第2話 夢見る少女と堕ちた天才(1)
二か月後。
「わたし、自分でもダメダメとわかっています」
浦風ツバサは、絞り出すようにそう呟いた。
前期中間テストの結果が返ってきた最初の金曜日。
ホームルーム直後の廊下には、明日からの休みに心躍らせる生徒であふれていた。
どこへ行こうか、何をしようか。
楽しい学園生活、その休日を謳歌しようとする彼らの表情は眩しく光っている。
そんな中、職員室へ呼び出された新入生の少女。
ツバサはまっすぐな瞳で、クラス担任の鈴原と向き合って座っていた。
「わたし、小学校のとき近所の山で遭難しました。近道をしようとして山道に入って、間違えて山頂まで登ってしまったんです。そういったことは一度や二度ではありません。道を覚えるのが苦手なんです。……だから、職員室への道もわからずに迷ってしまって……」
「それで一時間も遅れてきたのね。たしかにこの学校は広いから迷子になるのもわかるわ」
「いいえ、二時間迷いました……」
ツバサは消え入るように言った。
二人の間に沈黙が降りる。
「で、でもね。浦風さん、私ね、ほんっとうにすごいと思っているのよ!」
「……なにが、ですか?」
「今回の中間テストの結果よ」
鈴原は一枚のプリントを差し出す。
そこにはツバサの各教科の点数と、学年順位が並んでいる。
「どの科目でも成績上位者に名前がのっているじゃない。各教科の先生があなたのことを優秀だと褒めていたわ。ちゃんと努力できる子なんだって」
「……それって、本当ですか?」
ツバサの問いに、鈴原は優しい笑みを浮かべる。
二十代半ば、教師二年目で親しみやすい姉のように頼りになる先生。
そんな彼女がツバサの手を握りしめる。
「もちろん、本当よ。先生があなたと同じ学生だったら勉強を教えてほしいくらいだわ。自信を持っていいわ」
「ありがとう、ございます。思えば先生には頼りっぱなしで、申し訳ないです」
「いいのよ。これくらいのことならいくらでも私が励ましてあげるわ。あなたの頑張りは充分に知っている。絶対にこのことは忘れないで」
「わたし、どんなことがあっても先生の言葉を信じます」
ツバサの目に涙が光る。鈴原はハンカチを取り出し、生徒に手渡した。
そして、ツバサの肩に手を置く。
「――そう……ならここからは、少し真面目な話をしましょうか――」
「……えっ?」
ツバサが顔を上げると鈴原は静かに微笑んでいる。
ただし、目は笑っていなかった。
「ごまかさずにハッキリというわね。あなたはこのままじゃ退学です」
「先生。成績がいいって、今褒めてくれたばかりじゃないですかっ!」
ツバサは悲鳴のような声を上げた。
「学科は申し分ないわ。でも、あなたも分かっているとおり、ここは進学校じゃなくて『魔術』を学ぶ学校よ。魔術を扱った『実技試験』の点数が全て。それが低いと当然退学。どうしようもないの」
鈴原はもう一枚、プリントを取り出す。
それは中間テストの前に行われた『第一期実技試験』の結果。
「『E判定』です。ちゃんと覚えてます」
「これはエラーの『E』。つまり『0点』ね。この学校ができてから初めてのことらしいわ」
「うぐっ……」
突きつけられた現実に、ツバサは言葉をつまらせる。
「……わかっていました。最初の試験は開始時間に間に合わなくて失格。再試験のとき、わたしは何もできませんでしたから」
「聞いているわ。ちょうど復学したばかりだったものね。せめて再試までに力になれればよかったのだけど。私も気づいて上げられなかった。未熟な先生でごめんなさいね」
「そんな、鈴原先生にはいっぱい助けてもらっています。それにきっと、少し練習したぐらいなら、いまとそう変わらないと思いますから……」
弱々しい笑みを浮かべながら、ツバサは肩を落とす。
「知っているとは思うけど、夏までに行われる魔術の実技試験は二回。各試験が50点の配点で、第一期と第二期を合わせた点数が評価となります」
「つまり、第一期の点数が0のわたしは……」
「ええ、『第二期実技試験』で満点を取らないといけないってことよ」
