第117章 反響する剛腕 ― 届かない力の場所
炭鉱都市オルテリア――眠れる資源の地。
だが地下深くには、街そのものを呑み込む危険なダンジョンが広がっていた。
資源確保と街の命運を賭け、
二階堂商会達は少数精鋭で未知の深層へと踏み込んでいく。
青白い鼓動が、岩肌を震わせながら骨の奥へ染み込んでくる。
反響層の闇は、もはや単なる闇ではない。
輪郭を持ち、意思を宿すかのように、ゆっくりと形を取りはじめていた。
光糸は八人を確かに繋いでいる。切れていない。乱れてもいない。
――それでも。
ガロウの視界だけが、静かに歪んだ。
炭の黒が、赤錆びた鉄の色へと滲み替わる。
鼻腔を刺すのは、焦げた油と血が混じった匂い。
思考より先に身体が覚えている、過去の戦場の臭いだった。
「……空気が変わりました」
ロイが、呼吸を乱さぬまま告げる。
「鉄の臭いが、濃いですね」
「歩調維持。光は強め。言葉は短く」
漣司の声は低く、揺れがない。
「離れるな」
「了解ダ」
ガロウは短く応え、斧の柄を握り直した。
赤い残像が視界の端にちらつく。だが足は止めない。
反響層は、次の問いを、すでに用意していた。
◇
通路の先に、巨大な門が立ちはだかった。
鉛色の格子が重く垂れ下がり、
幾重もの鎖が生き物のように壁を這っている。
――ここは炭鉱ではない。
ガロウの胸が、わずかに詰まる。城塞都市の裏門。
傭兵だった頃、難民の避難を護るために、
彼が一人で立ち塞がった場所だ。
警鐘が鳴り、炎が夜を裂く。
押し寄せる足音。算木のように積み上げられた荷車。
門の向こうでは、子どもの泣き声が途切れ途切れに響いていた。
あの夜、ガロウは門の下端に肩をねじ込み、ただ持ち上げた。
理屈も作戦もない。力だけが、彼に残された唯一の手段だった。
『お前の力じゃ、誰も救えねぇ』
嘲る声が、鉄板の内側から響く。酒で焼けた掠れ声。
昔の軍曹――「腕しか取り柄のねぇ脳筋だ」と笑い、
拳の使い方だけを教え、そして最期に吐き捨てた言葉。
「黙れヨ……」
ガロウは低く唸った。
喉の奥で、怒りとも祈りともつかない音が転がる。
「黙ってロ。今は……持ち上げル」
肩が軋み、骨が噛み合う。
斧で支点を作り、太ももで押し、背中で受け止める。
門は一瞬だけ浮き――そして、無慈悲に落ちる。
あの夜と同じだ。
重さは、決して軽くならない。
それは鉄の重みであり、嘲りの重みであり、
救えなかった数の重みだった。
反響層は、ガロウの過去をそのまま再生していた。
◇
「ガロウ」
漣司が短く呼ぶ。
「報告をしろ」
「門ダ。鉄の格子。向こうに人影。持ち上げれば通れる。
……だが、落ちル」
「反響が間に合わないように作っているわ」
リシュアが分析する。
「ガロウさんの筋力が尽きるタイミングに合わせて、重さが増える」
「なら、タイミングをずらすでござる」
ルーチェが光を集める。
「反響の鼓動に合わせ、光を刻むでござる。
重みの緩む一瞬を導き、足場とするでござる」
「私は補助に回ります」
アリアが素早く薬包を取り出す。
「関節を冷却します。筋緊張を一時的に落とせば、
少しだけですが、粘れます」
――その瞬間。
『お前の力じゃ、誰も救えねぇ』
嘲りが、門の向こうから溢れ出す。
子どもの泣き声に重ねられた、あの声。
ガロウは歯をむき出しにした。
「……分かってンだヨ。届かなかったコトぐらいナ」
記憶が、横から突き刺さる。
城塞都市の裏門。
荷車が逆流し、炎が迫り、女が赤子を抱いて叫んだ夜。
ガロウは門を持ち上げ、合間に二人、三人と人を通した。
