第23章 市民デモと扇動者 ― 真実性の原則
朝焼けが街並みに滲むころ、静かなはずのカストリアに、どこかざらついた空気が広がりはじめていた。いつもの通りに人々がまばらに歩く――そんな光景ではない。通りの中央には市民が群れ、ざわめきが波のように押し寄せてくる。誰もが落ち着かず、互いの顔をうかがい、しかし手には粗く書き殴られた木板を握りしめていた。
「二階堂商会を追放せよ」
「手形は危険だ」
黒い墨が乾く前のように生々しく、怒りが板の表面から滲み出ている。その中心で、男たちがひときわ大きく声を張り上げた。
「二階堂商会のせいで市場が荒れているんだ!」
「信用制度? そんなものに騙されるな! 今すぐ街から叩き出せ!」
彼らの叫びが火種となり、群衆の胸に燻っていた不安が、一斉に燃え上がる。老若男女、怯えた顔、怒りにゆがむ顔――感情の渦に呑まれた人々が次々と声を重ねていく。
「商会を潰せ!」
「商会を潰せ!!」
朝の光はまだ弱く、赤く染まる空気の中で、人々の叫びだけが妙に鮮やかだった。その喧騒は、街に迫る嵐の前触れのように、着実に膨れ上がっていった。
◇
倉庫街の会議室に、荒々しく扉が叩かれる音が響いた。続いて駆け込んできた社員が息を切らしながら叫ぶ。
「社長! 市民のデモが……広がっています! 通りがもう塞がれそうで!」
紙のめくれる乾いた音がして、リュシアが帳簿からゆっくりと顔を上げた。その瞳には、驚きよりも冷ややかな確信が宿っている。
「……やはり来ましたか。信用を攻め落とせないなら、人心を崩す。あのギルドらしい手口です」
ロイが椅子を勢いよく蹴るように立ち上がり、拳を固く握った。庶民出の青年らしい真っ直ぐさと、胸に燃える怒りがその声に滲む。
「だったら俺が行きます!庶民代表として、あいつらの前で真実を伝える!」
「待て」
短い一言で空気が止まった。漣司が手を挙げ、鋭くも沈着な視線でロイを制す。
「感情だけで群衆は動かせない。むしろ火に油を注ぐだけだ。――数字と事実で、誤解を一つずつ断ち切るしかない」
ロイは悔しげに歯を食いしばったが、すぐに顔を上げた。
「だったら一緒に来て下さい、リュシアさん! 数字を示すのはあなたの役目だ。俺は……声で人の心を掴む!」
リュシアは僅かに目を伏せ、心の中で素早く天秤を揺らした。そして帳簿を閉じる音は、剣を抜くほどの覚悟を宿していた。
「……わかりました。ただし暴徒化した場合、容赦はしません。情は命を救いませんから」
その横で、ミナが短剣を指先で回しながらニヤリと笑った。盗賊上がりの軽業師らしい、獣のような敏捷さと勘の鋭さが滲む。
「じゃあ、正面は任せとくよ。あたしは裏から動く。扇動してる奴らを見つけ出して、尻尾を掴んでやる。絶対にただの市民じゃない。尻尾……いや、首根っこつかんで連れてくるよ!」
最後にガロウが斧を肩に担ぎ、地面が震えるような豪快な声で笑った。戦場で生きてきた男の、どこか血に飢えた頼もしさがあった。
「デモだろうが暴徒だろうが、んなもん関係ねェ!社長の契約を守るのが俺の仕事ダァ!道を塞ぐもんがいりゃ、まとめて押しのけてやル」
それぞれが己の役割を胸に刻み、会議室の空気は一瞬で戦場のそれへと変わった。嵐の中心へ向かう準備は、もうできていた。
◇
広場――朝の光が差し込むはずの空間は、怒りの熱で霞んでいた。群衆の怒号が石畳を震わせ、どこかで落ちた木札がカランと虚しく転がる。
「商会を潰せ!」
「信用なんて幻想だ!!」
漣司たちが姿を現した瞬間、憎悪の矛先が一斉に向けられた。空気が牙を剥いたような圧が走る。その中で、ロイがためらわず一歩前へ踏み出した。若者らしい勢いでも、無謀でもない。胸の奥に燃える何かを支えにした、確かな一歩だった。
「みんな! 俺はロイ・フェンネル! お前たちと同じ、庶民だ!」
明瞭な声が広場に響き、怒号の渦がわずかに揺らぐ。人々が顔を上げ、互いに囁き合う。
「……ロイだ」
「農村の若者じゃないか」
「ほら、あいつだよ。いつも荷車を押して街に来てた――あの素朴な子だ」
その名が口にされると、群衆のざわめきがわずかに落ち着いた。数日前まで同じ市場で肩を並べていた青年の姿に、人々の表情から敵意がひとしずく抜け落ちる。互いに顔を見合わせ、怒りの色が迷いへと揺れ始める。
「俺は見た! 二階堂商会は村を守ってくれた! ギルドに襲われても、逃げずに戦ってくれた! この旗は偽りじゃない!」
群衆のざわめきは徐々に弱まり、広場にかすかな静寂が落ちた。怒りに硬く結ばれていた人々の表情がほぐれ、迷いの影が差していく。――あと一歩。届きそうだった。だがその瞬間、群衆の中央で誰かが怒鳴り声を上げた。
「騙されるな!! あいつは商会に金で買われた裏切り者だ!!」
その一声は、乾いた薪に火種を落とすようなものだった。静まりかけていた空気がざわつき、怒りの熱がじわりと広がる。波が再び押し寄せる寸前――広場の空気がギリギリと軋む。
