第16章 暴動の火種 ― 独自市場の設立
夕刻の鐘が三度、ゆっくりと空気を震わせた瞬間だった。その響きは、まるで都市全体が大きく息を呑む合図のように、カストリアの石造りの路地を走り抜けていく。
そして――重い鉄扉が、鈍い悲鳴をあげながら閉ざされた。
大市場、臨時閉鎖。
市議会とギルドの紋章が並ぶ布告が門前に打ちつけられ、その瞬間、街の色が変わった。最初は小さなざわめきだった。だが次第にそれは、夕刻の街路を震わせる低い地鳴りへと育っていく。
「おい……嘘だろ?」
「今日の晩飯、どうすりゃいいんだよ!」
「パン屋も八百屋も全部閉まってるぞ!」
子どもを抱えた母親が顔を青ざめさせ、露天商は荷車を叩いて怒り、労働者たちは互いに不安を押しつけ合うように声を荒げた。布告の文言は短く簡潔で、逆に恐ろしいほどだった。
――安全のための臨時閉鎖。再開未定。
安全?誰もが笑った。だがその笑いに温度はない。
「市場を閉じて安全? 食えなきゃ死ぬだけだろうが!」
「これ、市議会とギルドが組んだってことか?」
「噂だと、二階堂商会が市場を壊そうとしてるらしいぞ……」
最初にその言葉を発したのは誰だったのか。だが、群衆の真ん中――ちょうど石畳に沈む夕陽が、顔を判別できない影を長く伸ばす位置――そこから、ひどく通る声が上がった。
「全部! 二階堂商会のせいだ!!」
誰も見たことのない男。粗末な外套に身を包みながら、人混みの中で妙に背筋だけは伸びていた。
「ギルドが閉鎖したのは、二階堂商会が勝手に市場を牛耳ろうとしたからだ! あいつらのせいで、俺らが飢えるんだ!」
その叫びに、濁った焦りが一気に燃料を得る。
「マジかよ……!」
「じゃあ、犯人はあいつらか!」
「倉庫街に拠点があるんだろ!?」
怒りが、行き場を求めて渦を巻く。憎しみは理由を必要としない。誰かが指を差した瞬間、感情は合理を超えて暴走を始める。
「二階堂商会を許すなぁぁぁ!!」
叫びがひとつ、二つ、三つと増え――やがてそれは、街区全体を揺らす暴動の予兆となって広がっていった。群衆の視線が、一斉に倉庫街へと向く。夕陽の赤が、怒りの色に混じり合う。その空の下で、都市は静かに臨界点へと近づいていた。
◇
二階堂商会の会議室。木製の長卓を囲む社員たちは、まるで嵐の前の空気を吸い込んだように重苦しい表情で沈んでいた。窓の外では、市場封鎖の混乱でざわめく遠い群衆の声が、不気味な風のように聞こえてくる。報告役の護衛隊員が深く頭を下げて言った。
「社長……民衆の怒りが、完全にこちらへ向きつつあります。倉庫街へ向かえという叫びが、あちこちで……」
「これはギルドの扇動です。市場封鎖に飢えを混ぜれば、民衆は容易に操れます」
リュシアの声は氷の刃。だがその冷徹さは恐怖ではなく、状況を正確に見据えるための鋭さだった。
「市場封鎖だけでは足りない。飢えと不満を意図的に加えれば、民衆はより簡単に操れる。理屈は必要ありません。敵の名前さえあれば暴動は起きる」
彼女は並べられた書類を指先で払い、淡々と言葉を続ける。
「金融を握り、物流を整え、政治と契約を積み上げても、結局、最後に人間を動かすのは腹の満ち足りです。飢えは、理性よりも早く人を支配する」
静かな会議室に、その真理が重く沈み込んだ。ミナが椅子から半分飛び出すようにして前のめりになる。
「だったら――あたしたちが市場を作っちまえばいいんだよね!?市議会が閉じても、ギルドが止めよても、関係ない。別に本物の市場じゃなくてもいい。倉庫街で店を並べて、庶民に買わせればいいんだ!」
その言葉に空気がわずかに揺れ動く。皆が言えずにいた突破口を、彼女は無邪気な声で踏み抜いた。漣司は静かに、しかし確信を宿した眼差しでミナを見た。そして、ゆっくりと頷く。
「そうだ。ギルドが市場を閉ざすなら、俺たちが並行市場を作る。倉庫街を都市の新たな取引所にするんだ」
羊皮紙に指先で線を描く。倉庫街の区画に丸印をいくつも並べながら、
