第107章 兆す火種 ― ダンジョンへの招集
交易路を切り拓き、湖上都市ラクリアを再生させた武装法人二階堂商会。
だが商会の資金基盤は万全ではなく、次なる一手が求められていた。
彼らが向かうのは、ダンジョン化により衰退した
炭鉱都市オルテリア――眠れる資源の地。
失われた街を再生し、商会と大陸の未来を繋ぐ、新たな挑戦が始まる。
オルテリアの朝は、かつて街を覆っていた煤煙の匂いを、少しずつ手放し始めていた。
深く息を吸えば、喉を刺す焦げ臭さよりも、焼きたてのパンや煮炊きの湯気が先に届く。
それだけで、この街が確かに変わり始めていることがわかった。
石畳の通りには、早くも露店が並ぶ。
布を広げる音、秤を置く音、声を張り上げる商人たち。
行き交う人々の間からは、冗談混じりの笑い声がこぼれ、子どもたちが駆け抜けていく。
――ほんの少し前まで、沈黙しかなかった場所だ。
長い停滞。炭鉱の封鎖と共に止まり、凍りついていた時間。
それを越えて、オルテリアはようやく日常という名の歯車を回し始めていた。
二階堂商会が市場へ参入してから、幾ばくかの日が過ぎた。
食料は滞りなく行き渡り、燃料は各家庭に届き、医薬品も正規のルートで補充される。
臨時に組まれた補給網は、もはや仮設とは呼べないほどに機能し始めていた。
混乱はない。奪い合いも、買い占めも起きていない。
「明日も手に入る」
その確信が、人々の心から余計な力を抜いていく。
街を歩く市民の表情には、
久しく失われていた色――安堵が、静かに戻ってきていた。
◇
中央広場の一角。
ざわめく人々の輪の外側で、地面に淡い影が滲んでいた。
炭鉱から漏れ出した瘴気に引かれ、街の縁から忍び込んだ魔物――
煤のような体を持つ小鬼が、低く唸り声を上げている。
「……来ましたな」
ルーチェは一歩前に出て、杖を静かに掲げた。
恐怖に強張っていた衛兵たちが、思わず息を呑む。
「《浄化光》――
穢れあるものよ、在るべき闇へ還りなさい」
次の瞬間、光が咲いた。
花が開くように、柔らかく、それでいて抗いがたい輝きが広場を満たす。
光に触れた魔物の輪郭が揺らぎ、
黒煙のような瘴気が、悲鳴にも似た音を立てて剥がれ落ちていく。
「ギィ……ッ!」
魔物は後ずさり、逃げようとしたが――
地面に刻まれた光の紋が、退路を断った。
「恐れることはございませぬ。
光は、ただ正しき場所へ導くだけ」
最後の一閃。閃光が走り、魔物の姿は霧散する。
残ったのは、澄んだ空気と、わずかな温もりだけだった。
広場に、静寂。
やがて――
「……消えた」
「本当に、祓われたのか……?」
誰かが呟き、次の瞬間、安堵の息が連なった。
「すげぇ……」
「街の中で、魔物を……」
ルーチェは杖を下ろし、穏やかに一礼する。
「光は、脅しではなく救いにこそ使うもの。
この街に巣食う穢れ、少しずつ掃いましょう」
その背後で、曇っていた空気が、確かに軽くなっていた。
オルテリアは――守られている。
そう、誰もが初めて実感した瞬間だった。
その光景の、少し後ろ。
ガロウは腹の底から笑い声を響かせながら、警備隊員たちの輪の中心に立っていた。
「ハッハッハ! オイ、そこの兄チャン!!
剣は腕で振るモンじゃねェ! 腰ダ、腰!!」
自分の腰を拳で叩き、踏み込みながら見本を見せる。
大柄な体が前に出た瞬間、地面が鈍く鳴った。
「……なるほどな」
「腰を落として、体重を乗せる……こうか?」
荒くれ上がりの隊員たちが、真剣な目で動きを真似る。
「そうダ! 今のは悪くねェ!
だが、まだ軽イ!」
ガロウは一歩近づき、剣を持つ腕を軽く押し下げる。
「刃は信じろ。自分の体重を信じて、前に出ル!」
「……っ、了解!」
隊員が低く答え、今度は力強く踏み込む。
空を切る音が、先ほどよりも明確に響いた。
「いい顔になってきたナ」
「さすがだ……実戦で生き残ってきた動きだ」
周囲の隊員たちも、自然と輪を狭める。
恐怖ではなく、学ぼうとする目がそこにあった。
「イイカ、野郎どモ!」
ガロウの声が広場に響く。
「街を守るってのは、正義のポーズを取るコトじゃねェ!
