Summer record
見上げると、ちぎって放ったような雲が空を漂っている。
秋の到来を告げる、いわゆるうろこ雲ってやつ。
気温はまだ高く、お世辞にも涼しいとは言えない。
それでもやっぱり、夏はもう、そこにはないのだと実感してしまう。
君のいた夏は、もう―――――。
*
夏は受験の天王山、そんなキャッチコピーというか、合言葉を聞いたことがある。
現に俺の通う学校も、夏は課外で忙しく、模試やら何やらに追われていた。
いかにも「自称進学校」らしい感じ。
予備校もない、ド田舎の学校であるため、受験対策はあくまでも学校の授業や自分で進めるしかなかった。
最も、大学に行きたい理由なんて特にない。
社会に出るまでの少しばかりの猶予を得るために、今はシャーペンを動かしているだけ。
「大学には色んな人がいるよ。行くだけでも面白いから」と、ただあっけらかんとその少女は口にしていた。
……いや、少女というと語弊があるかな。
少女の年齢は俺の一つ上だったし、髪も染めていた。
ただ、俺よりも頭一個分は低い身長と、時折見せる幼めな態度が、俺の認識を女性というよりは少女たらしめていた。
「アンタってホントに余計なこと考えるよね」
大学に行ってもやりたいことがない、という話をしていたときだった。
「そんなの大学に行ってから考えればいーじゃん、ウチみたいに」
長い焦げ茶色の髪の毛を、クルクルと指先で弄びながら少女はそんなことを言う。
「……それじゃ、大学に行けば分かんの? 何したいか」
目線はあくまでも問題集に向けたまま、俺は何気なく聞いてみる。
するとバツの悪そうに黙り込む少女の姿を、視界の端で捉えた。
「……ウチのことは、別にどーでもいーじゃん」
「大体、夏休みだってのに何で地元に帰って来てんだよ。バイトでも何でもすればいいのに。ココよりは遊ぶ場所もたくさんあるんだろ?」
「ウチがどこで過ごそうが、別にアンタに関係ないでしょ!!?」
ズビシッ!という擬音が似合うほど綺麗なまでの指差し。
……友達とかいないのだろうか。
別に詮索しようって気もないけど、せっかくの夏休みに俺に構っている辺り、察する部分がある。
「そんなことよりもさ、アレ明日だよね?」
「……アレ? って何?」
真意を汲み取れない俺に、少女は頬を膨らませ、眉間にシワを寄せている。
余談だが、そういう表情をするから実年齢よりも幼く見えるというもの。
都会に行ったんだから、髪とかファッションもそうだけど。
もっと内面の部分を大人に近づけた方が良いと思う。
「稲荷神社のお祭り!! 何で忘れてんのよ!!!」
「……声がでかい。ここ一応図書館」
一応、と付けたのは、俺ら意外に利用者が少ない現状によるものだ。
ガンガンに冷房を付けているが、席に着いているのが俺らだけ。
電気代の無駄だな。
「祭りって……、もう何年も行っていないだろ」
祭り。
少女と俺の家の最寄りの神社で毎年行われる例大祭のこと。
小規模ながらも屋台が出たりして、そこそこの賑わいを見せるため小学生の頃は足繁く通っていたものだ。
でも、それも小学生までの話。
中学に上がってからはあまり興味も薄れ、いつ行われるかも分からなくなってしまった。
「……明日、一緒に行こーよ」
「……一応聞くけど、二人で?」
コクンと何かを期待するかのように頬を赤らめながら、少女は頷く。
……どういう風の吹き回しだろうか。
今更、俺と?
田舎のイベントとは言え、男女二人で出かける……。
「それは、……デートってことですか?」
勘違いの種は事前に潰しておかなければならない。
少女にも地元に友達はいるはずだった。
俺を誘う……?
しかも二人で?
「……デート、でいいよ」
「……!!」
何だそれ、今更。
ホントに今更だな、おい。
早速胸が高鳴りだしているのが悔しい。
どんなに平静を装っても、我慢していても、内なるモノは自然と外へと溢れてきてしまう。
「京ちゃんと、二人で行きたい」
「でも、千里。―――――匠先輩は?」
そう。
千里には彼氏がいた。
俺の1個上で、中学の頃からずっと付き合っている人。
今年の春に大学こそ別々に進んだ。でも、今も関係は続いているはずじゃ。
「たっくんのことは……、今は忘れてよ」
潤んだ瞳で、ただ真っ直ぐに俺を見つめている。
千里の真意は掴めない。
匠先輩と別れたのか?
別れていないのか?
しかし、含みのある言い方だからこそ余計に混乱する。
明言はしていない。
俺に気があるのか?
