第120章 光で結ぶ ― 導きの誓い
反響層の息遣いは、もはや岩のうなりではなかった。
三つで吸い、二つで溜め、一つで吐く――
ガラートが掴んだその呼吸が、壁を伝う湿り気と、
床の微かな軋みに刻まれている。
淡い光糸が八人をゆるく結び、先頭のガロウが足場を探りながら進む。
殿のガラートは、背後の空気の揺れにまで神経を研ぎ澄ませていた。
「呼吸、安定しています。乱れはありません」
ロイの低い報告に、漣司が短く返す。
「歩調を合わせる。吐く瞬間で一歩、溜めで止まれ」
「了解」
ミナが小さく頷いた。
列の中央では、ルーチェが杖を胸元に抱え、
白い粒光で進路の輪郭をなぞっている。
光は呼吸の律動に合わせ、かすかに脈打っていた。
――だが、その芯が、ふと軋む。
耳の奥へ、低く、静かな声が落ちてくる。
◇
『光は闇を照らすが、心の闇は照らせぬ』
風を裂くような、澄んだ声だった。
叱っているわけでも、導いているわけでもない。
ただ事実だけを淡々と告げる声音。
刃を抜かぬ鞘のような、静かな厳しさがそこにあった。
師の顔は影に沈み、衣の輪郭だけが凛と浮かび上がる。
――塔の踊り場で、夜更けまで座学をした日の記憶がよみがえる。
石壁に描かれた星図。冷たい窓の暗がり。
紙を走る筆先の乾いた音。
その面影が、いま坑道の闇と重なっていた。
『光を振るうほど、影は濃くなる。おのれの足元を忘れるな』
「……では、拙者は何を目指せばよいでござろう」
思わず口をついた問いは、あの頃と同じだった。
反響層の静寂が、言葉の余韻を歪ませる。
『照らして、消えよ。道は他者が歩む』
胸の奥が、ひやりと冷えた。
照明としての自分――
世界を明るくし、役目を終えたら静かに退く存在。
責任の線を引きやすい、甘い逃げ道でもある。
白い光が一瞬、強く滲む。
足裏には、塔の踊り場の硬い石の感触が蘇った。
半透明の師は、何も語らない。
命じもせず、慰めもせず。
ただ、そこに立ち続けているだけだった。
「ルーチェさん?」
アリアの指先が、そっと肘に触れた。
布越しに伝わる体温が、現実へ引き戻す。
「……ここにいます。わたしは、ちゃんと見えています」
小さく息を整える。
アリアはこの層で幻を見ない。
水を循環させ、脈を測り、足裏に薬を塗る――
列の常温を保つ役だ。
その確かさが、冷えた思考を現実へ繋ぎ留める。
「息、合わせましょう。三、二、止め……一で、吐く」
こくりと頷いた――はずだった。
だが、胸の奥に返ってきたのは、
記憶をなぞっただけの影の声。
『照らせ。あとは任せよ』
否――師は、そんなふうに命”はしなかった。
常に問い、考えさせ、選ばせた。
この反響の像は、その間が欠けている。
言葉が滑らかすぎる。
そこに、わずかな粗さがあった。
ルーチェは、その違和感を、はっきりと掴む。
「拙者の師は問うお方。今のこれは、影でござる」
塔の白が、ゆっくりと薄れていく。
代わりに、坑道の炭の黒が輪郭を取り戻した。
拍は整っている。呼吸も、足取りも乱れていない。
だが、胸の芯だけが、まだ微かに揺れていた。
――光は、心の闇を照らせぬ。
その言葉は、真理だ。
ならば、拙者は何者か。ただの照明なのか。
否。
腰に結んだ光糸が、かすかに脈打つ。
仲間と仲間をつなぐ、見えない張力。
幻には真似できない、わずかな揺らぎ。
離れぬように結ばれた、確かな結び目。
「ルーチェさんの光で……わたし、つながってます」
アリアの声は小さい。けれど、揺れがない。
その一言で、視界が開けた。
光は、場を明るくするだけの道具ではない。
ひととひとを結ぶ線なのだ。
照らすだけでは、足りない。
結び、戻る道を、先に刻む。
「拙者の光は――つなぐためにある」
言葉に、芯が通る。
胸の冷えが引き、掌に、確かな熱が戻った。
「――拙者の光は、つなぐためにある」
言葉に、芯が通る。
胸の冷えが引き、掌に、確かな熱が戻った。
「照らして終わりではござらぬ。離れぬよう結び、迷わぬよう道を刻み、
呼吸に合わせて戻る線を先に引く……」
白光が、静かに収束する。
「拙者は照明ではなく――導きでござる」
反響が一瞬遅れ、 壁に滲んでいた汗が、すっと引く。
影の師は、一歩、距離を取る。
輪郭は曖昧なまま。髷も、家紋も、名も、見せない。
ただ、そこに立つ。
ただ、問いを残す気配だけを置いて。
武士のような、静かな佇まい――それだけ。
◇
「いけるか」
漣司が短く問う。
「やるでござる」
ルーチェは杖をひるがえし、光を三段に折り畳んだ。
白い輝きが、層を成して坑道に広がる。
「前段――呼吸罫。
皆の呼吸に合わせ、足場と間を固定するでござる」
白い方眼が床と壁に浮かび上がる。
吸う三拍で広がり、止めの二拍で固まり、
吐く一拍で淡く焼き付く。
――足場が、呼吸と同じリズムで安定した。
「……肺ごと地面に縫い止められた気分だな」
ガラートが低く唸る。
「中段――導きの糸を重ねるでござる。
既存の光糸に副線を重ね、揺らぎを二重化。
幻は追いつけぬでござる」
白い糸が、さらに細い光の線をまとい、二重の軌道を描く。
「ズレ幅、+0.036。幻が補正できない誤差です」
リシュアが即座に数値を読み上げた。