そんなこと不可能だ、とツバサの口から本音がこぼれそうになる。
鈴原も同じ考えらしく渋い顔をしている。
ツバサはしばらく口を閉じたまま、ぐっと押し黙っていた。
やがて、おもむろに椅子から立ち上がると、鈴原に対して頭を下げる。
「先生、こんな私にお時間をとらせて申し訳ありません。あとは自分でなんとかします。たとえ、これで退学になったとしても、自分のせいです。もう高校生なんですから……」
遠く実家を離れると決めたとき、家族を心配させないようにと、ツバサは一人でなんでもできるように練習してきた。鈴原先生が親身になってくれるのは涙が出そうになるほどうれしい。だけど、いつまでも誰かに甘えてばかりいられない。
「まって浦風さん。すわってちょうだい」
「少しでも勉強しないと。この土日で遅れをとり戻さないといけません」
「そうね。でも独学じゃ限界があるわ。魔術の教授資格を持つ先生の下で教わる必要がある。そう思わない?」
ツバサは諭され、子どものようにしゅんとする。
「はい、その通りだと思います。でもダメでした。教授先生たちはお暇じゃないといって断られました。そもそも、落第点をとった生徒に時間を割くことは無駄だと」
「……私が教えられたらよかったのだけど、一般教員に資格はないの。実技となると、どうしても実際の練習が必要になるから」
そんな顔をしないでください、そう声にしようとしたが、ツバサは言葉がでなかった。
誰だって、落第の可能性がある生徒の面倒を引き受けようとは思わない。
もし、同じ時間を費やすのならば、自らの研究か有望な才能を持った生徒のために使う。
高校生のツバサでもその考えが頭に浮かんだ。
胸の奥から喉元へ、心の中につもった苦しさが、彼女の瞳からあふれ出そうになる。
「一人だけ、あなたを助けてくれそうな教授がいるの。いまはゼミを開いていないけど」
「そんな人がいるんですか?」
「ええ、嘘じゃないわ。その人なら、いまのあなたの状況を変えてくれるかもしれない。ただね、彼をあなたに紹介することが正しいか、正直迷っているの」
「わたしの成績じゃ、やっぱり断られて――」
「心配なのはそのことじゃないの。問題があるのは彼の方。正直に言って、彼は学校一の変わり者で、教師としては失格、いいえ、破綻者といっても過言じゃない。……でも、悪い人ではないし、なにより魔術に関していえば、誰よりも優秀な人であるのは保証するわ。だって、彼は間違いなく、稀代の『天才』よ」
鈴原は苦い顔でそう言った。
ツバサはごくりとノドを鳴らす。
覚悟を問われているみたいに、空気が重くなったように感じた。
「……お願いします。その人を私に紹介してください。この学校で勉強し続けるためなら頑張れると思います。まだ退学したくありません」
「そうね。だけど、関わらない方がよかった、と感じるかもしれないわよ?」
「そうなのかもしれません。でも、大丈夫だと思います」
「……なぜそう言えるのか聞いてもいいかしら?」
鈴原が優しい声で尋ねると、ツバサはまっすぐな瞳で答えた。
「だって、先生がわたしのために提案してくれたことですから。わたし、先生を信じます」
彼女は不安そうな目をしながらも、そういって照れくさそうにはにかんだ。
静かになった職員室。
ツバサは丁寧に頭を下げて部屋を出て行った。
鈴原は一人、彼女との会話で使った書類をファイルに挟み、机の引き出しへとしまった。
さっきの彼女の言葉に、自分の頬が緩んでいるのを感じている。
教師になってよかった、その嬉しさが自然と胸の奥からあふれてきた。
けれど、鈴原に芽生えた感情は、それだけではない。
同時に、ツバサにたいする心配と、ほんのちょっぴりの罪悪感が湧き出る。
『堕ちた天才』
そう呼ばれた彼が、鈴原の大切な生徒を救ってくれるのか。
あるいは、ひたむきな彼女が、彼の心を動かすのか……。
鈴原は小さくため息をついた。
そして、祈るかのように目を閉じる。
――どうか、この出会いが良い方向へすすみますように。