第125章 瘴竜の呼吸 ― 魔力の限界
最初の浄光が直撃した瞬間、
瘴竜の体表を覆っていた黒い膜が、じゅ、と焼け縮んだ。
鱗に覆われた谷肌が、ほんの一瞬だけ――
本来の色を取り戻す。
――効いてる。削れる。勝ち筋は、確かにある。
だが、瘴竜は怯まなかった。
巨体がさらに大きく膨らみ、肺の奥まで瘴気を吸い込む。
直後、重たい吐息とともに、空洞全体が低く震えた。
次の瞬間――
扇状に広がった濃密な瘴霧が、地面を薙ぎ払うように迫る。
「低く! 次に吸う! 止まった瞬間――吐く、今!」
アリアの声が、切り裂くように響いた。
瘴竜の呼吸の間合いを読み切った、回避の号令だ。
列が一斉に腰を落とす。
瘴霧は頭上すれすれを掠め、
背後の岩肌を削り取って通り過ぎていった。
「……っ、重ェ!」
ガロウが歯を食いしばり、斧の面で前脚を斜めに叩き込む。
だが返ってきたのは、岩塊を押し返すような鈍い反力だった。
巨体の重量の流れは、わずかに――
ほんの半歩ぶん、ずれただけだ。
「くそ……! 押し返される……」
ロイが踏み込み、盾を首根へ押し当てる。
全身で体重を預けるが、
鱗越しに伝わる圧は想像以上に重い。
腕が悲鳴を上げる。
それでも歯を食いしばり、無理やり狙いの隙をこじ開けた。
「浅い……! もう一歩、踏み込まないと……」
ミナが低く滑り込み、黒鱗の継ぎ目へ刃を走らせる。
手応えはある。だが、骨までは届かない。
尾の軌道が一瞬たわんだだけで、次の瞬間には、
再び殺意を孕んだ重量が戻りかけていた。
◇
「ルーチェ!」
リシュアが、息を切らさず低く鋭く呼びかけた。
「いま、吐いた直後です。再生が始まるまで、ほんの一呼吸だけ動きが止まる。――私が今と言ったら、撃ってください。……今!」
「承知! 拙者の光、通すでござる!」
ルーチェの足元に、白い魔法陣が円を描いて浮かび上がる。
そこから伸びた光の線が、仲間たちの足元へ次々とつながり、
八人の動きと呼吸を一本に束ねていく。
揺れが、消える。視線が、一点に収束する。
ルーチェは杖を掲げ、息を深く吸い込んだ。
光が脈打つように膨張し、魔法陣の縁が白熱する。
「――《聖閃浄域》!!」
次の瞬間――
放たれた白光が、瘴竜の胸奥へ一直線に走った。
黒い膜が再生するよりも早く、
光が先回りするように内部へ染み込み、
芯へと正確に刻み込まれる。
――焼ける音。
黒が、縮んだ。
「入ってます。続行可能、社長!」
ロイの声。
「角度はルーチェ優先。他は時間を稼げ」
漣司が短く指示を飛ばした。
瘴竜が、大きく息を吸い込む。
四方の岩の割れ目から薄青い霧が渦を巻いて流れ込み、
巨体の喉奥が不気味に脈打った。
――次が来る。
「右、硬い! 骨の層だ! 左は泥、踏むと沈む!」
ガラートが足先で地面を叩き、反響と感触を確かめながら叫ぶ。
砕けた白骨が重なった場所は、踏みしめても沈まない。
一方、左側の黒泥は、わずかに波打ち、
底なしに吸い込む気配を見せていた。
「沈む方は避けろ! 骨の上だけ使え!」
「了解!」
ミナはあえて泥へ一歩踏み込み、
沈み込む反動を利用して、骨の層へ跳ね移った。
「ロイ!」
「左に寄る!」
ロイが滑るように位置を調整し、盾で霧の縁を叩き落とす。
