2 待夜家の朝 -Morning at the Matiya House-
ふふーん、ふんふーん。
キッチンからはジュージューと食材を炒める音に混ざって、何やら楽し気な鼻歌が聴こえる。
ヘッドホンを付けた玄恵が朝食を作っている最中だった。
「おはよう、母さん。」
階段を下ってきたリヒトは手すりから身を乗り出した。
「おお、おはよう梨人。」
片手でヘッドホンを外しながら玄恵はクシャっとした笑顔を見せた。
(豚肉炒めかな、今日の朝はガッツリ系だ)
リヒトは鼻を効かせながらそのまま洗面所へ直行した。
ヴィィイイインと髭剃りの音が聞こえたリヒトは廊下で立ち止まった。
「おはよう、父さん。」
洗面所では一足先に美雪が髭を剃っていた。
「おう、おはよう。よく寝たか?」
「うん、ぐっすり。」
「そりゃ良かった。」
「父さんは?また夜更かししたの?」
「あー、韓ドラを2話ほど多く?」
美雪は流水で顎周りの泡を落とした。
「一昨日だって夜遅くまでパズルゲームやってたでしょ。知ってるんだからね。」
梨人は話しながらヒョウ柄のヘアバンドで髪を上げた。
「あれは面白いけど、熱中すると辞め時が分からなくなるんだよなあ。困る。」
「ゲームは、時間溶けるからね。」
髭剃りを終えた美雪はタオルで顔を拭きながら洗面所を出て行った。
実を言うと。
朝に洗面所で交わす、このちょっとした会話が気に入っていたりする。
洗面所に入るとシェービングフォームのシトラス系の残り香が立ち込めていた。
「シトラス、いただきましたー。」
梨人は洗面台の前に立つと鏡を開き、中の棚からポンプタイプの青い洗顔フォームを取り出した。
カエルマークでお馴染み、水玉製薬の製品でアクネ系ラインナップの一つだ。
ポンプから出た泡で顔をふんわりと包みこむ。
(ほあ〜もっこもこ)
優しく顔を洗い上げ、冷たい水で泡が残らないように念入りにすすぐとタオルで顔を拭いた。
「にぃに、おはよう。」
「お、紘〜。おはよう。」
まだ眠そうな顔で起きてきた紘に洗面台の前を譲ると、梨人は歯を磨き始めた。
水飛沫を飛ばしながら雑に顔を洗う紘が面白くて、リヒトは口から歯磨き粉を溢さないようにするのに必死だった。
梨人に洗面台の番が戻る。
口をゆすぐ梨人に紘が歯ブラシ片手に話しかけた。
「にぃに、歯磨き粉少しちょうだい。」
「え、これ?これはまだ紘には早いんじゃない?辛いよ多分。」
「何味?」
「レモンミント味。」
「多分、だいじょうぶ。」
普段ピーチ味の歯磨き粉を使う妹だが……大丈夫だろうか。
「ダメだったら出すんだよ。」
「うん。」
紘ちゃん、初めてのミント体験。
少し顔を歪めてはいるものの、頑張って磨いている。
「レモンの風味がして爽やかでしょ?」
「……びみょう。」
口には合わなかったみたいだ。
「梨人〜〜紘〜〜、ご飯〜〜。」
玄恵が二人に呼び掛ける。
「「 は ー い 」」
梨人と紘は、急いで食卓に向かった。
「今朝のニュースです。
紅葉のシーズン到来で賑わう観光スポット。
しかし、そんな各地の観光スポットでは歩きスマホによる事故が相次ぎ──」
リビングのテレビ画面に映し出される紅葉の景色。
「もう、すっかり肌寒くなったなあ。」
「そうね。梨人も紘も、ちゃんとあったかくしないと。冷えちゃうよ。」
今朝のメニューは豚肉ピーマン茄子炒め、豆腐とねぎの味噌汁に白米、それにホットコーヒー。
コーヒーの飲めない紘は無糖の紅茶を飲んでいる。
二人の心配を他所に、梨人と紘は裸足だ。
「ちょっとアンタ達、なんで二人して裸足なのよ。ちゃんと靴下履いてから降りてきて。」
「温活だぞ、温活。」
「わかったよ、明日から気をつけるよ。な?」
「うん。気をつける。」
