第九話
走った。ひたすら走った。何もかもから逃げ出すかのように、初音は走り続けた。
やがて息が上がり、疲れ切った両脚から力が抜け、その場にへたり込んだ。
河川敷の砂利が膝にめり込み、肌が裂けて血が出た。だがそれもどうでも良かった。
両目から涙がこぼれる。哀しさ、喪失感、虚無感、乱れていく自身の心への混乱。
人外の存在と遭遇した事実を、そしてそれが一時の事ではないことを、さくらだけはわかってくれると初音は期待していた。
勿論、これは勝手な期待であった。
彼女が鬼であることが事実だとして、初音自身が自分の心境をよく理解していないのに、わかってくれるように勝手に願ったのだ。
だが当然のようにさくらには話が通じなかった。もう終わった物だ、だから怖いことはないと。
違う。違うのだ。終わったこと、ではないのだ…
「………どう言えばいいかなんて、私にもわかんないよ…!」
初音は顔を上げ、闇が深まり始める周囲を見渡した。
河川敷。土手の向こうの住宅街。夕暮れの日差し。木々や草を揺らすそよ風。
自分自身の手。膝の下の石がめり込む痛み。流れる血。
全てが目の前にありながら、初音は全てを虚ろにしか感じ取れない。
それはまるで、今なお夢の中にいるかのように。
離人症という精神疾患がある。
自分自身が自分の肉体を傍観者として眺めているような感覚、あるいは周囲から遊離しているような感覚が続く精神障害の一種だ。
一般的には強いストレスが原因とされている。
初音の感覚はそれに似ており、ある意味では確かに強いストレスが原因ではあった。
だが、決定的に異なるある出来事が、今の初音の白昼夢のごとき感覚を引き起こしていた。
先刻もさくらに説明したできごとである。その中で、初音の現実感が崩壊するほどのことが起こったのだ。
「でもっ…でも…あの人なら…あの子ならって……」
自身にも判らぬ虚無感と苦しみの答えを見つけてくれるのではと、期待していた。
長い長い時を生きてきたのが真実であれば、わかるかもしれないと。
頬を冷たい雫が流れる――同時に地面の砂利にも雫が落ちてきた。
雨が降ってきたのだ。上空にはいつの間にか黒い雲が沸いている。
小雨は瞬く間に大雨になり、たちまち初音の全身と地面を濡らしていった。
叩きつける雫の音もまた、初音の耳には幕一枚を隔てたかのように遠く感じる。
周囲からは人の気配が消えていた。皆、急な雨に急いで家に帰ったのだろう。
ただ一人、初音は河川敷に残されて泣いていた。
「…どうしたら…いいの」
初めて歩くこの町で、引っ越したばかりの家とまるで異なる方向に走り続けた。
どれだけ走ったのか、まったく見覚えのない景色だ。
スマートフォンはポケットの中にある…連絡しようと思えば、できるのだが。
「……いいや、もう」
あの日からずっと他人に見えていた両親、祖母に、今更助けを求める気にはなれなかった。
もう帰らず、ずっとここにいよう…そう初音が思った時。
雨とは異なる、水のはじける音が聞こえた。甲高い鳴き声も。
振り向くと、茶太郎がリードを引きずりながら走ってきた。
茶太郎は初音の胸に飛び込み、頬をぺろぺろと舐める。
「わふっ! わふわふ!」
「……茶太郎…」
あの日の直後から飼い始めたため、初音と茶太郎は決して長い付き合いではない。
にもかかわらず、心配して駆けつけてくれたのだ。
初音は温かな茶太郎の体を抱きしめた…しかしその温もりを感じて尚、立ち上がる気にはなれなかった。
「……茶太郎だけだよ、私のことを信じてくれるの」
「わふっ」
「お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、前の学校の子達も、みんな私をうそつきって言ったけど…
茶太郎だけは、そんなこと言わない……」
既にすべてを諦めきった初音の虚ろな瞳が、茶太郎の悲しげな顔を映して哀しく笑った。
「……茶太郎がいれば、もういいや…お父さんたちだって…心配なんか、してない…」
「わふ…」
「風邪ひいちゃうね…どこか、雨宿りしよっか…」
近場にあずまやでもないかと初音は探す。
せめて茶太郎が風邪をひかぬよう、雨宿りするつもりだ。
だが幸か不幸か、雨を避けられそうなものはなかった。
茶太郎が風邪をひいてしまいかねない…
そう思いながら、最後の希望すら断たれた初音には、そんな心配さえ夢の中の独り言に似ているように思えた。
「わふっ」
茶太郎が一声鳴く。僅かに声音が変わっていた。
ふと、甘い香りが漂い始めたことに初音は気づいた。
雨の中、濡れた花が周囲に咲いていた…否、目の前で草が生えて突如その先端に花が咲き始めたのだ。
たちどころに花が咲いていく。
赤、紫、黄色、青、緑、桃色、橙色。極彩色の花がいくつも、いくつも。
美しい花だった。が、その色彩には見覚えがあった――
「綺麗…」
初音は花に歩み寄り、かがんで見下ろした。茶太郎がじたばた暴れているが、初音は気づかない。
花には歯が生えていた。ゆがみ、ひろがり、いくつもの歯や眼球が生えていた。
指も生え、表面には何十匹もの蛆虫が湧いていた。
――あの日見た花だ。あの日と同じ。美しかった。
「きれい…やっぱり…このお花、きれい……」
指が触れた肉の花びらの感触に、甘ったるい死骸の香りに、初音はやっと現実感を覚えて心の底から安堵した。
背後で茶太郎が咆えるのも構わず、初音は花を愛で続けた。
「ああ……やっと………やっと…
ほんものにさわれた……」
「――わふっ! わふっ!」
茶太郎が河川敷に生えた大きな木に向かって吠える。虚ろな瞳の初音たちの頭上で、稲妻が閃いた。
赤い稲妻が――血のように赤い稲妻が激しく閃き、雷の音がどろどろと轟く。
幸福感に呆けた顔の初音が顔を上げる。河川敷に生えた木が蠢いた。
否…木だと思ったのは、巨大な虫のような生き物だった。
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