第24章 資金戦の泥沼 ―資金ショートの窮地
夜半、倉庫街の灯が一つ、また一つと落ちていく。帳簿室だけが白く灯り、羊皮紙の上を走る羽根ペンの音が乾いた空気を削った。
「……資金残高、銀貨三百一枚」
リュシアが読み上げた数字は、刃物のように冷たい。
「両替商へ持ち込まれた手形の現金化が、昨日からさらに加速。郊外の街道封鎖で、農村からの搬入も三割減です」
漣司は黙って窓外に伸びる行列を見た。夜明け前だというのに、倉庫の前には手形を握りしめた市民が並ぶ。父親が子を抱き、老婆が息を詰め、裂けた財布の紐が風に鳴った。
「三百一か……」
日本で見た黒字倒産のグラフが脳裏に浮かぶ。利益があるのに、キャッシュが尽きて死ぬ会社の姿。資金は血液、止まれば即死。理屈を知っていても、現実は容赦がない。
「社長!」
扉を蹴るようにしてミナが飛び込む。髪に夜露を光らせ、息を切らしたまま報告した。
「市場の南側、両替商の窓口に、ギルドの見張りが立ってる。『今のうちに銀貨に換えろ』って囁いて回ってる。……列はあたしが少し散らしたけど、また伸びる」
ロイが拳を握る。
「俺も『手形は使える、倉庫で現物決済できる』って説得しました。けど、腹が減った子の前じゃ、言葉は弱い……」
机を叩く重い音。ガロウが斧の刃を逆手で支え、歯を剥いた。
「なら両替商を締め上げりゃ早ェ話だロ! 店ごと引っこ抜いて、ギルドの札束を吐かせればいイ!」
「やめろ。力で信用は買えない」
漣司は首を振る。
「暴力は一瞬で気が済むが、傷は長く残る。俺たちは『武装法人』、剣は契約を守るためにある」
沈黙が落ちた。羽根ペンの先でリュシアが別紙を指す。
「在庫は麦で十日、干し肉は六日。油は三日。銀貨は……持って五日。保険積立金を取り崩せば延命はできますが、信用の源泉を削ることになります」
延命。聞き慣れた語だ。日本では「リスケ」と呼ばれ、延命の先に廃業が待っていた。延ばすのは時間であって、命ではない。漣司は瞼を閉じ、頭の奥の本棚から古い頁を引き抜く。『孫子』。
――兵は拙速を尊ぶ。
――窮すれば則ち変ず、変ずれば則ち通ず。
紙背の声が、冷たい油のように胸の奥へ落ちた。
「リュシア、現金を使わない取引の比率はいまどれくらいだ」
「倉庫の取引所で六割。現物と手形の直接交換が中心です。残り四割は両替商経由の銀貨決済」
「四割を零に寄せる。現物の流れを太くして、銀貨の流れを細くする。商会の倉庫を都市の腹にするんだ」
ロイが顔を上げた。
「腹、か……」
「人は腹が決める。決済の列を食料の列に変える。パンと干し肉を一人前ずつ必ず出す。並ぶ動機を『換金』じゃなく『食える』にすり替える」
「食わせ続けられるのカ?」
ガロウの問いは実務的だ。
「食わせる。だが列は管理する。時間帯で職種を区切れ。朝は子連れと老人、昼は職人、夕は日雇い。混乱を避ける導線を作る。外周に警備を立てろ」
ミナが片眉を上げ、薄く笑う。
「列の最後尾にギルドの囁き屋が付く。あたしが囁き返すよ。——『換金列は今日で終わり。明日からは配給ルートに回る』って」
「囁きじゃ弱い」
漣司は棚から木札を取り出し、リュシアの前に置く。
「引換札を刷る。日付、番号、家族人数。手形にも番号をふる。並ぶ権利を番号にする。列は番号に従って動く。番号は嘘をつかない」
リュシアが瞬きを二度、三度。
「……規律で混乱を飲み込む、ということですね。畏まりました。印刷は私が回します」
外からざわめきが濃くなる。窓の下で、誰かが泣き、誰かが叫ぶ。漣司は木札を握りしめ、言った。