心配が故に普段から小言の多い両親だが、梨人は全然嫌ではなかった。
むしろ、家族が大好きだった。
学校に行く前のこの、家族とのコミュニケーションが一日の活力と言っても過言ではなかった。
朝食を食べ終え、皆で食器を片付けていると玄恵の声がキッチンから聞こえてくる。
「あ、そうだ。デザートに林檎があったんだ。林檎食べる人?」
「俺はもう、出るからいいよ。」
「じゃあよっちゃんは夜ね。梨人と紘は?」
「食べる〜〜!」
紘が真っ先に返事をした。
「僕にもちょうだい。先に、支度済ませてくるね。」
「じゃあ梨人の分も剥いておくから。支度してらっしゃい。」
「うん、ありがとう。父さん、気をつけてね。」
「梨人も、気をつけてな。」
「うん。行ってらっしゃい。」
梨人は洗面所でヘアウォーターとドライヤーを使って寝癖を直し、ニ階の自室に向かうと素早く制服に着替えた。
──制服に着替えると、梨人は変わってしまう。
制服を見に纏うことでスイッチが切り替わり、まるでさっきまでの自分とは別人のように気持ちが沈んでしまうのだ。
(ああ、また今日も孤独の闘いが始まる。嫌だ)
梨人は学校が大嫌いだった。
勉強が嫌い、学校自体が嫌い、というわけではなく。
学校にいる「人間」が原因で学校が嫌いになってしまったのだ。
(家でも勉強はできるのに。何のための学校なんだよ、本当)
憂鬱な気持ちを抱えながらもしっかりとネクタイをしめた梨人は、教材の詰まった重い通学カバンを背負った。
「じゃあな。行ってくる。」
布団の上に転がるふて猫に挨拶を告げると、部屋を後にした。
一階に降りると食卓に梨人の分のカットされた林檎がぽつんと置いてあった。
リビングでは紘がニュース番組のエンタメコーナーを見ながら、フォークで刺した林檎をシャリシャリ齧っていた。
「あれ、母さんは?」
「パパを駅まで送ってくるって、まだ戻ってきてなーい。」
「あ〜。あれ、紘は学校の支度しなくていいの?そろそろ時間だけど。」
「え?今日ひい学校ないよ。創立記念日なんだって。」
「え?ああ、そうなんだ。いいねお休みで。」
(僕は毎日、創立記念日がいいなあ)
一瞬、情けない願望が頭をよぎる。
"僕は将来、総理大臣になって毎日を休日にしてみせます!"
幼い頃は家でこんなことを言ってたような──言ってなかったような。
「その分宿題多く出されてるけどね、先生の鬼!」
紘は不満たっぷり!という顔で口を尖らせた。
「ハハ、そうか。それなら、ちゃんとやらないとな。」
梨人は紘の頭をグリグリと撫でると、食卓から林檎の入った小皿を持ってきた。
「にぃに、もう出るからこれ食っちゃっていいよ。」
「いいの?やったあ!」
紘はまた嬉しそうに林檎に齧り付いた。
(せっかく剥いてもらって悪いけど、食べれそうもないや)
制服を纏った今の梨人は、目の前のデザートに手を伸ばす余裕も無かった。
玄関で座って靴を履いていると玄恵が帰ってきた。
「あれ、もう行くの?」
「うん。」
「アンタはいつも早いわね。」
「余裕のある男は、かっこいいって言うでしょ?」
「なーにが、余裕のある男よ。」
梨人は立ち上がると重いカバンを持ち上げた。
「あ。梨人今日、塾の日だよね。持った?」
「持ったよ。大丈夫。」
やたらと重いカバンには塾の教材も含まれていた。
「気をつけてね。」
「気をつけて!」
いつの間にか、紘も玄関に見送りに来ていた。
「じゃ、にぃに行ってくるからな。」
「うん、行ってらっしゃい!!」
「行ってらっしゃい。」
玄恵の横で、紘が林檎の刺さったフォークを片手に、逆側の手を無邪気に振る。
「行ってきます。」
梨人は家族の見送りのもと、心を殺してシェルターを出発した。
目的地は──岳陵第一高校。
今日もまた、長い一日が始まる。




