第1話 ~プロローグ~
飛行機が空を逆さに泳ぐ。水の中の魚のように。
尾びれの先からまっすぐと雲を描きながら。
地に立つ人には届くことのない、遥かな高さにある蒼海。
人類が空に進出して一世紀。飛ぶことを願っていく千年。
虫のように、鳥のように。空駆ける羽を手に入れ、自由に、思うがまま高く遠くへ。
人はいつだって空に憧れてきた。
手を伸ばし、焦がれ、胸のなかに渇望の火を抱く。
やがてその熱は一握りの天才を突き動かし、彼らの湧き出る発想と研鑽された技術により、人は翼を手に入れた。
そして、それは現代も変わらず、人は手を伸ばす。
大空にかける新たな夢を、それぞれの胸に抱いて。
春風が吹いて桜の花びらが舞う。
柔らかく、頬を撫でるような暖かな軟風。
視界をさえぎる雲一つない快晴の一日。
航空魔術教育学園、通称アカデミー。その入学式。
真新しい制服を着た新入生。胸のうちからあふれ出る期待に目を輝かせた新芽たち。
視界をさえぎる雲一つない快晴が、彼らを祝福していた。
真新しい校舎の一室。
中庭に面した教室の窓から、一人の男が椅子に座ったまま仰向けで半身を乗り出し、干された布団みたいな態勢で冬の名残りある空を見上げていた。
男は髪を重力に引かれたまま、ナマケモノのように動かず、死んだ魚の目をしている。
その手にはプラスチックの容器と、一本のストローが握られていた。
――枝からリンゴが落ちたときから、人は重力に逆らってきた。ライト兄弟の成し遂げたことは、言ってしまえば人が地球を屈服させたに等しい。自由という翼は文字通り、人類を飛躍させ、社会を発展させた。よくも悪くも――。
男は、手に持ったストローを口にくわえ、そこへ息を吹き込む。
桜の花びらみたいに五つに裂かれたストローの先から、透明な七色に光る膜がふくらむ。
シャボン玉は、男の意思に比例して大きくなっていく。
そして、ひときわ強く男が息を吹き込むと、シャボン玉はストローを離れ、旅立った。
完成された球体となり、重力という理から離反するように、風に揺られ、空に浮かぶ。
透明なその表面には、虹色の輝きが波紋を広げている。
まるで夢の結晶のようなそれを、男は目を細めて眺めていた。
けれど、シャボン玉は前触れなく、パチンと消えた。
はじめから何も存在しなかったかのように。
校舎の扉が勢いよく開かれ、一人の女子生徒が飛び出してきた。
紙で作られた真新しい折り花を胸に咲かせた少女。
しんと静まり返った中庭を、彼女はパタパタと靴を鳴らしながら走る。
何かを急いでいる。
彼女はめでたい日には似つかわしくない。焦りと不安がにじんだ顔をしていた。
そんな彼女の視界の端で、無邪気なシャボン玉たちが空へと舞い上がる。
しかし、彼女はその泡に気づくことはなかった。
中庭を駆け抜け、学生寮の方へと去る。
男はちらりとだけその少女を視界にとらえた。
しかし彼が少女に関心を持つことはなく、自らの遊びへと意識を戻す。
再びストローを口にくわえ、思いっきり息を吐きだす。
妖精のような小さな泡たちは、すぐさまバラバラに自由を求め、風に乗って空へと散る。
――そう。
このときはまだ。彼らが互いにぶつかり、交差することは無かった――。