四人目――少年が引っかかる。足が格子に挟まり、門が揺れる。
肩が焼ける。腕が震える。
――あと一寸。あと一寸が、届かない。
落ちた門は、容赦なく爪先を奪った。
少年は引きずられ、泣き叫び、母親の声が裂ける。
ガロウは門を殴った。
鉄は、殴られても動かなかった。
あのとき、軍曹は笑って言った。
『力は届かねぇ。届かせるのは、段取りだ』
――その直後。
男は矢を三本、胸に受けて倒れた。
段取りを整えていたはずの男は、
矢一本ぶんの運に、見放された。
反響層の門が、軋みを上げる。
過去と現在が、同じ重さで、ガロウの肩にのしかかっていた。
◇
「ガロウ、今はひとりで抱えるな」
漣司が一歩、間合いを詰める。
「段取りで持て」
「段取り、ネ」
ガロウは短く息を吐き、顎を引いた。
肩の力が、わずかに抜ける。
「分かった。合図くレ」
「三つ目の合図で上げる。二つ数えて保持、一つで交代。
――光を見るのよ」
リシュアが即座に噛み砕いて言う。
「光、合図を刻むでござる」
ルーチェが杖を振る。
白い光粒が空気中に浮かび、一定の間隔で、はっきりと明滅を始めた。
坑道は静まり返り、残るのは――光だけ。
――一つ。
――二つ。
――三つ。
三度目の光が、ひときわ強く瞬いた。
「一、二、――上げる!」
漣司の号令が、刃のように落ちる。
ガロウの脚が床を噛みしめ、背筋が弓なりにしなる。
重い門が、きしみを上げて浮いた。
その隙を逃さず、
アリアが迷いなく格子の下へ木楔を打ち込み、
ロイが体重を預けて角度を固定する。
ミナは迫る影を蹴り飛ばし、踵で地を叩いて振り返った。
切羽詰まった声ではない。
現場を動かす、いつもの調子で――
「はいはい、急いで! 今のうちだよ!」
◇
一つ目の合図。
ガロウは歯を食いしばり、門を支え切る。
肩に走る熱。鉄の重みが、反響に合わせて段階的に増していく。
掌の皮が擦れ、鎖骨の奥が焼けるように痛んだ。
耳の裏で、声がした。冷えた嘲笑を含んだ、忘れられない響き。
『届かねぇよ。お前の力は、いつだって一歩遅い』
「……遅いから、待たせない段取りを組んでンだヨ」
吐き捨てるように、しかし視線は揺らさない。
交代の合図。
ガロウがわずかに体重を逃がした瞬間、
漣司が肩を差し込み、門の下で重さを受け止める。
リシュアは即座に支点をずらし、
鉄格子と床の噛み合いを意図的に外した。
きしみが、明らかに低くなる。
ルーチェの光が強く瞬き、重さが抜ける瞬間を、
無理やり引き延ばす。
ガラードは最後尾で、通過する影の数を指で追う。
一人、二人、三人――まだ、残っている。
門の向こうから、別の声が立ち上がった。
嘲りではない。若い頃の、自分自身の声だ。
細く、無鉄砲で、疑うことを知らない。
『殴れば何とかなるだロ』
「……殴るのは最後ダ。今は、持つ」
静かな否定。刃を向ける先は敵ではない。
震え始めた筋肉、その一本一本だ。
次の合図。
ガロウが再び踏み込み、
門が、もう一段、高く浮いた。
その隙を逃さず、アリアが二本目の楔を打ち込む。
金属と木が噛み合う、低く乾いた感触。
ロイは手を添え、指を挟まぬ角度へと即座に修正した。
「次!」
ミナの声が背中を押す。
人影が、門の下を滑るようにすり抜けていく。
反響が、焦れたように軋んだ。嘲りの声が、わずかに音程を外す。
『届かねぇヨ――』
「届かせるンだヨ。……これでナ」
吼えた相手は、外ではない。
ガロウは、自分の内側へ向けて声を叩きつけた。
嘲りは、ずっとそこにいた。
肩をさらに門へ沈め、腹で息を吸い、背中で押す。
