者たちの胸に残ったのは、派手な栄光ではない。
互いに生きて戻れたという、ささやかで、しかし何より重い達成感だった。
そしてその温もりは、次の戦いへ向かうための確かな礎となって、静かに彼らの中に刻まれていく。
◇
一方その頃――戦場の端。踏み荒らされた茂みの奥から、まるで地面に捨てられた布切れのような二つの影が、ずる……ずる……と這い出してきた。
「……チカ……おーい……生きてるか……?」
息も絶え絶えに声を絞り出すゴローに、数拍遅れて、泥だらけの赤毛がもぞりと動く。
「……生きてるわよ……でもね……」
チカはゴローの方を睨み、ぐったりしたまま指を突きつけた。
「あんたのせいで、クロスボウまた壊れたからね……!」
「ち、違うって! あれは完全に設計不良だって! 俺は悪くない!」
「はいはい設計不良。毎回それ。じゃあなんで毎回あんたが持つと壊れるのよ」
「そ、それは……使用者との相性とか……?」
「相性悪すぎでしょ!」
言い合いながらも、二人は互いの存在を確認するように視線を合わせる。服は裂け、鎧は歪み、髪も顔も泥と血でぐちゃぐちゃ。それでも命だけはちゃっかり繋がっていた。
「……なぁチカ」
ゴローが仰向けのまま空を見上げ、力なく笑った。
「俺たちさ……なんで毎回、こんな目に遭っても死なねぇんだろうな」
「知らないわよ。でも――」
チカは小さく肩をすくめる。
「死なないのも、才能ってやつでしょ。たぶん」
二人は一瞬顔を見合わせ――次の瞬間、泥だらけの顔で吹き出した。
「と、とりあえずさ……ここ、完全に分が悪いよな……?」
「そうだね。赤狼の牙も壊滅気味だし、商会の連中は勝ちムードだし」
「……じゃあ」
「……うん」
声を揃えて。
「「ここはサクッとトンズラ決めよっか!」」
二人は顔を見合わせ、泥だらけの笑顔を大きく弾けさせた。
笑いながら這いずる姿は、まるで生き残るための最強コンビのパフォーマンス。
戦場の影に紛れ、再び姿を消していくその後ろ姿に、誰も気付かない。
――いや、気づいても止められないだろう。
◇
その頃、戦場の中央。
漣司は兵たちの輪の中心に立ち、煙の残る街道を静かに見渡していた。
倒れた者はいる。傷を負った者も少なくない。だが――誰一人、切り捨てられた者はいない。
砂煙と血の匂いが漂う中、彼の瞳は冴え冴えと澄み、そこには確かな誇りが宿っていた。
「……よくやった」
その声は大きくはない。だが、不思議と戦場の隅々まで届いた。
「お前たちは全員、この勝利に不可欠な一手だった」
一瞬の静寂。次の瞬間――
「うおおおおお!!」
歓声が爆ぜる。槍と盾が打ち鳴らされ、鎧の擦れる音が重なり、勝利の余韻が波のように広がっていく。
「社長となら、また勝てる!」
「俺たちは捨て駒じゃない! 仲間だ!」
炎に照らされた兵たちの姿は、まるで一つの巨大な炎の塊のようだった。
その光景を一歩引いた場所から見つめ、リュシアは静かに息を吐く。
「……社長」
誰にも聞こえぬほど小さく、それでも確かな声音で。
「あなたは……誰よりも、卓越した人です」
戦場に残る静寂の中、その言葉は重く、深く、確かに刻まれた。
漣司はもはや、ただの指揮官ではない――そう、誰もが感じていた。
◇
――だが、戦は終わっていなかった。
丘の向こう側から、獣の喉を引き裂くような咆哮が轟く。
その一声だけで、大地が軋み、空気が震え、戦場に残る砂埃が一斉に巻き上がった。
兵たちの背筋を、冷たいものが駆け抜ける。
「……来るぞ」
誰かが呟いた、その直後だった。
「人間風情が……俺の牙を、折れると思うなァァ!!」
怒号と共に姿を現したのは、赤狼の牙の頭目――
グラド・バルザーク。
血と肉を吸った大剣を肩に担ぎ、巨体が一歩踏み出すたび、地面が鈍く沈む。鎧は裂け、全身は傷だらけでありながら、その眼だけは狂気じみた闘志に燃え盛っていた。まるで、敗北という概念そのものを拒絶する怪物だ。
荒れ狂う風が吹き抜け、戦場の音が、すっと消える。
歓声も、安堵も、勝利の余韻も――すべてが切り落とされたかのように。
残されたのは、凍りつくような沈黙と、死の気配。
兵たちは息を呑み、喉を鳴らすことすら忘れて立ち尽くす。誰もが理解していた。
――ここから先は、逃げ場のない最終局面だと。
その中心で。漣司は、静かに一歩、前へ出た。
金属が擦れる澄んだ音と共に、大剣が鞘から引き抜かれる。
刃先に宿るのは、怒りではない。恐怖でもない。
積み重ねてきた選択と、覚悟だけが、冷たく研ぎ澄まされていた。
「……ここからが本番だ」
――だが、戦は終わっていなかった。
丘の向こう側から、獣の喉を引き裂くような咆哮が轟く。
その一声だけで、大地が軋み、空気が震え、戦場に残る砂埃が一斉に巻き上がった。兵たちの背筋を、冷たいものが駆け抜ける。
風に舞う砂と血の匂いの中、兵たちの視線が一斉に漣司へと集まる。
その背中は、決して大きくはない。それでも――なぜか、倒れる未来が想像できなかった。
緊張が張り詰め、心臓の鼓動が戦場のリズムと重なっていく。
恐怖は消えない。だが、逃げる理由も、もうどこにもなかった。
生き延びるためではない。勝つためでもない。
――ここで、終わらせるために。
全員の覚悟が、ひとつに固まり、静かに燃え上がる。
最終決戦の幕が、音もなく、しかし確実に上がった。
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