「俺が前に出る。手形は紙じゃない。『明日も食える』という約束だ。約束を、今ここで守る」
石段を下りる靴音に、仲間たちの足音が重なる。ガロウが大斧を担ぎ、ミナが闇に溶け、ロイが群衆の壁へと向かう。リュシアは会計箱を抱え、配給台の前に立った。夜明け前の空が白む。最初の太鼓が鳴り、配給台の幕が上がった。
「子連れと老人から入ってください。引換札を見せて」
リュシアの声は凛として、揺れない。数字が人を動かす瞬間は、いつも無機質で美しい。最初の一組は、震える手で木札を差し出した。
「三人……子は二人」
干し肉と黒パン、薄いスープ。湯気が立ち、幼い手が器を抱える。
「……ありがとう」
その小さな声が、列の空気を変えた。ざわめきがほどけ、足が前へ動く。ロイが高台に登り、腹から声を出す。
「今日、必ず食わせる! 明日もだ! この列は『明日のための列』だ。換金は後回しにしてくれ。子どもとお年寄りを先に通す!」
群衆の前列で罵声を上げていた男が、逡巡の末に一歩退いた。次の親子が進む。列の中ほどで誰かが拍手した。その拍手を裂くように、横合いから怒号。
「嘘だ! 銀貨はもうない! 手形は紙屑だ!」
ギルドの囁き屋。黒布のフードが揺れる。ミナがするりと背へ回り込み、短剣のカタナをフードの紐にひっかけた。
「顔、見せな」
露わになったのは、昨夜両替窓口で見張りをしていた男。周囲がどよめき、後ずさる間に警備の牙の旗が取り押さえる。
「秩序を乱す者には、配給の後ろへ回ってもらう」
漣司の声は低いが遠くまで届く。
「ここは戦場だが、銃弾は飛ばない。飛ぶのは順番と約束だ。俺たちはそれを守る」
配給台の裏で、リュシアが会計箱を閉じた。
「午前の分、原価割れは許容範囲。赤字は計算済みです。信用の増加分で相殺できます」
「午後は労働引当を足す」
漣司は木板に短い指示を書いた。
「袋詰め、運搬、掃除、見回り。一時間手伝えば配給を上積み。労働が食卓に直結する流れを見せろ」
ガロウが歯を見せて笑う。
「働いたら食えル——わかりやすイ待遇だナ! 列の外で腕組んでる兄ちゃんたち、こっちに来いヨ! 重い袋は俺と一緒に運ぶゾ!」
太い腕に掴まれて引き込まれた若者が、最初はおずおずと、やがて汗だくで袋を担ぎ、息を弾ませながら笑った。見れば、小さな子がその背を誇らしげに見上げている。昼を回り、鍋の底が見え始めた頃、後方で小さな火花。油壺が倒れ、布に火が走る。
「下がって!」
リュシアが瞬時に氷の膜を展開し、炎を吸い込む。ミナが火種を蹴り、男の足を払った。
「二つめ、捕まえた」
縛り上げた男の袖口には、ギルドの印。彼らは火で列を散らし、混乱の隙に換金列を生ませようとしていた。夕刻。配給台の鍋は空になり、倉庫の棚は目に見えて軽くなった。
「在庫、麦九日。干し肉四日。油二日」
リュシアの報告は、針の目を通すような緊張を孕む。
「銀貨は……二百十三」
数字は容赦がない。しかし、広場の空気も朝とは違っていた。列は整い、番号が秩序を作り、労働が食卓に直結するという単純な理が人の心を落ち着かせている。ロイは膝に座った子どもの頭を撫で、笑った。
「明日も食える。番号を持って帰りなよ。約束だ」
ガロウが肩を回し、夕陽に長い影を落とす。
「社長、外周は片付いたゼ。連中、煙みたいに散って行ったヨ」
「助かった。巡回は続けろ。夜は闇が味方を増やす」
漣司は短く応え、静かな倉庫の奥へ歩いた。誰もいない帳簿室。椅子の背にコートを掛け、机の引き出しから一枚の紙片を取り出す。転生した時に胸ポケットにあった、擦り切れた小型の手帳。最初の頁に鉛筆で走り書きがある。