床の影が不自然に膨らみ、導きの糸へ噛みつこうと、
黒い顎のような瘴気の塊がいくつも浮かび上がった。
「噛ませねェ!」
ガロウが斧の腹でまとめて叩き潰し、進路を力任せにこじ開ける。
「ルーチェさん、次も吐いた直後を狙います。一、二――今!」
「拙者の光――今!」
杖が振り抜かれる。
「――《聖閃浄域》!」
炸裂するような閃光が走り、瘴竜の黒膜がぱらりと剥がれ落ちる。
焦げた瘴気が霧となって宙に散り、空気が一瞬だけ澄んだ。
……だが。
光は、先ほどよりも細い。
奔流だったはずの白は、鋭い一条へと痩せ、
杖先の輝きが一瞬だけ瞬き、収束にわずかな遅れが生じた。
微細な乱れ。だが戦場では、致命になり得る差だ。
「指、冷えてる。呼吸、落として」
アリアが背を支える。
杖を握るルーチェの指先が、わずかに白くなる。
魔力の脈動が、先ほどよりも確実に細い。
胸の奥で灯っていた光が、
風に晒された灯芯のように揺らいでいるのが、
自分でも分かる。
「……拙者、行使できる光魔法はあと三度。以後は効果が目減り致す」
声は落ち着いていた。
だが、それは平静ではなく――覚悟の音だ。
戦場の騒音の向こうで、瘴竜が息を吸い込む低い音が重なる。
時間は、削られている。
「了解。三回で削り切る」
リシュアの返答は、刃のように短い。
迷いも、計算の痕跡も、声には残さない。
その一言で、残された時間と火力と命の配分が、
瞬時に組み替えられた。
四発目は存在しない。
だから、三発で終わらせる。
「次は――吐く直前。肩が沈むのが合図。……来る、今!」
瘴竜の巨体がわずかに前屈し、黒い胸郭が軋む。
「押ス!」
ガロウが踏み込み、巨腕で瘴竜の動線を押し止める。
衝撃が床を震わせ、瓦礫が跳ねた。
「固定した。ここは通さない!」
ロイが前へ踏み込み、展開した拘束具を瘴竜の前脚へ打ち込む。
金属音が弾け、ワイヤーが鱗に食い込み、
巨体の動きを強引に縫い止めた。
「一刺しだけ――っと!」
動きが止まった一瞬を逃さず、ミナが滑り込む。
影のように低く走り、
露出した鱗の継ぎ目へ刃をねじ込んだ。
――連動して、白。
「――《聖閃浄域》!」
突き立てられた刃の位置を導線に、
白光が一直線に流れ込む。
黒い瘴膜が内側から弾け、剥がれ、
鱗の帯がもう一列、本来の色を取り戻した。
瘴竜の胸奥が、ごり、と嫌な音を立てる。
衝撃が壁へ伝わり、洞窟の内壁に波紋のような揺れが走った。
足場がわずかに傾き、八人をつなぐ導きの糸がきしむ。
床の影が盛り上がり、闇の顎が再び形を持って起き上がる。
「右、骨! 左、泥! 真ん中、罅――踏むな!」
ガラートが叫ぶ。
その合図で、ミナが罅を跳び越えた。
着地と同時に身をひねり、瘴竜の尾の付け根へ――
鱗の継ぎ目を狙って、刃先で小さく切り裂いた。
「角度、保ツ!」
ガロウが巨体の首を面で押さえ込み、進路と姿勢を強引に固定する。
瘴竜の顎が軋み、床が低く唸った。
「――今!」
呼吸が重なる。
四度目の光。
「――《聖閃浄域》!」
細く研ぎ澄まされた白光が、黒膜の裂け目へ正確に突き刺さる。
瘴の黒が内側から引き裂かれ、闇が悲鳴のように弾けた。
……だが。
ルーチェの握りが、わずかに震える。
杖先の発光は、脈打つ間隔が目に見えて遅くなり、光量も細る。
