第114章 第四層 ― 社長の傷痕
炭鉱都市オルテリア――眠れる資源の地。
だが地下深くには、街そのものを呑み込む危険なダンジョンが広がっていた。
資源確保と街の命運を賭け、
二階堂商会達は少数精鋭で未知の深層へと踏み込んでいく。
三層の休憩所に残った笑い声は、仮眠の余熱とともにほどけていった。
誰かの寝返り、誰かの小さな寝息――
それらが消えるにつれ、坑道は本来の静けさを取り戻す。
魔力時計が、淡い青の脈動で三時間の経過を告げた。
「……起床」
低く告げる声に応じ、全員が無言で動き出す。
寝具は素早く畳まれ、焚き火は砂を被せられて跡形もなく消えた。
革紐が締まり、金具が鳴り、装備が戦う形へ戻っていく。
ロイは包帯越しに腕を握り、開き、確かめる。
その動きを見逃さず、アリアが一歩寄って結び目を整えた。
「痺れが戻ったら、すぐに申告してください。
解呪は効いていますが、炭鉱の呪いはしつこいですから」
「……助かりました。無茶はしません」
短い応答だったが、そこに冗談の余地はない。
アリアは一度だけ小さく頷き、
いつもの軽やかさを少し抑えた笑みを浮かべた。
「戻れたら、温かいものでも。――それで十分です」
その言葉に、ロイの表情がわずかに緩む。
岩壁の奥――
自然に裂けたかのような亀裂が、黒く口を開けていた。
そこから流れ出す冷気は、三層とは質が違う。重く、澱んでいる。
ガラードが灯り石を下ろし、光の円を作る。
全員を順に見渡し、低く、しかしはっきりと告げた。
「ここから先は、俺にも分からん」
一瞬、空気が止まる。
「四層以下は俺でも未踏領域だ。地図も記録も当てにならねぇ。
案内はできない。……だから――」
視線が一人一人を射抜く。
「俺をあてにするな。自分の目と頭で動け」
率直すぎる宣言に、冗談の余白はなかった。
だが、それが逆に覚悟を定めさせる。
「了解した。布陣を組み替える」
漣司が一歩前に出る。灯り石の光が、坑道の凹凸に影を落とした。
「先頭、ガロウ」
名を呼ばれ、ガロウが斧を肩に担いだ。低く唸るように息を整える。
「俺が続く」
その背後に、漣司が位置取る。
「三番手と四番手はリュシア、ルーチェ」
二人が頷き、杖と術式の位置を確認した。
「中央にアリアとロイ。無理はするな」
アリアはロイの包帯を一度だけ見て、静かに頷く。
「外側警戒はミナ」
即座にミナが左右へ視線を走らせ、ナイフに指を掛けた。
「最後尾、ガラード。背中は任せる」
ガラードは無言で灯り石を掲げ、坑道の奥を睨む。
「合図は手、判断は短く、移動は密に」
「了解ダ。前はオレが切り開ク」
ガロウが一歩踏み出す。
「頼むぞ」
◇
降下口は、獣の喉の奥のように狭かった。
縦穴を下るにつれ、坑道の壁は黒い光沢を帯びていく。
煤と鉄が一度溶け、再び冷え固まったかのような、不自然な艶だ。
底へ降り立った瞬間――空気が変わった。
ずしり、と身体に重さが乗る。
耳の奥に膜を張られたような圧迫感。音が、遠く水の底へ沈んでいく感覚。
足元の炭片を踏んでも、はっきりした音が返ってこない。
「ザリ」というはずの音は、途中で潰され、
衣擦れや金具の触れ合う気配さえ、空気に吸い取られていく。
――この層では、音が伝わりにくい。
「……耳が詰まる感じがします」
アリアが無意識に耳へ手をやる。
「止まれ」
漣司が即座に手を上げた。
