第137章 南東の海 ― セレヴァリア決議
「……貿易都市か」
漣司の呟きは低く、しかし確かに――次の取引の匂いを帯びていた。
執務室のカーテンが、夕暮れの風を孕んでふわりと揺れる。
沈みゆく陽光が壁に掲げられた商会の紋章を撫で、交差する金の双剣が柔らかく、しかし意志を持ったように光を返した。ルーチェの肩で、ホーリードラゴン――テリアが、きゅ、と小さく鳴いた。
鈴のように澄んだその声は、まるで遠くの港町から届く鐘。新しい航路が開かれる合図のように、静かな部屋に余韻を残す。
漣司は視線を落とす。机上に広げられた地図。バルメリアの名から、南東へと引かれた細い赤線が、迷いなく海へ向かって伸びている。山を越え、街を越え、そして――潮の匂いのする場所へ。
赤線の終点。そこに記された名を、彼は指先でなぞった。
――セレヴァリア。
薄い墨文字。だが、その一字一字は確かに、大陸の縁と、世界の流れを示していた。
漣司の口元が、わずかに弧を描く。
◇
「リュシア、詳細を」
「はい」
副社長リュシアが静かに立ち上がる。椅子が鳴る音は小さいが、室内の空気が切り替わるには十分だった。彼女は手元の報告書を数枚、順にテーブルへ広げていく。紙が重なる音。整然と揃えられた数字と図表。淡々とした声音――だが、その奥には確かな熱が宿っていた。
「セレヴァリアは、バルメリアから南東におよそ五百キロ」
指先が地図の一点を示す。内陸から海へ伸びる交易路が、赤い線となって浮かび上がる。
「オランティア地方最大の港湾都市です」
別の資料が置かれる。湾を抱くように広がる街並み。何層にも重なる埠頭と倉庫群。
「大陸中央の品々――香辛料、金属、魔導機械、宝石などが、ここに集まります」
描かれた貨物の絵。箱、樽、魔導封印具。異国の紋章が混じる。
「日々入港する交易船は、百隻以上」
一瞬、室内が静まる。誰もが、その数を頭の中で映像に変換していた。
「地方都市としては異常な規模です。経済圏としての影響力は――バルメリアの、およそ二十倍」
数字が置かれた瞬間、重みが落ちる。
「まさに――」
彼女は最後の一枚を、ゆっくりとテーブルに置いた。
「海の富が流れ込む、海上の市場です」
そこに描かれていたのは、港の俯瞰図。無数の船。異国の帆。入り組む航路。白い波の上で、陽光が砕ける。帆が風を孕み、海風が街へと富を運ぶ光景が、誰の目にも浮かんだ。
――セレヴァリア。
数字と欲望が、潮の満ち引きと同じ速度で動く都市。次の一手が、そこにあることだけは、もう疑いようがなかった。
◇
「……なるほどな」
漣司は、ゆっくりと椅子の背に体を預けた。木がわずかに軋む音。腕を組み、顎を引く。視線は天井でも壁でもない――地図の向こう側を見ていた。頭の中で、数字が動く。交易量、航路、需要曲線。報告書の数値が、街の輪郭を持ち始める。
「陸のバルメリア、海のセレヴァリア」
呟くような声。
「貿易都市からの流通を強めれば、この都市の経済力は、一気に跳ね上がる」
彼の指が、机上の地図をなぞる。内陸から港へ、港から再び内陸へ。線は交差し、循環となり、やがて太い流れになる。
「つまり――」
リュシアが静かに言葉を継ぐ。副社長としてではなく、戦略家としての声だった。
「武装法人二階堂商会が、地方経済を支える柱になる、ということですね」
リュシアの言葉に、漣司は静かに頷いた。
「支えるのではない。流れを作る――だ」
短く、しかし力強い声。室内の空気が、弦を張ったようにぴんと引き締まる。
その張り詰めた空気の裏で――ルーチェが、ふっと口元を緩めた。
「海でござるか」
瞳が、どこか遠くを見る。まるでまだ見ぬ水平線を思い描くように。
「光が水面に反射し、朝には白く、夕には金に染まる……あれは実に、美しい。祈りが形を持つ瞬間でござるな」
しみじみとした声。場に一瞬、詩的な静けさが落ちる。
「でも、船酔いはしないでよね?」
――バッサリ。
ミナの一言が、情緒を水平線の彼方へ叩き流した。
「なっ……! そ、そんな軟弱なことにはならぬ!」
即座に反論。だが、声がわずかに裏返る。
「いやいや、乗り物苦手でしょ? 馬車の中、けっこう青ざめてたけど?」
「ぐ、ぐぬぬ……!」
ルーチェが言葉に詰まる。視線がふらりと泳ぎ、無意識に杖を抱き寄せた。和やかな空気が流れた。ロイが微笑みながら呟く。
「それにしても、海の街とは……活気のある場所でしょうね。新しい交易相手が増えるのは、楽しみです」
「オレはもう、海のモンスター相手でも構わねェゾ!」
ガロウが豪快に笑い、拳を鳴らす。
「……戦闘は予定外です」
リュシアが冷たく一蹴した。
「た、たまには威嚇も必要だロ!」
「必要なのは、数字と交渉力です」
机の端で、笑いが漏れた。ルーチェがテリアを撫でながら小さく微笑む。
「商談も戦も、結局は心を読むことでござるな」
漣司はふっと息を吐き、全員を見渡した。長い旅で得た仲間たちの表情。
疲れはあるが、目には確かな光があった。
「――よし。セレヴァリアへ行こう」
短い一言に、全員が息を呑む。そして次の瞬間、部屋に拍手と歓声が溢れた。
「海ダ――――っ!!」
「やったー! 港! 海鮮! 新市場ーっ!!」
ガロウとミナがほぼ同時に叫び、椅子が軋み、床が鳴り、執務室が一気に旅立ち前の温度に変わる。
「……観光ではありませんよ?」
「硬いこと言わないで、リュシアさん!」
ミナとガロウの声に、笑いが重なる。ルーチェの肩で、テリアが「きゅる」と鳴く。まるで賛成の合図のように。
漣司は軽く咳払いをして締めくくった。
「各自、準備を整えろ」
声が低く、しかし確かに響く。
「三日後、日の出とともに出発する。バルメリアより南東――目的地、貿易都市セレヴァリアだ」
そして――
「準備は即日開始します」
「よっしャ!任せとケ!」
「市場も港も、ぜーんぶ見てくるから覚悟しなさい!」
「承知しました!」
「心得たでござる」
声が一斉に響く。その瞬間、部屋の中を吹き抜けた風が、カーテンを大きく揺らした。
夕陽が沈み、夜の光が差し込む。壁に刻まれた紋章が、まるで炎のように赤く燃えた。
ルーチェの肩の上で、テリアがもう一度、小さく鳴く。その金の瞳が、どこか遠い海を見ていた。
――武装法人二階堂商会、次なる市場へ。数字と剣で世界を切り拓く旅は、まだ続いていく。
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