倒れねェ体を作るコトダ!」
拳で自分の胸を叩く。
「怖ェのは当たり前ダ。
だがナ――腰が入ってりゃ、逃げ足も生きる!」
隊員たちが、思わず笑う。
「逃げるのも戦い、ってことか」
「生き残るのが仕事ダ!」
ガロウは歯を見せて笑った。
「一歩前に出りゃ、背中は街が預かってくれル。
だから腰を引くナ!」
「……応ッ!!」
返事は揃い、力強い。
かつては暴力と混沌の象徴だった炭鉱都市の荒くれ者たち。
今は――守るべき場所を得た戦士として、拳と剣を磨いている。
二階堂商会がもたらした変化は、秩序だけではない。
誇りが、人の背中に戻り始めていた。
「ヨシ!」
ガロウが拳を鳴らす。
「次は全員まとめて来イ!
最後まで立ってた奴が、今日の一番ダ!!」
鬨の声と笑いが広場に広がる。
そこにはもう、怯えた街の影はなかった。
◇
街の北端、かつて商人たちの喧騒で満ちていた旧ギルド館。
今はその役目を変え、ガラートの住居兼――
そして、街の頭脳が集う場所となっていた。
分厚い石壁に囲まれた一室。
外の市場のざわめきはここまで届かず、代わりに低い声と紙を擦る音だけが満ちている。
「……商会の補給網は、ほぼ想定どおりだな?」
ガラートが低く問う。その声には、期待よりも確認の色が強かった。
「ああ。主要な交易路は安定し始めている」
「炭鉱由来の物資は依然として封鎖中だが……ラクリア方面との往来は完全に再開した」
報告を受け、ガラートはゆっくりと息を吐いた。
「上出来だ。街は――ようやく呼吸を取り戻しつつある」
だが、その視線はすぐに机上へと落ちる。
広げられた地図。赤線で囲われた、炭鉱跡地一帯。
そして、その中心に刻まれた文字。
――《魔瘴核》
蝋燭の揺らめきが、その文字を不気味に照らした。
「……問題は、ここからだ」
ガラートの指が、赤線の内側をなぞる。
「街の表は動き出した。だが地下は、まだ眠っちゃいねぇ」
沈黙。商人の一人が、喉を鳴らして口を開く。
「……あの下に、まだ何かがいると?」
ガラートは、迷いなく頷いた。
「間違いねぇ。俺は何度も潜った」
「瘴気の流れが不自然すぎる。ただ溜まってるだけじゃねぇ……」
拳を握り、低く言い切る。
「まるで、何かが呼吸してやがる」
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。
地図の上で、赤線が血管のように見える。
「……魔物の巣、では済まないかもしれませんね」
「いや、それ以下でも以上でもねぇ」
ガラートは静かに笑った。だがその目は、笑っていない。
「ここは――ダンジョンだ。街の再生を阻む、最後の病巣」
商人たちが息を呑む。
「二階堂商会が来た以上、いずれ踏み込むことになる」
「だが、無策で潜らせるつもりはねぇ」
地図を畳み、ガラートは立ち上がった。
「準備を進めろ。物資、人員、情報――全部だ」
「街が息を吹き返した今だからこそ、次は地下に手を伸ばす」
重い扉の向こう、オルテリアの夜は静かだった。
だがその地下では、確かに何かが蠢いている。
――ダンジョン攻略、その幕は、すでに上がり始めていた。
◇
陽はすでに西へと傾き、炭鉱都市を覆う空気の色が、昼と夜の境目へと滲みはじめていた。
長く伸びる影が石畳を舐めるように這い、街の鼓動が、わずかに速まっていくのが分かる。
その頃――
ガラートは短く息を吐き、戸口に立たせていた使いの少年へと顎をしゃくった。
「頃合いだな。二階堂商会の漣司たちを呼んでこい」
低く、だが決断を孕んだ声。
少年は一瞬だけ目を見開き、すぐに背筋を伸ばした。
「了解です!」
踵を返すと同時に、乾いた足音が廊下を駆け抜け、やがて夕暮れのざわめきへと溶けていく。
その残響が消えたあと、室内には、不思議な静けさだけが残った。
ガラートは椅子に深く身を沈め、天井を仰ぐように目を閉じる。
軋む木製の背もたれが、彼の体重を受け止めて低く鳴った。
「……まったくな」
独り言のように零れた声は、疲労と、かすかな高揚が入り混じった色を帯びていた。