「終段――対幻結界陣」
ルーチェは杖先を床へ突き立てた。
白い光が波紋のように広がり、足元の岩肌に淡い紋様を描く。
「幻は、いまとここの境目を曖昧にして、
心をずらしてくるでござる」
一同の視線が集まる。
「だから先に、現実を刻む。
皆で、ここにいると宣言するのでござる」
ルーチェは小さく息を整えた。
「声は、意識を縛る。遅れて置けば、
幻の上書きより先に本物の現在が残るでござる」
意味が伝わったのか、漣司が短く頷く。
「――やるぞ」
わずかに間を置いて、声が重なっていく。
「『いま、ここだ』」漣司。
「『いま、ここです』」リシュア。
「『いま、ここ――腹減っタ』」ガロウ。
「『いま、ここ。八人』」ミナ。
「『いま、ここにいます』」ロイ。
「『いま、ここ、後方よし』」ガラート。
「『いま、ここ。光は切れません』」アリア。
八つの声が、吐き出した息と重なって坑道に流れ込む。
白い結界が淡く脈打ち、空間そのものに
『いま・ここ』の輪郭を焼き付けた。
次の瞬間、壁を撫でていた違和感が、すっと剥がれる。
足元の岩肌がはっきりとした硬さを取り戻し、
さっきまで曖昧だった距離感や傾斜が、正しい形に戻っていく。
――幻は、書き換えに失敗した。
坑道の呼吸がこちらへ寄り、空間が一つのリズムに揃う。
もう足場は嘘をつかない。
影の師は、まだそこに立っていた。
だが、さっきよりも確実に遠い。
抜き身の気配は消え、鞘に収めた静けさだけが残っている。
名も、紋も、面差しも、霧の向こう――
今は、それでいい。
問い直す夜は、いずれ来る。
今日はただ、いまを結び続けるだけだ。
ガロウが小さく告げる。
「丸い影、脈動あリ」
リシュアが即座に応じる。
「吐き切ったら一拍固定。次の呼吸で跨いで、三で止めます」
ロイが短く頷いた。
「合わせる」
アリアが皆を見渡し、静かに声を添える。
「……息を、そろえて」
わずかな沈黙。
「――吸って」
胸が膨らむ。
「――止めて」
空気が張り詰める。
「――いま」
八人の意識が、同じ瞬間に重なった。
白光が炸裂する。空間が、音もなく噛み合った。
歪んでいた戸口が、ひとつの輪郭へと固定される。
列は迷いなく踏み出す。
一歩で境界を跨ぎ、二歩で内部へ入る。
三で止まり、四で呼吸を整える。
その奥に――核があった。
青白く脈打つ巨大な肺。
膨らみ、縮み、また膨らむ。
坑道に溜まり続けた呼気、声、怨嗟――
それらが圧縮され、形を得た、呼吸そのものの塊。
「……拙者が、つなぐ。皆で、封じる」
ルーチェの声は静かだったが、芯は揺れない。
杖先が宙に円を描く。
床から淡い光の格子が立ち上がり、足場を縫い止める。
同時に、八人を結ぶ光の糸が張り巡らされ、
互いの位置と呼吸を、一本の線で束ねていく。
反響は遅れ、核の脈動は鈍る。
まるで刃を失った獣のように、動きが重くなる。
アリアは一度も幻を見ない。
脈を測り、呼吸を整え、列の温度を一定に保ち続ける。
揺らがぬ常温――それが、全員の中心だった。
「もう一度――いま、ここ」
八つの声が、核の吐息に重なる。
結界が強く輝き、
その瞬間の現在を、空間そのものに焼き付けた。
光は、ただ道を照らすだけではない。
手と手を結び、戻る線を刻み、
迷いそうになる心を――確かな今へ引き戻す。
坑道の闇が、わずかに後退する。
その奥で、かつての声が、淡く残響した。
『光は闇を照らすが、心の闇は照らせぬ』
坑道に残る残響。
遠い夜から運ばれてきた、古い一句。
ルーチェは、ゆっくりと息を吸い――
その言葉を、静かに、
しかし確かな意志で言い換えた。
「――光は、心の闇を渡すのでござる」
白光が、杖先から淡く脈打つ。
「ひとりの手から、もうひとりの手へ。
迷いを越え、恐れを越え、道を手渡すために。
渡すために、つなぐために――拙者は、光でござる」
その瞬間、光がひときわ強く瞬いた。
糸となり、輪となり、八人の間を確かに結ぶ。
影の師が、煤の奥で、わずかに頷いた――
ように見えた。
その輪郭は風に崩れる灰のようにほどけ、
名も、姿も、存在の重ささえも、闇へ溶けていく。
残ったのは、言葉ではない。答えでもない。
ただ、問いを残して去った気配だけだった。
ルーチェは、迷わない。
杖を強く床へ突き立てる。
「起動――
対幻結界陣!」
白光が爆ぜ、坑道そのものが応答する。
床と空間に、呼吸のリズムを刻んだ光の線が走った。
脈打つ紋様は網のように広がり、
青白く膨らむ核へ絡みつく。
――まるで、光の縄が、巨大な肺を縛り上げるかのように。
同時に、澄んだ正音の膜が張り巡らされ、
反響が歪む前に、空間そのものを塞ぎ込む。
共鳴炉は、自分の呼吸を外へ逃がせなくなり、
膨らもうとしては締め上げられ、
ついには――自らの力で、自らを縛り始めた。
光は、ひとつでは弱い。
だが、結ばれれば、刃になる。
つないだいまを、次の一歩へ渡すために。
――突破の用意は、ととのった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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