「息は入るか」
「問題ありません」
ロイは周囲を見回し、静かに頷く。
「ただ……声も足音も、すごく遠い。ここ、音が沈んでいます」
ルーチェが一歩進み、杖先に白い粒光を集める。
淡い脈動が空中で糸に結ばれ、微細に揺れた。
「漣司殿。光量は落とさぬが吉でござる。この層では拙者の光が魔素の汚れを焼く。
強く照らせば照らすほど、炭鉱ダンジョンの魔へ特効が入るでござる」
「つまり、光は目印ではなく忌避札になる」
「左様。音は狂わされるが、拙者の光は歪めにくい」
「よし。灯りは強めを維持。隊列は密。
音は最小限、光は切らない。ルーチェ、導きと浄化を頼む」
「任されたでござる」
光は細い糸に裂かれ、仲間それぞれの腰帯に結ばれた。
糸は不規則な脈で震え、幻では真似できないゆらぎを刻む。
「離れたら、この揺れを辿るでござる。まがい物の影は、この脈をコピーできぬ」
「心強イナ。光の縄張りってワケダ」
ガロウは斧を肩に担ぎ直す。
「全員、会話は短く。足と目で掴め」
漣司の合図で、縦穴の底から横坑へ滑り出た。
通路はひどく歪んでいた。
床に半ば埋まった古レールは途中で壁に呑まれ、天井から垂れ、また床へ戻る。
空間そのものが一度こね直され、無理やり固められたようだ。
光が触れるたび、壁面の煤がかすかに退き、黒の下に虹色の鉱脈がちらつく。
「物理が負けてる景色ね」
ミナが吐息混じりに言う。
「高圧の魔素で地層ごとねじれた痕でござる。
光が触れれば『まやかし』が剝げる」
ルーチェが淡々と応じる。
「敵の気配が全然取れない」
とミナが舌打ちするように口の形だけを動かす。
「聞こえないと背中が怖い」
アリアはまだ両耳を押さえたまま、きょろきょろと仲間の顔を見回している。
「声、出していいんですか? これ、しゃべっても聞こえないのかなって……」
「試してみロ」とガロウ。
「え? いま?」
「いまダ」
「も、もう、ガロウさんは急なんだから……」
アリアはおそるおそる小さく口を開いた。
「……聞こえてますかー?」
その声は出た。確かに出たはずだ。だけど、誰の耳にも届かなかった。
ルーチェが目を見張り、手振りで「いま何か言った?」と尋ねる。
アリアはあわてて頷く。
その頷きが伝わることで、ようやく会話が成り立った。
「……声が、消されてる?」とリュシア。
「いや、違う」
と漣司は低く、はっきりと首を振った。
「遅れて返ってくる」
「遅れて?」
その時だった。
「聞こえてますかー?」
アリアの、ついさっきの明るい声が、坑道の奥から響いてきた。
それはほんの数秒ズレて、まるで残響のように戻ってくる。
だが――微妙に違う。
明るく、頼りなさそうで、でも仲間を励ますときによく出すアリアのあの声。
それが、ほんの少しだけ、湿った泣き声に変換されていた。
「……たすけて……聞こえてますか……だれか……」
全員の背筋に、冷たいものが走った。
「っ、アリアじゃない!」
ミナが思わず身を乗り出す。
「今の声、アリアの声じゃない!」
「いや、アリアの声だ」
とロイが反射的に否定する。
「けど、アリアがああいうふうに言う時の声じゃない」
「つまリ――俺たちの音ガ、勝手に組み替えられてるってことカ」
とガロウが低く吐いた。アリア当人は、目を丸くしていた。
「い、いやいやいやいや、私そんな泣きそうな言い方してませんよ!?
