第八十八話
そして、千歳は初音の方を向く。少しだけ物悲しい表情。
「それに、初音さんのこともあるから…
みんなでちゃんと卒業してほしいですからね」
全員の注目があつまり、初音は一瞬だけたじろいだ。
鬼となった自分が学校に通って本当に良いのか。
初音は逡巡する…が、肩に実と成子の手が置かれたことで、すぐに我に返った。
「お父さん、お母さん……みんな…先生…
私、学校に通っていいのかな…本当に、いいのかな…?」
「もちろんだ、初音。いっぱい勉強して、いっぱい友達と遊びなさい」
「そうよ。小学校最後の年なんだもの、ちゃんと卒業なさいな」
「わふ!」
両親と茶太郎が、初音の望みに答える。
嬉しくなり、初音は微笑んだ。その桜色の髪をさくらの手が優しく撫でる。
「良かったの、初音」
「フニ~」
「うん…!」
心の底から嬉しそうにほほ笑む初音の姿に、級友たちに千歳、そして保護者達もつられて微笑んだ。
鬼である巌十郎、イト、そして辰丸も少々複雑な表情だが、どこか嬉しそうだ。
ともあれ、初音は無事小学校に通えることとなった。
やがて解散となり、皆が石段を下りていった。寧々子と祖父がそれを見送る。
晴れ渡った夜空の下で、巌十郎がイトを辰丸に乗せ、さくらに手を伸ばした。
別れの時が来たのである――初音を迎える準備のため、鬼煌院家はかくれ里に戻るのだ。
初音は名残惜し気にさくらを見つめる。
勿論、これが今生の別れということはない…ただそれでも、愛を伝え合ったばかりで別れるのは、やはり寂しい。
と、初音が思っていると、さくらは何故か父の手を取らず、代わりに目を伏せてはちらちらと初音を見ている。
初音がその様子に首をかしげていると、巌十郎も同じく疑問に思ったようだ。
「どうしたのだ、さくら」
首をかしげる巌十郎の前で、さくらは両手をもじもじさせ、唇を尖らせていた。
やがて意を決し、両手を握ってさくらは顔を上げる。
「その、父上、母上…あの……」
「うむ?」
「どうしたのです、さくら」
「……お願いが、ございます」
さくらは両親にものを頼むことに慣れていないらしく、口調がたどたどしい。
巌十郎もイトもとくに急かさず、黙り込んださくらの言葉を待った。
深呼吸し、初音に寄り添ったさくらが、うつむきながら両親に請う。
「あの…今宵は、初音と、いさせていただけませぬか…
膂力の押さえ方を教えねばなりませぬし……
それに、その…」
消え入りそうな声での頼みに、しばしその意味を反芻した後、初音の顔が赤くなった。
意外な頼み…というより、娘からの頼みそれ自体に驚いたのか、巌十郎もイトも、そして辰丸も目をしばたたいた。
顔を上げたさくらの潤んだ目を見て、初音はそっと手を握ってやる。
これはさくらの必死の頼みなのだ。
かくれ里に帰らねばならぬ時に、ただ愛しい者といたいという、ともすれば我儘とも取れる願い。
だが我儘と言われても、離れたくないという強い想いに、さくらは意を決したのだろう。
初音にもさくらの必死さが伝わった。だから、さくらの手を握ってやりつつ、自身も巌十郎らに頼む。
「私からもお願いします…せめて今晩だけでも、さくらちゃんといさせてください」
「わふ!」
初音と茶太郎の助勢を受け、巌十郎とイトはしばし視線を交わすと、さくらの顔を見て柔らかく微笑んだ。
甘えるのが下手なさくらが自分の意思で願うとなれば、やはり親たる彼らも嬉しいものがあるのだろう。
「良かろう。今宵は初音殿と過ごすが良い」
「……よろしいのですか?」
「無論じゃ。明日の日が昇る頃に迎えにゆくから、それまでに支度するのだぞ」
「初音様をお迎えする備えは少し待つよう、皆に言い置いておきますからね」
父と母の返答に、さくらの顔がパッと明るくなる。
両親の前で見せるこの子供らしい、愛らしい表情こそが、さくらの本来の姿なのだろう。
再び視線が合い、初音もともに喜ぶ。
「かたじけのうございます、父上、母上!」
「うむ。では我らは先に帰っておるぞ。
実殿、成子どの、それに初音殿。今宵はさくらのことをお頼み申す」
「はい!」
巌十郎が辰丸に乗る。初音はさくらと手をつなぎ、明るい声で返答した。
2人の仲睦まじい姿に、巌十郎とイトも微笑む。
巌十郎が辰丸の背に乗り、手綱を握った。
「ではまた後でな、さくら。――行け、辰丸!」
「ヒヒ~ン」
「何じゃまた、そのけったいな鳴き声…」
「本当に。いったいどこでおぼえたのやら」
どうやら、幸福そうな光景を見た後の特徴的な嘶きらしい。
そんなまったりした嘶きを上げつつ、辰丸は脱力した鬼煌院夫妻を乗せ、遥か遠くに飛び立った。
先日までスクナを封じていたという場所の方角で、彼らはそこからかくれ里へと帰るのだろう。
帰っていく鬼煌院夫妻を見送ると、初音とさくらを先頭に、花咲家の面々も家に帰った。