もはや、問題集どころではなくなっていた。
「明日六時、境内の鳥居のところで、待っているから」
情けない表情を浮かべている俺に対し、千里はただ短くそれだけ言い、図書館の入り口に向かって駆けていく。
後に残されたのは、ただただ呆然とした俺だけ―――――。
*
俺は、千里のことが好きだった。
ただの幼馴染みから、初恋の相手に変わったのは中学の頃。
季節も丁度今ぐらいのことだった。
拙い言葉で思いを伝えた。
恥ずかしいのを必死に堪え、言葉を紡いだ。
でも―――――。
『ウチ、好きな人がいるんだ』
結果は惨敗。
俺が千里を好きなように。
千里にもまた好きな相手がいた。
ただそれだけの話。
俺がその相手じゃなかった、ただそれだけの話だ。
違ったのは結果。
俺の思いは届かなかったけど、千里の思いはめでたく届いたようだった。
俺の告白の一ヶ月後くらいには、もう千里と匠先輩が付き合い始めたという噂が広まった。
匠先輩は、地元でも有力な地主の跡取り息子だった。
……時代錯誤な言い方だけど。
しかし、田舎では大きな意味を持つ。
千里が権力に惹かれて付き合ったとは思っていない。
純粋に一人間として、匠先輩を好きになったんだろう。
仲睦まじく二人で歩く二人の姿を見る度に、俺はそう実感した。
人の気持ちは移ろいやすいモノ。
千里も。
いつか俺になびいてくれるかもしれない。
いつか俺と手を繋いでくれる日が、くるかもしれない。
だから、今は自分の気持ちを封じ込めよう。
そんなことを思いながら、とある田舎の、とある中坊の恋は一旦終焉を迎えた。
しかし。
気持ちが移ろってしまったのは、俺の方だった。
幼馴染みから初恋へ、そして、初恋からただの幼馴染みへと。
特別ではなく。
何てことない、ただの少女Aに千里は戻ってしまった。
朝起きたときも、風呂に入っているときも、授業中のふとした瞬間も、千里のことを考えることはなくなってしまった。
ようやく、俺自身も前へと進み始めようと思い始めた矢先に。
一体なぜ。
「あっ……、京ちゃん」
稲荷神社の鳥居前。
昨日約束した場所。
そこに、千里は一人で佇んでいた。
千里は朝顔の柄の浴衣を着ていた。
不意に、昔の千里の姿と重なる。
そうだ。
記憶の中で笑っている千里は、朝顔柄の浴衣を着ていた。
袖をまくり、金魚すくいのポイを得意げに持っていた。
それは「幼馴染み」だった頃の姿に他ならない。
しかし、今目の前にいるのは―――――。
「似合ってる?」
「……うん、まあまあ」
恥ずかしくなり、目線を逸らしながら呟く。
不思議だ。
長年我慢して、苦しんで、ようやく折り合いを付けた感情なのに。
こんな簡単に復活してしまうのか?
こんな簡単に、思いが蘇ってしまうものなのか?
目の前にいる千里は、紛れもなく俺の初恋の人の姿だった。
「……そっか。ありがと」
表情を見られたくないのか、千里はそっぽを向きながらそれだけ呟く。
耳が赤くなっているところを見ると、照れているのは明らかだ。
昔から千里は、恥ずかしくなったり嬉しくなると耳にでる。
分からない。
千里が何を考えているのか分からない。
昨日夜通し考えても答えは出なかった。
―――――答え。
それは多分千里本人に聞かなければ分からないんだろう。
でも俺は、千里の朝顔柄の浴衣を見たときに、諦めてしまった。
答えを聞くことを、である。
今はただ、千里と一緒に祭りにいるという事実を大切にしようと、それが今出せる俺の答えなんだと、そう自分自身に言い聞かせた。
子どもの頃は、ただ目の前の娯楽に全力で向き合っていた。
娯楽に向けられる熱量が多ければ多いほど、その者の精神年齢が幼いのだと俺は悟る。
―――――童心を忘れない人を、俺は尊敬する。
「あー!!! また、やぶけた!! もう一回!!!!」
昔と変わらず、金魚すくいのポイを屋台の親父に要求する姿。
下手くそなくせに、諦めると言うことを知らない。
諦めの悪さは相変わらず一級品だ。
「焼きそば、食べたい!! うわ、りんご飴あんじゃん!! ちょっとちょっと京ちゃん何食べる!!?」
結局全部食べた。
屋台で売っている食べ物は全部食べたんじゃないだろうか。
その細い体のどこにそんなに入るのか……。
そう言えばそうだった。
一年のお小遣いを貯め、全てこの祭りに費やすほどに千里は全力だった。