してないってば!」
「分かってる」
と漣司は短く言い、アリアの肩に手を置く。
「焦るな。お前が悪いんじゃない」
「……は、はい」
アリアが少しだけ肩の力を抜いたのを確認してから、漣司は全員に向けて手振りで合図する。
視線と言葉で、全員の注意を前方に引き戻した。
「まず、二つ理解しろ」と漣司。
リュシア、ガロウ、ミナ、ロイ、ルーチェ、アリア、
そして最後尾のガラートが、それぞれ頷く。
「一つ目。ここでは、音は遅れて戻る。その遅れは一定じゃない。
数秒かもしれないし、もっと遅いかもしれない」
「ってことは、会話しようとしてもズレて噛み合わないってこと?」
とミナ。
「ああ。だから、無闇に叫ぶな。判断が狂う」
「二つ目。戻ってくる音は、同じ言葉とは限らない」
「さっきのアリアの声みたいにでござるな」
とルーチェ。
「しゃべった本人が言っていない内容に、書き換えられていたでござる」
「これ、かなり厄介だな……」
ロイが苦い顔になる。
「仲間を疑わせるには十分すぎる」
「まさに、それが狙いだろうな」
とガラート。
彼は坑道の壁に掌を当て、ゆっくりと押し広げられたような炭の層をなぞった。
「この層は音を喰って吐き直す。ただの反響じゃねぇ。意思がある。
侵入者がバラバラになるよう、精神を削るように、組んで返してる」
「……この炭鉱そのものが、そういうふうに変わったってことですか?」
アリアが不安げに訊ねる。
「そうだ」
とガラートは答えた。
「もともと人間が掘った坑道だ。
怒鳴り声も、歌も、笑いも、泣きも、死に際の呻きも、ここには全部残ってる。
それを魔素が拾って、今はこうして『言葉』にして吐き戻してるんだ」
「亡霊の代わりに亡霊の声が出てくるってことカ」
とガロウ。
「いやらしいナ」
ルーチェは指先に細い光を灯した。
それは焚き火のような赤でも、松明のような黄色でもない。
透明な、白に近い淡い光。虫の羽の粉のように揺れながら、静かに空中を漂う。
「これより先、拙者が導きの光をつなぐでござる。
もし視界から仲間が消えたら、この光を辿るでござる」
「糸状の光ですか?」
とリュシア。
「御意。光の糸は、おのが意志でゆらぐゆえ、幻では容易に複製できぬ。
まがいものの幻影は似せられんはずでござる」
「それ、便利」
とミナが頷いた。
「ルーチェさん、頼りにしています!」
とアリアも続ける。ルーチェは一瞬あわてて、杖を抱えながら目線を逸らした。
「べ、別に褒められて照れておるわけでは……」
「照れてるわ」とミナ。
「照れてるでござらん!!」
数秒の沈黙ののち、坑道の奥から「照れてるでござらん……」
という情けない反響が返ってきた。
全員が同時に肩を震わせ、笑いをこらえる。
そして、全員の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
光糸が脈を強め、隊列が息をそろえ直した、
その刹那――視界がぐらりと撓む。
煤が波打ち、別の廊景が二重写しになる。
空気の重さが一段深くなり、闇の底から声が落ちてきた。
「……社長、やめてくれよ……」
足が止まる。胸の奥で、心臓が一拍、躓く。
「お前の判断で、俺は死んだんだ……」
口内に鉄の味が滲む。光が遠のき、坑道の闇は、別の現実へと滑り替わる。
◇
東京、夜明け前。乾いたネオンが硝子を冷やす。
M&Aクロージング直後の統合初夜。
買収先の本社フロアは段ボールと仮設配線で迷路と化し、
サーバーラックの入れ替えは「業務を止めない」の旗のもと週末一気の強行軍。
反対派の退任で引継ぎは不完全、非常導線は一部工事中、電源は仮設二重化――
赤が並ぶリスク票。市場は明日を待たない。漣司は「やる」と決めた。
勝っているときは進む。それで上がってきた。
若い管理職がいた。海斗。
現場のエースで、礼儀正しく、整理整頓にうるさい男だ。
今日は統合側ネットワークへ買収先を繋ぐ橋。
「社長。最短で切り替えます。
落ちても二十分以内に戻せるよう、段取りしています」
「無理はするなよ」
と言いつつ、漣司は時計を見る。夜明け前の数字が近づく。
発表文は用意済みだ。言葉だけのシナジーにする気はない。
非常ベルが鳴ったのはUPSの切り替え時。
焦げた匂いが一気に立ち、仮設ケーブルの束が熱を持つ。