「倉庫街全体を――都市の新たな取引所にする。手形で買え、保険で運べ、護衛で守る。公式市場を閉ざした瞬間、ギルドは自ら都市の血流を止めた。だが、血が流れる道は一つじゃない」
その声には、静かな炎が宿っていた。
「並行市場。ギルドが止めた都市の心臓に代わる第二の心臓を――俺たちが作る」
誰かが息を呑む音が聞こえた。その瞬間、倉庫街はただの物流の拠点ではなく、戦場へと変わったのだ。
◇
作戦は即座に実行に移された。倉庫の扉を開放し、広場に簡易の屋台を並べる。米袋、麦束、干し肉、油壺……すべて二階堂商会が管理した在庫だ。
「並ベ! 値札を掲げロ!」
ガロウが咆哮し、職人や傭兵が荷を運ぶ。
「こっちは退職金もあるんダ! 倉庫の仕事くらい朝飯前だロ!」
リュシアは即座に帳簿を用意し、価格を調整する。
「需要過多になると暴騰します。……ここで信用を守るため、価格は平時と同水準に据え置きましょう」
「赤字じゃないのですか?」
と職人が心配そうに問う。リュシアは淡々と答えた。
「これは投資です。信用を買うための」
やがて群衆が倉庫街に押し寄せてきた。
「食料はあるのか!」
「子どもにパンを!」
緊張が走る中、漣司が前に進み出て声を張り上げた。
「市民たちよ! 市場は閉ざされた。だが、ここに食料はある! 我ら二階堂商会が保証する! ――手形でも、銀貨でも、等しく取引に応じる!」
ざわめき。だが最初の一人が震える手で手形を差し出し、干し肉を受け取った。
「……ほんとに、使える……」
その声が広場に広がった瞬間、群衆の動きが変わった。
「手形で買えるぞ!」
「これで家族が助かる!」
「二階堂商会だ! 二階堂商会が俺たちを救う!」
歓声が沸き起こり、押し寄せた市民が次々に列を作る。
◇
だがその裏で、ギルドの手先が群衆に紛れ込んでいた。
「偽物だ! すぐに崩壊する!」
叫びと共に、火炎壺が倉庫に投げ込まれる。爆音。炎が走り、群衆の悲鳴が響いた。
「放火だ! 二階堂商会が危ない!」
ガロウが咆哮した。
「かかってこいヤァァ!」
斧を振り回し、火炎壺を投げた男を叩き伏せる。ミナも跳び出し、盗賊仕込みの素早さで放火犯の背後を取り、縄で縛り上げた。
「へっ、こんなチンケな真似じゃ商会は潰せねーぞ!」
リュシアは結界を展開し、炎を吸収して消し止める。
「被害率、五%未満に抑えました」
漣司は堂々と群衆の前に立った。
「見ろ、市民たちよ! 襲撃にも関わらず、我らは食料を守り抜いた! 信用は崩れない!」
その声に、市民の目が変わった。恐怖から信頼へ、疑念から歓喜へ。
◇
夜更け。倉庫街は賑わいを見せていた。簡易市場は完全に機能し、商会手形は市民の手から手へと流通していく。リュシアが疲れた表情で帳簿を閉じた。
「社長。赤字ですが、今日だけで五百人以上の市民が我らを信用しました」
「信用は資本だ。帳簿の数字よりも強い通貨だ」
漣司は屋上から広場を見渡した。灯火に照らされた市民たちの列。その中には、かつてギルドに従っていた商人の顔も混じっている。
「……これでいい。市場を封鎖されても、俺たちは独自市場を築いた。ギルドの影響は確実に削れている」
しかしグラフトは暗い表情をしていた。
「社長……ギルドは次に兵糧攻めを仕掛けるはずです。地方の農村から都市への輸送を遮断すれば、この独自市場もいずれ干上がる」
漣司は静かに目を閉じた。
「わかっている。次は都市だけでなく、農村をも巻き込んだ戦いになるだろう」
リュシアが冷徹に囁く。
「つまり――次の戦場は、都市経済ではなく地方の生産基盤」
ミナが拳を握り、無邪気に笑った。
「だったらあたしが先に動く! 村人たちを味方につけりゃ、ギルドも干上がる!」
漣司はその言葉に笑みを浮かべた。
「いいだろう。次の買収先は――農村だ」
夜空に翻る剣と天秤の旗は、都市の光を超えて広がり始めていた。二階堂商会の戦場は、いよいよ都市の外へと拡大していく。
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