力は、点じゃ届かない。線にして、重ねて、やっと届く。
――昔、軍曹が言った。
殴る拳を十に分け、同じ場所へ十回打て。
打撃は線になる。持ち上げも、同じだ。
保持の合図。
ガロウの脚が、目に見えて痙攣し始める。
その瞬間、アリアの掌が膝裏に触れ、冷薬が浸み込んだ。
焼けるような痛みが、鈍く遠のく。
「支点、二指ぶん内側」
リシュアの短い指示。
「交代まで、あと一つ」
漣司の声が続く。
全員の声が、嘲りより先に届いた。
交代。
負荷が一瞬、流れ、戻る。そのたびに楔が増え、支点が太くなっていく。
門は、もう落ちるだけの塊ではない。
ルーチェの光が反響の書き換えを遅らせ、
正しい手順だけが、上書きされていく。
ガロウは大きく息を吐いた。
胸に溜まっていた空気を、地面へ落とすように。
「……昔ハ、力が足りなかっタ」
低く、確かめるように。
「でも今は違ウ。届かせるやり方ガ、ここにあル」
『お前の力じゃ、誰も救えねぇ』
嘲りは、もう響き切らない。ガロウは首だけを振る。
「オレ一人なラ、ナ」
◇
次の瞬間、反響が――途切れた。
余分な重さが剥がれ落ち、門はただの鉄へ戻る。
嘲りも、幻も、そこにはない。残ったのは、現実の重量だけ。
最後の合図が落ちる。
――今だ。
「上げる!」
八人の足が、同じ瞬間に踏み込んだ。
時間が、そこで止まり――そして、持ち上がる。
門が浮き、最後の楔が、鈍い音を立てて噛み合った。
格子は固定され、閉ざされていた通路が、確かな形を持って開く。
門の向こうにいた影――
過去の誰かは、煙のようにほどけ、消えた。
救ったのは、人ではない。
ガロウの中で、あの夜から凍りついていた時間だ。
静寂が落ちる。
反響はまだ耳の奥で燻っているが、その嘲りに、もう刃はなかった。
「よくやった」
漣司が、短く告げた。
「礼は要らねェヨ」
ガロウは肩を回し、荒れた呼吸を整える。
「やるこトを、やっただけダ」
「膝、冷やし続けてください。悪化する前に」
アリアが、柔らかく笑って薬包を差し出す。
「助カル」
そのやり取りを聞きながら、ガラードが低く言った。
「……力は届かねぇ。そう思い込ませる層だな、ここは」
「ええ」
リシュアが頷く。
「正しさや強さを個に閉じ込める構造です。
単独の一手が必ず折れるよう、反響が調律されている」
「だから――」
ロイが穏やかに言葉を継ぐ。
「俺たちは、単独では戦わない。皆で戦う」
ガロウは斧の柄を握り直した。掌に残る震えは、恥ではない。
合図だ。――まだ動ける、という合図。
「聞いたカ、反響」
ガロウは闇に向け、わざとらしく笑ってみせた。
「オレの力は、仲間を守るタメに使うモンだ。届かせるのは、皆の手だ。
……オレは、その肩になればイイ」
ルーチェが光をひとつ明るくし、拍を刻む。
「影の本質、近いでござる。三つ先の分岐を右」
「歩調は維持」
漣司が前へ視線を寄越す。
「ガロウ、先鋒継続」
「任セトケ」
反響は、なお囁く。
――お前の力じゃ、誰も救えねぇ。
だが、その声はもう届かない。
嘲りは、八つの足音の外側で、空回りするだけだ。
光糸が脈を打つ。
ガロウは一歩、そしてもう一歩、前へ出る。
届かなかった力は、過去に置いてきた。
届かせる力の線は、今ここにある。
「行くゾ」
斧を構え、低く言い切る。
「道は――オレらが、持ち上げル」
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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