天井裏の一角で小さな火花。自動消火は工事中区画で一部無効。監督は言っていた
――「人がいれば手で消せる規模」想定の範囲、のはずだった。
「全員、一次退避だ」
人の波が動く。だが段ボールの迷路が導線を細くする。
契約原本と購買台帳の箱が山になって避難ラインを蛇のように曲げ、誰かが書類を抱えて転ぶ。
海斗はラック前に残った。順序を間違えれば復旧が数時間飛ぶ。
飛べば明日の数字が変わる。彼は綺麗に畳む男だ。
「海斗、下がれ」
耳で「はい」と返事を受け取る。
だが海斗は、もう一本だけケーブルへ手を伸ばしていた。
責任感と習慣。視界は煙で白み、足もとは散らかった配線が張り巡らされている。
天井裏の古い断熱材へ火が移ったのは数分後。悪い種類の火。
熱でスプリンクラーの無効区画が露呈し、仮止めの現場仕様が、最悪の形で姿を見せる。
「撤退だ!全員、今すぐ!」
漣司は叫ぶ。避難を優先しろ――そう言った。が、もう一つ、言ってしまった。
「原本は最低限だけでいい。契約と台帳の束を――」
言い終える前に海斗は「了解です」と返し、箱へ手を伸ばす。
段ボールは重く、角が指に食い込む。煙は濃く、粉末消火の白が紙とコードに降る。
パニックではない。正しい動きのつもりだった。
結果は単純だ。煙を吸い、意識が落ち、運ばれ、間に合わなかった。
報告書は乾いていた。死因:一酸化炭素中毒。火傷軽微。避難経路の一時閉塞。
指揮系統の混線。原因欄に数字と箇条書き。
「判断の責任は最終的に経営者に帰属する」
事実は一点。言葉は網だ。網の目から、温度だけが落ちる。
通夜の夜、海斗の父親は言った。
「息子は、社長を尊敬していました」
漣司は、正しい言葉を選んだ。
「最善を尽くしました」
「誠に申し訳ありません」
「二度と繰り返しません」
正しい言葉は、砂の味がした。
記者会見では光が洪水になり、
「安全配慮義務」「スケジュールの優先」「経営判断の是非」が矢の形で飛ぶ。
理由も責任も手順も用意していた。
用意していないものが一つ――死んだ一人を、生きた一人へ戻す方法。
『社長、大丈夫です。先に――』
最期に交わした、癖のない穏やかな声。
何度反芻しても「先に」が喉に引っかかる。先に行かせたのは自分だ。
決めたのは、自分だ。
『お前の判断で、俺たちは死んだんだ』
その言葉は、外からではなく内側から響いた。
社員たち全員の声か、遺族の声か、海斗本人の声か――違う。
責任の辞書を丸呑みした、自分の声だ。
漣司は、心のどこかで線を引いた。もう二度と、重さを外に出さない。
決めるのは自分、背負うのも自分。そうして、言葉を刃物に研ぎ直した。
◇
「社長」
闇の底に沈みかけた意識を、現実の鉤が引き戻す。
低く、しかし確かなリュシアの呼びかけだった。
――第四層、反響層。
腰に結ばれた光糸が脈打ち、「ここにいる」と仲間へ告げている。
ルーチェの放つ光が濁りを焼き払い、壁にこびりついた煤がわずかに後退した。
青白い明滅が遠くで心臓のように脈を打ち、この層そのものが生きているかのようだ。
「大丈夫だ」
漣司は短く答え、喉に残る砂の感触を飲み下す。
「進む」
「光、強めるでござるか」
ルーチェが視線だけで問いかける。
「ああ。声に主導権は渡さない。光で押す」
「承知つかまつった」
杖先の輝きが一段階強まり、光糸の脈動も力を増す。
坑道を満たしていた闇が、じりじりと後ずさるように退いていった。
遅れて反響していた泣き声も、次第に距離を失い、遠のいていく。
アリアは胸の前で両手を握り、深く息を整えた。
「私も……離れません」
「頼もしいことダ」
ガロウが笑う。
「前は任せとケ」
「正面は預ける」
漣司は一度だけ頷き、簡潔に命じた。
「進め。ここからは――光で道を奪い返す」
八つの影が、脈打つ青白い光を目印に、静かに歩を重ねていく。
反響はまだ耳の奥で燻り続けている。
それでも、進むべき前方ははっきりと照らされていた。
光は、確かに――彼らのものだった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
少しでも面白いと思ったら☆☆☆☆☆を★★★★★にして頂ければと思います。一つひとつの応援が、次の物語を生み出す力になるんです。これからも、どうぞ気軽に見守っていただけたら嬉しいです。