頬から血の気が引き、吐く息が白く、浅く乱れた。
限界が、身体に現れ始めている。
「強魔法、残り二回に減衰。以後は持続も短くなる」
リシュアが感情を挟まず、戦況を切り取るように告げた。
「あと二つ。十分だ」
漣司が即答する。
――その瞬間。
空気が、横から裂けた。
瘴竜の尾が、地をえぐりながら唸りを上げて跳ね上がる。
死角からの一撃。狙いは、後衛――ルーチェ。
「――っ!」
判断は、思考より早かった。
漣司が半身を投げ出すように踏み込み、
ルーチェを抱き寄せ、そのまま背中で受ける。
鈍い衝撃音。
骨にまで響く衝撃が走り、視界が一瞬、白く弾けた。
床を滑る二人。
衝撃波が砂塵を巻き上げ、導きの糸が激しく軋む。
「社長――!」
リュシアが息を呑む。だが、漣司は倒れない。
歯を食いしばり、片膝をついたまま、
ルーチェを離さなかった。
「……無事か」
「れ、漣司殿……!」
返事を聞いた瞬間、ようやく肩の力を抜く。
アリアが素早く薬包を差し込む。
「舌の下。溶けるまで噛まないで」
「――了解だ」
血の気が引いた顔のまま、それでも視線は戦場から外れない。
瘴竜の顎が深く開く。喉の奧で瘴の火が灯る。
「最大範囲が来ます。高さは胸――正面を、わずかに止めるだけでいい」
リシュアの声は硬く、緊張で震える。
そのわずかとは、呼吸一回分にも満たない時間。
攻撃の軌道を読み、狙いを微調整する瞬間を示していた。
「角度だけずらす」
漣司の短い判断。
背中の痛みを押し殺し、
視線は戦場のすべてを瞬時にスキャンする。
「次は――吐いた直後の、ほんの薄い一秒。そこに刺す」
ルーチェの目が微かに光を帯び、仲間の動きと完全に同期する。
空気の震え、瘴竜の喉の波動、導きの糸の張力――
そのすべてを視界に取り込み、白光を走らせる瞬間が迫る。
リシュアが刻む。
「一、二、今!」
――《聖閃浄域》!
白光が瞬き、瘴竜の胸奥へ一直線に走る。
黒膜がさらに剝がれ、鱗の帯がゆっくりと本来の色を取り戻す。
瘴竜の肩がびくりと跳ね、喉の火が一瞬だけ途切れた。
衝撃で舞い上がる砂塵が、白光をきらめかせ、
八人の呼吸が束ねられた導きの糸が、淡く揺れる。
「光魔法、残り一回――」
ルーチェの吐息が荒くなる。
胸の奥で、呼吸が小刻みに震え、
手首から肘にかけて鋭い痺れが這う。
杖先の光は、かつてないほどに細く弱く、
もしゲージがあればゼロに近いほどだろう――
その現実が、蒼く光る瞳の奥で、冷たく映っている。
導きの糸はまだ生き、空気の中で淡く光る。
だが呼吸罫の線は薄く透け、
強い力を一度解放したあとにだけ現れる弱々しい心拍のようだ。
空気が重く震え、戦場の気配が一瞬止まる。
仲間の視線も自然とルーチェに集まり、胸奥で鼓動が鳴る。
次の一撃は、この痺れと闘いながら、
光と意志を一点に集中させなければならない。
全身の感覚が研ぎ澄まされ、
痛みも疲労も、恐怖さえも、光の流れに重なる。
戦いは、残り一撃――すべてを賭ける瞬間へ。
「全員、まだ行けるか」
「押セル!」
「塞げます」
「切って戻る」
「測る――最後は肩が沈み、喉が鳴る瞬間で合わせる」
「聞こえる。……吸いが深ぇ」
「薬、あと五つ!」
返事がそろった直後、瘴竜が深く吸った。