俺が千里に告白して玉砕するまで、二人で毎年何円使えるか競ったものだ。
目の前で楽しげに笑みを浮かべている千里は、何も変わっていないように見えた。
その笑顔の真意は分からない。
きっと、言うつもりはないんだろう。
俺ももう、聞く気はなかった。
ただこの夢のような時間が続けば良いと、そんなことを考えていた。
だから。
千里から抱きしめられたとき、俺の心臓は数刻その鼓動を止めた(ように感じた)。
もう祭りは終わり、訪れていた人も帰路につき始めた矢先だった。
「……まだ帰りたくない」と駄々をこねる子どものように、千里は俺の手を引っ張った。
点々としか街頭のない田舎道。
あまり意味がないように思われるボンヤリとした光も、道行く人にとっては生命線。
舗装が行き届いていない道をつまずかないように気をつけながら歩いていた。
その最中―――――。
汗ばんだ千里の甘い匂いが、鼻腔をくすぐる。
それもそのはず。
白い綺麗な手が、俺の体に回されていた。
後ろから。
驚き、バランスを崩し、一旦千里の手が離れる。
千里の方を向くと、今度は目の前に紅潮した千里の顔があった。
「っ……!」
二歩、三歩、後ずさりしながら距離を取ろうとしたが、それは叶わなかった。
「っ!!」
千里に、前から抱きしめられる。
体の自由がきかない。
石になってしまったかのように動かない。
体の制御が効かないのは、弱い千里の力によるものじゃない。
ただ心臓だけが強く早鐘を打っている。
熱い、熱い、熱い、熱い、熱い―――――。
耳の奥が痛い。
心音がうるさい。
これはどっちの……?
「―――――!!」
俺の胸に埋めた千里の表情は分からない。
ただ、耳が真っ赤―――――。
何をしても、多分千里は拒まない。
根拠はない。
でも直感的に、そう確信した。
千里の細い腰に手を回そうが、彼女の手を握ろうが。
今の千里は全て受け入れてくれる。
頼りない街灯の明かりが揺れる。
蒸し暑い夏の大気が満ちた夜の中で、静寂が俺らを包む―――――。
千里がゆっくりと顔を上げる。
羞恥で上気した頬。
潤んだ瞳。
僅かに揺れる唇。
今の、千里は。
全部。
「っ……ん」
重なる唇。
漏れる吐息。
「京……ちゃん……」
鼻腔をくすぐった千里の匂いが、すぐ目の前にあった。
頭がぼーっとする。
今はただ。
千里が欲しい。
「ん……、京ちゃん……」
最後に食べたりんご飴の味。
僅かに甘い唾液。
麻薬のように、脳髄が痺れるかのような―――――。
千里の小ぶりな唇を、何度も何度も。
不意に。
閉じられていた千里の目が開いた。
「はぁ……はぁ……、京……ちゃん」
何かを我慢するかのように。
耐えるかのように。
千里の口は僅かに動き、そして閉じられる。
「千……里……」
「あの……ね。ウチ、ずっと……京ちゃんの……こと」
*
あの時。
千里は何て、言いたかったんだろうか。
何を伝えたかったんだろうか。
結局千里の口から語られることはなかった。
千里はあの祭りの翌日。
地元を離れ、元の場所に帰ってしまった。
連絡しよう思えばできた。
でも、しなかった。
俺には、できなかった。
あの夜のことが、無かったことになってしまいそうで。
「なんのこと?」
そんな返信が返ってきたら、俺は多分もういよいよ前に進めなくなってしまう―――――。
後日、母親からある噂を聞いた。
千里の家は、地主である匠先輩の家から多額の借金をしていたらしい。
そして、それを最近ようやく返済し終えたことも。
……余談、である。
*
本日分の考査を終え校門を出ると、田舎の風物詩であるアキアカネが上空を飛んでいた。
その奥には、―――――うろこ雲。
夏は、その残滓を残してどこかへと行ってしまった。
今思い返してみても、夢だったのでないかと思う。
朝顔柄の浴衣も。
俺へと向けられる笑顔も。
―――――あの、唇の熱さも。
全部、全部。
「……」
大学に行く理由、できたかもしれない。
そうだ。
君の街に行って、聞こう。
あの時。
あの晩、俺に。
何を言いたかったのか。
僅かに角度を落とした太陽、そこから発される陽光が乱反射し、眩いまでに視界を彩る。
いつまでもこんなところに立ち尽くしていても仕方がない。
そんなことは分かっていた。
それでも俺は。
いつまでも。
いつまでも。
九月の青空を、ただ、眺めていた。