——資金は血、信用は酸素。
——兵は詭道、経営も詭道。
——勝つのは、流れを作った側。
羽根ペンを取り、白紙に線を引いた。倉庫群、配給台、裏倉庫、農村ルート、両替商、見張り、囁き屋。点と点を矢印で結び、「勢」と記した丸で流れを包む。次に、表と裏を二重に描く。表は見せる金庫、裏は触らせない金庫。表は囮、裏が本丸。最後に、広場の端に小さな四角——舞台。そこに「言葉」と記し、矢印を列の先頭に伸ばす。
扉が軽く叩かれ、リュシアが入ってきた。
「市民の列は解散しました。夜間は木札を配り、朝の再集合に切り替えます。……社長、今日の赤字は計算上、致命傷ではありません」
「致命傷じゃなくても、出血は出血だ」
漣司は図を示した。
「明日の朝、舞台を組む。俺が立つ。数字と約束を同時に見せる。『ここに来れば食える』『働けば増える』『番号は嘘をつかない』。理屈を三つに絞る」
リュシアは短く息を飲み、目を伏せた。
「……はい。準備します」
その横顔に宿る疲労は深いが、目の芯は折れていない。数字で守った一日が、彼女の背骨をさらに硬くしている。外へ出ると、夜の冷気が頬を刺した。倉庫の屋根の上で、ミナが足をぶらぶらさせている。
「二人、ギルドの囁き屋を吐かせた。明日の夜明け、南門から補給の金が入るらしい。護衛は少ない。……どうする?」
「襲わない」
漣司は即答した。
「ただし、見せる。『守られていない金』という事実を。噂は火より速い。ギルドは自分の金を守れない、と思わせる」
ミナがにやりと笑う。
「噂は任せて。今夜のうちに、酒場に落としてくる」
「頼む」
内側の階段から、ロイが昇ってきた。汗の塩の跡が襟元に白く残る。
「……今日、子どもが笑っていたんです。パンを二つ抱えて。そばで親御さんが泣いていて……ああいう光景、久しぶりに見ました」
「見せ続けろ」
漣司は言う。
「笑いは最強の広告だ。数字より速く、剣より深く刺さる」
ガロウの大きな影が足元に落ちる。
「社長、夜警は二重で回ス。囮の金庫も仕掛けタ。噛みついたヤツは口ごと押さえるカラ安心しナ」
「任せた」
見下ろせば、暗い倉庫群の間に小さな灯が点在し、人の気配が糸のようにつながっている。一日の終わりに残ったのは、銀貨二百十三枚と、番号札の束と、鍋を空にした満腹の息。数字は減った。だが、流れは太くなった。腹と番号が行列を支配し始めている。
「……悪くない。腹が満ちれば、人は動ける」
漣司は胸の内で短く反芻する。兵は勢なり。勢とは、坂を転がる丸木のごとし。
坂を作るのは、こちら側だ。剣と天秤の旗が、夜風にかすかに鳴った。揺れる影は細いが、折れない。ここで折れるわけにはいかない。
「あとは……こっちが坂を敷くだけだ」
彼は図面の一角に小さく新しい線を加え、羽根ペンを置いた。墨が乾く音を確かめ、灯を落とす。眠りは浅く、夜は短い。だが、明かりを点ける理由はもう揃っている。
列は朝、必ず戻ってくる。番号は嘘をつかない。番号が守る約束は、明日の鍋を満たす。東の空がわずかに白む。遠く、太鼓の練習の音が鳴った。倉庫の影の中で、誰かが木札を握り、人知れず深呼吸を一つ。
カストリアの夜は、ぎりぎりの均衡のまま、朝へ滑り込んでいった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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