空洞の光が一段暗くなり、魔石の明滅が鈍り、影が長く伸びる。
喉の奥――瘴の火が重く灯る。吐きを溜めている。大きいのが来る。
「正面からの極大。逃げ場は薄い」
リシュアが歯切れよく宣言。
「ロイ、盾で正面を一拍だけ止める。ガロウ、風道を右下へ。
ミナ、一瞬の邪魔だけ。――肩が沈む、今!」
「受ける。でも、融けたら終わりだ」
ロイが短く言い、盾を上げる。
「カッコつけンナ。オレも押ス!」
ガロウが肩を並べる。
「切って、戻す。ロイ、死なないでよ」
ミナが短剣を握り直す。
「導きの糸は保つ。……だが――」
ルーチェの杖先が一度だけ明滅し、光点が消えた。
光が収束できない。客魔力の発光閾値を下回ったのだ。
手は震え、指先の感覚が薄い。強い光の詠唱は、もう載らない。
「光の出力、限界域。強魔法は不可」
リシュアが代弁し、全員に共有する。
瘴竜の口が開く。
吸い切った息が喉で止まり、次の一で吐かれる。
アリアの手がルーチェの背を叩く。
「戻って。目、開けて。吸って――止め――」
「――拙者、導きの糸だけは切らしませぬ」
白はない。だが今を束ねる細い糸は、まだ強く通っている。
「なら、俺が塞ぐ。社長、許可を」
「一拍だけ、貰う。全員、ロイの背を通れ」
漣司が即決。
リシュアの声が鋭い。
「吐き頭だけでいい。ロイ、盾を五度下げ。
ガロウ、半歩押す。ミナ、触れるだけ。
ガラート、骨を一点で支えて」
「そこだ。外すな」
ガラートの指が床の一点を示す。
「薬袋、全部開ける。目、守って!」
アリアが紐を噛み切る。瘴竜の喉で、瘴の火が完成した。
吐気――来る。
ロイが前に出る。
盾がわずかに震え、足が骨を捉える。
ガロウが面で風道をずらす。
ミナが舌根へ邪魔を入れる。
ルーチェは、細い糸で八人をひとつにつなぐ。
白はない。だが、隊の拍はそろった。
「全員――耐えろ」
漣司の声が落ちる。
轟。
青黒い扇が空洞を薙ぎ、石が唸り、熱が唇を焦がす。
盾が火を食い、斧が唸り、刃が震え、糸が悲鳴のように鳴る。
一呼吸、持った。
だが、光はまだ戻らない。
瘴の残滓が床を這い、再生の黒がコアへ寄る。
ロイの腕に痺れ、ガロウの呼気は荒い。
ミナの頬に細い切り傷がつく。
アリアは瞬時に止血し、リシュアの声は掠れながらも切れ味を保つ。
「ここで止めが欲しい。誰かを待たず、自分の一手で繋いで」
前線の動きを束ねる声が、短く続く。リシュアだ。
「ガロウ、もう一度だけ顎を浮かせる。
ロイ、首を半歩引かせる。
ミナ、触れるだけ。ルーチェ、糸は絶対に切らない」
「聞こえる。……天井は持つ。いまは、持つ」
ガラートが低く言う。
「吸って――止めて――今!」
アリアの声。
八人が同時に動き、列が一瞬だけ理想の形になる。
だが白は戻らない。それでも瘴は来る。
巨大な吐きが、口腔の奥で完成しようとする刹那――
暗い天井から、ひとつの影が、すべてを断ち切る角度で落ちてきた。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
少しでも面白いと思ったら☆☆☆☆☆を★★★★★にして頂ければと思います。一つひとつの応援が、次の物語を生み出す力になるんです。これからも、どうぞ気軽に見守っていただけたら嬉しいです。