幸い、自宅は無事であった。幽世に変わる前から大雨が降っていたが、浸水や雨漏りなどはしていない。
家に上がって荷物を居間に置き、一家は座布団や床に座って体を休めた。
初音は時計を見た――すでに零時近い。
夜中に眠れぬことは何度かあったが、ほぼ夜通し起きていたのはこれが初めてだった。
「みんな、お疲れ様。片付けは明日にして、もう休もう」
「賛成。特に初音とさくらちゃんは疲れたでしょうから、先にお風呂に入っていらっしゃい」
「は~い」
「そうじゃの…」
実が言うと、成子を皮切りに、揃ってその意見に賛成した。全員が疲れ切っていた。
「実さんも明日は流石にお休みよね?」
「どうかなあ、大雨が降ったし…
でもとりあえず、午前中は休ませてもらうことにするよ」
実にしろ成子にしろ、初音やさくらのように、スクナと相対したわけではない。
だが自分達の娘を巻き込んだ恐ろしい運命が終わり、彼らはすっかりくたびれた顔をしていた。
スクナが生きている間は、それこそ生きた心地がしなかったであろう。
きのめが幾分か平気そうな表情なのは、単に精神力の強さの差である。
そんなきのめが立ち上がり、湯を沸かすために浴室に行こうとするが、それをさくらが止める。
「…すまぬ。風呂の前に、初音の膂力のことを皆に教えておかねばならぬ」
全員が注目する中、さくらが説明を始めた。
初音が鬼となった以上、既に家族全員がその膂力については認識していた。
先ほどスクナを討ち果たした後、初音が家族を抱きしめなかったのはそのためだ。
全員が初音の気遣い、そして迂闊に力を籠められぬ悲しみを知っている。
この説明は改めて憶えておいてほしいと、さくらが敢えてするものだ。
「今の初音の膂力では、少し力を入れただけで、様々なものが壊れてしまう。
茶太郎は大丈夫であろうが、他は物であろうと人、獣であろうと同じじゃ。
しかし、わらわは日が昇るまでに帰らねばならぬ。
力の押さえ方を教えてやれるのは今宵だけじゃ」
そう言って、さくらは隣に座る初音を抱き寄せた。
「初音、なによりお主自身が心せねばならぬ。
わらわが迎えに来るまで、力の押さえ方をよく憶えておくのじゃぞ。
今のお主は鬼なのじゃ。人の扱う物、全てを容易く砕いてしまうからの。
茶太郎もしかと見ておくのだ。良いな」
「うん。気を付ける」
「わふ!」
初音は改めて、自分が鬼であり、人間など及びもつかない腕力を持っていることを意識する。
初音の意思を確認すると、つづけてさくらは実たちにも言う。
「おとう殿たちも、初音が力を揮い過ぎぬように手伝ってやっておくれ。
学び舎の童子ども、先生どのにも言うてくれると助かる」
「うん。任せてくれ」
実たちもうなずく。
――初音が現世に居られる時間は、もう残り少ない。
その短い時間で、初音が誰かを不幸にしないために。
家族である自分達が支えねばならない。
初音は己の手を見つめた。
力加減を誤ってドアノブをもぎ取ってしまったことはあるが、今の初音はその程度のことが日常的にできてしまう。
そして、この家にはきのめがいる。年齢のこともあり、実や成子よりも体は頑丈ではない筈だ。
他にも学校の友人たち、茶太郎の散歩中に出会うよその家の犬。
家に並ぶ家具。自分の部屋の机。教科書やノート、文房具、学校の設備、ガラス窓。
自分が今まで触れてきたものはいくつもある。
それら全てを容易く、今は自分の手で破壊できてしまう。
かつてさくらが語った『ひとでなし』になってしまった人々は、その事実に…
大切なものを自らの手で、力を籠めることなく砕けてしまう事実に、心が折れたのであろう。
だが、初音にはさくらとともに生きる意思がある。
支えてくれる家族、友人たちがいる。
かくれ里へと渡るまで、彼らと共に過ごすために。
初音は自らを戒め、大切にすることを胸に誓った。
その後、きのめが風呂の湯を沸かす間、初音は力加減の仕方を学ぶこととした。
実と成子が不要な木材や石などを裏庭にあつめ、初音がそれを素手で(手が汚れないよう軍手は嵌めた)破壊を試みる。
石は多少力を籠める必要があるが、頑丈な木材などは軽く曲げただけで折れてしまった。
細い木の枝など、下手をしたら触れただけで折ってしまうほどだ。
さくらが人間の腕力で持てぬ鉄下駄を履き、悠々と歩くのも納得の筋力であった。
細い枝や抜けた雑草を両手で軽く引っ張り、ちぎれぬように力を抜く練習をする。
さくらとコロ左衛門、そして茶太郎がその光景を見守っていた。
やがて湯が沸いたところできのめが呼ぶ声が聞こえた。
練習をいったん終え、初音たちは家に上がった。
家族に促され、初音とさくらが浴室へ行く。
コロ左衛門と茶太郎は、その間にきのめが体を洗うこととなった。
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