「あいつらと絡んでると、時間が妙に早ぇ。気づきゃ日が沈みかけてやがる」
腐臭のように澱んでいた街。諦めと恐怖だけが支配していた日々。
それらが、ここ最近で、確かに変わり始めている。
「だが……悪くねぇ」
ガラートの口元が、わずかに吊り上がった。
「長いこと腐りきってたこの街に――ようやく血が通い始めた。
痛みも熱もあるが……生きてる証拠だ」
そして、その血流が、次に向かう先は一つしかない。
赤線で囲われた地下。
瘴気の源――未だ眠らぬダンジョン。
ガラートは静かに目を開いた。
夕闇が差し込む窓の向こうで、鐘の音が一つ、低く鳴る。
「……さあ、ここからが本番だ」
少年が戻る頃には、もう引き返せない。
二階堂商会が動き、街が賭けに出る。
そして、地下に巣食う何かが、目を覚ます。
◇
――その夜。
宿舎の廊下は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
ランプの淡い光が壁を照らし、外では風が窓枠をかすめる音だけが、かすかに響いている。
その静寂を破るように、扉が勢いよく叩かれた。
「ガ、ガラートさんが……! 至急、大事な話があると……!」
漣司は一瞬たりとも迷わなかった。
椅子から立ち上がる動作は早く、すでに次の展開を見据えている。
「分かった。すぐ向かう」
その声に、宿舎の空気がぴり、と張り詰める。
「また会議ですか?」
ロイが剣を磨きながら問う。
「恐らくな。――次の段階の話だ」
漣司の言葉に、リュシアが静かに眼鏡を押し上げる。
レンズ越しの瞳が、淡く光った。
「……ダンジョン、ですね」
「ああ」
即答だった。
漣司は頷き、皆の視線を一身に集める。
「市場は安定してきている。交易も回り始めた。
だが、炭鉱が瘴気を吐き続ける限り、この街の根は腐ったままだ」
指先が、無意識に机の上を叩く。
「――本命は、そこにある」
短く、重い沈黙。それを破ったのは、ミナだった。
「つまり……次は攻略ってわけね」
立ち上がり、腰に手を当てる。
その表情には、恐れよりも覚悟が浮かんでいた。
「いいわよ。装備も魔導具も点検済み。あたしは、いつでも出られる」
「オレモ行クゾ!」
ガロウが拳を打ち合わせ、豪快に笑う。
その笑みは荒々しいが、底には確かな頼もしさがあった。
「拙者も――」
ルーチェが一歩前に出て、胸に手を当てる。
穏やかな声音だが、そこには揺るぎない自信があった。
「光の浄化術は、さらに研鑽を積みました故。
瘴気の濃い場所でも、皆を守り切ってみせましょう」
漣司は皆の顔を見渡し、静かに言った。
「よし。全員で行く。オルテリアの再生、その本丸に踏み込むために」
◇
旧ギルド――夜の帳が下りる頃、ランプの明かりがゆらめく部屋に、
二階堂商会のメンバーとガラートが再び集った。
ガラートは地図を指し示しながら口を開く。
「よく来てくれた。……そろそろ本命の話をしようじゃねぇか」
その声には、長年封じてきた決意の重みが宿っていた。
「街は回復してきた。物資の流れも整った。だが、地下は――
今もなお、腐り続けている。ダンジョン化した炭鉱をどうにかしねぇ限り、この街の未来はねぇ」
「つまり、次はその攻略、というわけですね」
リュシアが確認する。
「ああ。お前らがやるなら、俺も手を貸す」
ガラートは目を細め、漣司に視線を送った。
「だが、ただ潜るだけじゃダメだ。まず目的をはっきりさせろ。
奪うんじゃなく、救うために潜るんだ。いいな?」
漣司は短く息をつき、静かに頷いた。
「心得ている。この街のために、そして人のために。――俺たちは潜る」
ランプの炎が、彼らの瞳に反射して揺れた。
その灯はまるで、新たな戦いへの狼煙のようだった。
お付き合いいただき、ありがとうございます。ここまで読んでくださったあなたに、心からの感謝を。
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