そして、怒号が爆ぜる前の一瞬――
◇
リュシアが一歩前へ進み出ると、空気がすっと引き締まった。細身の体からは想像できないほどの圧をまとい、彼女は帳簿を高々と掲げる。
「これが真実です!」
澄んだ声が広場を貫く。風にめくられた帳簿の紙が光を反射し、群衆の視線が吸い寄せられる。
「市議会に提出済みの収支!保険積立金、銀貨二千枚!食料在庫、一万俵!二階堂商会は、誰よりも備えている!どこに虚偽があると言うのです!」
読み上げられる数字は剣のように鋭く、揺れる民心に次々と突き刺さる。人々がざわめき、怒りの熱が押し返されていく。
「そんなにあるのか……」
「数字は嘘をつかないはず……」
しかし、なおも炎を消したくない者がいた。
「偽造だ! ギルドの帳簿と違う!」
扇動者の叫びが響いた、その刹那――ミナが人混みを裂いて飛び出した。
「待ってました!」
ミナの声が空を裂いた。彼女はまるで影から跳び出した狐のように、人混みを裂いて一直線に飛び込む。そして躊躇なく短剣を振るい、その切っ先で扇動者のフードを跳ね上げた。布が舞い、素顔が露わになる。
「なっ――!」
そこにいたのは、先日、二階堂商会の倉庫差し押さえを指示した徴税官。ミナは得意げに短剣を肩で回し、片目をつむって見せた。
「ほらね。裏で糸引いてたのは、やっぱりアンタら役人だ」
広場に、怒りの色が別の方向へ一気に傾く。
「役人が扇動していたのか!」
「ふざけるな……俺たちを利用してたのか!」
人々の怒号が新たな矛先を見つけ、空気が震えた。リュシアの冷静さとミナの鋭い機転が、群衆の流れを完全に塗り替えていた。
◇
漣司は一歩進み出て、広場にうねる視線を真正面から受け止めた。静かな堂々さが、その場の空気を一瞬で支配する。
「見ろ! これはギルドの陰謀だ! 奴らは帳簿を偽造し、市民を扇動し、我らを潰そうとしている!」
その声は怒りを煽るものではなく、事実を突きつける鋼の響きだった。群衆のざわめきが、不安とも悔しさともつかぬ震えへと変わっていく。
続いてロイが、勢いよく拳を掲げて叫んだ。胸の奥から絞り出す、飾り気のない叫びだった。
「でも俺たちは負けない!二階堂商会は……庶民の味方だ!だから――どうか信じてくれ!」
その言葉は、広場に散らばった無数の心にふわりと火を灯した。ばらばらだった声が、次第にひとつのうねりへと変わっていく。
「ロイ! ロイだ!」
「二階堂商会を信じる!」
「ギルドに……騙されてたんだ……!」
怒号で満ちていた広場が、いつしか歓声に震えていた。憎悪の黒い霧は跡形もなく晴れ、代わりに熱気と信頼が込み上げていく。その中心に立つ二階堂商会の面々は、確かに――街を支える者として認められつつあった。
◇
夜風が屋上を吹き抜け、掲げられた旗の影がゆらりと揺れた。それはまるで、これから訪れる嵐を予告する狼煙のようでもあった。漣司は仲間たちの言葉を胸に受け止め、ゆっくりと目を閉じる。思考、戦略、覚悟――すべてを整理し、再び瞳を開いたとき、その視線はもう迷いのない戦場のそれになっていた。
「……ギルドは資産で攻め、人心で攻め、今度は何を仕掛けるつもりか。兵法に曰く、兵の形は水に象る、か」
旗を見上げる。剣は闇に光を宿し、天秤は沈黙のうちに正義を量る。
リュシアは淡い灯りの下で瞳を細めた。研ぎ澄まされた思考が、彼女の横顔に静かな緊張を走らせる。
「資金も人心も、今のところは防ぎました。ですが、敵は流れを変え、必ず次を仕掛けてきます」
その声音は凛として冷たく、しかし仲間を案じる温度も宿していた。対照的に、ロイは場の空気を押し上げるように胸を張った。
「なら俺は民の声を守ります!」
拳を握るその姿は、誰よりも泥臭く、誰よりも真っ直ぐだ。
「庶民の信頼がある限り、商会は揺るぎません!」
迷いが一切ない――その純粋さが彼の最強の武器だった。
ミナは片眉を上げ、どこか楽しげに舌打ちする。
「ま、あたしがいれば扇動者なんか全部見抜いてやるけどな」
軽口の裏には、情報網を一手に握る者ならではの鋭さがある。影を読む目が、ほんの一瞬だけ不穏な未来を射抜いた。
ガロウは斧を肩に担ぎ、豪快な笑い声を響かせた。
「どんな形で来ようが、ぶっ壊すだけダァ!」
言葉は荒く単純。しかしその胸には、仲間を守るという不器用なほど真っ直ぐな覚悟が燃えていた。
そして漣司は、ひとり旗を見上げる。夜風に揺れる『剣と天秤』の紋章。その影に、彼の思索の深さが沈む。
「経営は戦争だ。そして戦争は、常に人の心を巡る……」
静かな宣言は、誰より重く響いた。
「――次こそ決戦だ」
五人五様の決意がぶつかり、広場の空気はひそやかに燃え始める。揺れる旗は、迫る嵐の予兆をはらんでいた。
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