第143章 ミナの夢 ― かつての夜を越えて
――夜。
セレヴァリア街道沿い、小高い丘の上。焚き火がゆらめき、赤い火の粉が黒い空へと昇っていく。
遠く、波の音がかすかに響いた。潮の香が風に混じり、旅の塵を洗うように吹き抜ける。全員が野営の支度を終え、それぞれの持ち場で眠りにつく。しかし、ミナだけは寝袋の上に座り、空を仰いでいた。
満天の星々は白銀の砂のように散らばり、夜空はどこまでも澄んでいた。だが、彼女の胸の奥ではざらついた不安が蠢いていた。
――夢を見た。
◇
焚き火が別の焚き火に変わる。時間が巻き戻るように、景色が滲み、夜が赤く染まった。
焦げた天幕、安酒の臭い、笑い声。若い自分がそこにいた。
まだ〈赤風〉の盗賊団で、何も恐れず、ただ笑っていた頃。
「ミナ! また成功だぜ!」
赤毛の男が金貨袋を掲げる。
「見ろよ、金貨が月光に光ってやがる!」
「おう、次の街も狙おうぜ!」
「へへ、盗んだら逃げる、それが流儀ってもんでしょ!」
若きミナが笑う。その笑顔は、今の彼女と同じように眩しかった。だが次の瞬間、雷鳴のような叫びが響く。
「罠だ! 兵だ、逃げろ!」
混乱。
仲間たちが倒れる。矢が飛び交い、誰かの悲鳴が夜を裂く。あの夜の冷たい雨、血の匂い、濡れた泥の感触。誰かが叫んだ。
「ミナ! お前は逃げろ!」
「でも――!」
振り向いた瞬間、炎が覆いかぶさり、視界が白く塗りつぶされた。最後に見えたのは、仲間の笑顔だった。
「生きろ」――それだけが、今も胸に刺さって離れない。
◇
ミナははっと目を開けた。呼吸が荒く、額には冷たい汗が滲んでいる。夜風が頬を撫で、露が一粒、頬を伝った。焚き火の火は小さく、橙色の揺らめきが、彼女の瞳を照らす。
ルーチェがそっと近づいていた。
「どうしたでござる? 悪い夢でも見たか?」
静かな声がした。ルーチェがそっと近づき、薪を一つくべた。
ぱちり、と音がして、火が再び息を吹き返す。ミナは笑おうとして、うまく笑えなかった。
「……ただの夢だよ。過去の話」
「夢とは、心の残響でござる」
ルーチェは膝を折り、隣に腰を下ろした。その横顔は、夜気に溶けるように穏やかだった。
「拙者も見ることがある。師の叱責、鍛錬の痛み。あの時の声はいまだ耳に残っておる。――それでも、灯は消えぬ」
ミナは黙って炎を見つめた。火の色が彼女の瞳に映り、影が微かに震える。ミナは黙って、炎を見つめた。火の色が彼女の瞳を映す。
「……ねぇ、ルーチェ。あたしさ、昔は盗賊だったでしょ」
ぽつりと、焚き火に落とすように言葉をこぼす。ルーチェは頷くでも否定するでもなく、ただ聞いていた。
「仲間がいて、バカやって……でも、結局、全員死んじゃった。助けられなかったの。逃げたの、あたしだけ」
小さな声だった。けれど、焚き火の音すら止まるような重さがあった。
火の粉が、ぱち、と小さく弾けた。ミナはそれを見て、反射的に指を引っ込める。
「……あたし、簡単な炎魔法なら使えるんだけど」
誰にも聞かせない声だった。視線は焚き火に向けたまま、けれど決して火を見ていない。
ルーチェだけが、気配を悟って黙っている。
「ほんの灯りとか、着火とか……その程度。でも、使うと……」
言葉が、途中で細くなる。喉の奥で、焦げた記憶が絡みつく。あの日。制御できなかった炎。逃げるために背を向けた瞬間、業火に呑まれていく仲間たち。
「また、ああなる気がして」
ミナは笑おうとして、失敗した。
「だから、火は……怖い。便利なのは分かってる。でも――」
そこで、ようやくルーチェを見る。魔導士の瞳にだけ、逃げ場を求めるように。
「使わないって決めたわけじゃない。ただ……まだ、触れたくないの」
焚き火は変わらず、静かに燃えていた。だがミナにとって、それは光ではなく、越えられない境界線だった。
「……それでも、生き残ったなら、意味があるでござる」
ルーチェが柔らかく言った。
「その命が今、誰かを救っておる。拙者たちと出会い、共に歩んでおる。その過去があるからこそ、今のお主がある」
「……強いね、あんたは」
「強くはない。光は弱いからこそ、灯を求めるのじゃ」
ミナの唇がわずかに震えた。笑おうとして、笑い損ねた。それでも、少しだけ目尻が熱い。
「ずるいなぁ。そうやって言われると、泣けてくるじゃん」
ルーチェは茶を差し出す。湯気の香りが、夜気に溶ける。
「泣くも良し。笑うも良し。拙者たちはそれを責めはせぬ」
ミナは茶を受け取り、両手で包み込んだ。その温もりが、まるで失われた仲間の手のように優しかった。
◇
少し離れた木陰で、ロイが二人の様子を見ていた。何も言わず、ただ静かに。やがて彼は焚き火に戻り、漣司のそばに腰を下ろす。
「……少し、夜が長くなりそうです」
「そうか」
漣司は短く答え、視線を火に落とす。
「誰にでも、消せない夜はある」
彼は焚き火を見つめながら言葉を続けた。
「ミナは過去を笑いに変えることができる。それがあいつの強さだ」
ロイは静かに頷く。
「……だから、みんな、あの人の明るさに救われるんですね」
焚き火の火がぱちりと弾け、二人の顔を照らす。その光は弱々しくも、確かに温かかった。
◇
夜が更けていく。
焚き火はゆっくりと小さくなり、ミナはようやくまぶたを閉じた。
夢の中――
かつての仲間たちが笑っていた。もう追われることも、奪うこともない。ただ、金貨の代わりに、光を掴もうとしていた。
――その手の先に、今の仲間たちがいる。
ガロウの笑い声、ルーチェの言葉、ロイの静かな目。リシュアの眼差し。そして漣司の背中が、焚き火のように揺らいで見えた。風が頬を撫で、火が小さく音を立てた。星々が空に流れ、夜が深く息をする。誰もが眠る中、星だけが知っていた。
――かつて盗賊だった少女が、ようやく居場所を見つけたことを。
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